女係長の由美はため息をつく。

「鈴木君、書類に不備が多すぎるわよ。なぜこんなに穴だらけで良いと思ったの」

「すみませんでした」



間延びした返事に申し訳なさは全くない。



「書類の項目を全て埋めるのはリスクヘッジでもあるし、不正や悪用を防ぐためよ。」



K人材派遣は自社ビルの裏手に駐車場があり、由美は自家用車で通勤している。



「おはよう茉莉ちゃん」

「由美先輩おはようございます」



後から入ってきた由美は、鼻筋の通った美人。茉莉の先輩にあたり、通勤時は既にパンツスーツを着ているためロッカーに鞄を置くだけ。



「茉莉ちゃん大変よね、私服通勤して、ここでわざわざ着替えてるんだもの」

「ほんとです。でも、すごくチカンに遭うんで。だからアタシ、わざとダサい服着てきてるんですよ」

「私の普段着よりはお洒落よ」

「そうだ、見てください先輩。これ、唐辛子スプレーです。暴漢対策で」

「強ければ良いってもんじゃないのよ。」

「スタンガンは無かったんで」

「強ければ良いって話しじゃなくて。襲われる前の対策が大事なのよ。残業はほどほどに、明るいうちに帰るとか。ペットカメラがいいのよやだ朝会始まっちゃう」



急かす由美に、後輩茉莉はロッカーを激しく閉め、更衣室をドタバタと出る。



女子更衣室が静まるのを聞き届け、藤井はラジオの電源を切る。仕掛けた盗聴器の近くにいれば、ラジオで盗聴電波を拾うことができる。藤井がいるのは、通勤時刻を過ぎた、ビル裏手の駐車場。たった一台増えていても気づかれない。



一度家に帰ろうと、藤井はぼろ車のキーを捻る。大きなエンジン音が鳴り、慌てて周りを見回す。走り始めてからフロントガラスの曇りに気づく。ワイパーでは消えない。



「内側かよ。やべぇ」



鼻息を荒くしたことで車内の温度が上がり、外気との温度差で曇ったのだ。慌てて窓を開ければ、冷たい空気が肌を刺す。



しばらく家で暇を潰し、コンビニを経由してからK人材派遣へ。駐車場に止め、ラジオのチャンネルを調整すると、今度はオフィス内部の音声を拾う。しかし彼女は自席を立っていて、代わりに男達の声を拾う。



「鈴木は係長を怒らせる天才だよホント」

「わざとです。美人女上司と喋りたくて。彼女がいるから俺は、このブラック企業を辞めずにいるんですよ」

「あの鬼上司にメロメロなのはお前だけ。皆は茉莉ちゃんを狙ってんだよ。係長と違って愛想がある。でもブラック企業なのは確かだよ。今年だけで何人辞めたか。最近もほら」



鈴木は唸り、机をリズミカルに叩く。



「藤……藤なんとか。中途で入ってすぐ辞めてったやつ。四十後半か五十前半くらいの」



盗聴電波に耳を澄ませていた藤井は、突然出てきた自分の話題に固唾をのむ。しかし、その話題は女子社員たちの会話が近づいてきたことで途切れる。藤井は目を閉じて、彼女の会話と咀嚼音を聞き、至福の時を過ごす。



そして夕方に女子更衣室の音を聞き、家に戻るという生活を藤井は繰り返していた。



しかし最近、欲が出てきた。帰宅する姿を遠目に眺めるだけでは物足りない。藤井は決心して、棚の上に作った彼女の祭壇から、鍵をつまみ上げる。これを手に入れるまでの苦労は途方もないものだった。まずロッカーの鍵を盗み出して複製し、次にロッカーの鞄から盗み出して複製した、自宅の鍵。会うつもりはないが、アパートに遊びに行こう。そうと決まれば、いつ替えたか分からないスウェットをどうにかしなければ。



「もうちょいまともな服ねえのか」



床に散らばった洗濯物から、昔のよそゆきを引っ張りだす。運転中うわの空になり、ヒヤッとした目に遭いながらも、彼女が暮らすアパートへ。壁の剥がれ掛けた塗装や軋む外階段から想定するに、かなりの築年数だろう。二階の彼女の部屋の前へ来た藤井は、ドアに予想外の存在を見つけ思わず触れる。後から付け足した、電子キーだ。箱の形をしており、ドア上部に貼り付いている。手持ちの鍵では従来の部屋の鍵しか開けられない。しかしプラスチック素材のようで、ドライバーがあれば外すことができる安物だ。出直しだ。



「お邪魔します」



誰もいないが挨拶を一応。ワンルームは小物が様々置いてあって女性らしく、藤井の興奮は最高潮を迎える。物色して帰るつもりだったが何もかもどうでもよくなり、会いたくて仕方が無くなる。待ち伏せようと、入り口のドアの裏に目をやる。なんということか、狭い幅の棚が天井まで届いている。これでは隠れようもなく、ベッドの下を覗くと今度は引き出し。引っ張り出すが奥にスペースはなく、押し入れを開けて仰天する。どこで買いそろえたのか、白い引き出しで埋め尽くされており、唯一コートを掛ける部分は開いていたが、上着をかき分けても男一人は入れない。しかし熱は冷めることなく、突然ねじ伏せられてようやく、急激に冷めた。頭だけ後ろを向くと、警官に押さえられている。手錠を掛けられ警官に引っ張られるように外へ出る。



鈴木が、ほらな、と隣の男性社員を肘で突いている。反対隣に、目を丸くして由美が立ちつくしている。藤井は愛しの彼女に向かい、「由美、由美」と何度も叫んだ。

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