第50話 第29局
金曜日、深夜、大学の休憩スペース。いつものように師匠と将棋を指す。
「そういえば、君は私のことを名前で呼んだことは無いよね。」
師匠の言葉に体がビクリと反応する。思わず、持っていた駒を落としてしまった。カチャンと音をたてて盤上に落ちた駒が、駒たちの並びをかき乱していく。
「あ、あわわ、すみません。」
慌てて駒の並びを整える僕。そんな僕を、師匠は不思議そうに見つめる。
「・・・そこまで動揺することだったかな?」
駒の並びを一緒に整えながら、師匠は僕に質問した。
「えっと・・・な、なんでもないですよ。あ、あはは・・・。」
実は、前々から、師匠が僕をからかってきたら、名前呼びで驚かせてみようと計画していたのだ。まあ、気恥ずかしさのせいで一度も実行に移せてはいないのだが。
僕の様子を不思議そうに眺めていた師匠は、突然「ふむ。」と一言つぶやき、何かを考え出した。一体何を言われるのだろう。心臓の鼓動が早くなるのが分かった。
師匠が口を開いたのは、数秒後のことだった。
「じゃあ、今から私のことを名前で呼んでみようか。」
「・・・え?」
名前呼び?今から?今まで気恥ずかしくてできていなかったのに?
師匠はじっと僕を見つめていた。その表情には、『期待』の二文字が浮かんでいる。逃げることは、できそうになかった。
「わ、分かりました。」
ゆっくりと深呼吸をする。そして、
・・・・・・
・・・・・・
「・・・し・・・し・・・し、師匠。」
・・・・・・
・・・・・・
「・・・すみません。」
がっくりとうなだれる僕。どうして最初の『し』は言えるのに、その後が言えないのか。
目の前には、きれいに駒の並べられた将棋盤。その色は、いつもよりも暗く感じられた。
「・・・いくじなし。」
師匠がぼそりと何かをつぶやいたような気がして、顏を上げる。だが、師匠は、いつものような穏やかな表情で僕を見つめているだけだった。
「師匠?何か言いましたか?」
「いや、何も。」
・・・・・・気のせいだったのだろうか。
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