第8話 トラブル
首藤盛重は郵便局での業務を終えると、ウォンジュンと共に住んでいるマンションまで徒歩で30分程かけて帰る。通勤路にはコンビニやチェーンの飲食店、洒落たカフェやダイニングバーが点在し、それらを盛重は「果たしてこの中のいくつが俺の人生に関わってくるだろう」と考えながら通り過ぎていく。
ある日の仕事帰り、通勤路にある店のうちの1つであるカフェのウィンドウ越しに、首藤盛重はまさかという人を見かけた。襟足の伸びたアッシュグレーのパーマに色白の端正な顔を持ったその人は、まさしく盛重が住む家の家主であるクォン・ウォンジュンその人で、彼は横顔のやたら美しい見知らぬ女性と向かい合って座り何やら話している。テーブルに置いた手には女性の手が重なっており、端から見れば仲睦まじいカップルである。
お前ゲイじゃなかったんか。疑念と共に胸の奥がモヤッとし始めた盛重は衝動に任せて店に近づき、ウィンドウの前、ウォンジュンの視界にのみ入るよう女性の斜め後ろに立ちウォンジュンを睨みつけた。ウォンジュンはすぐ盛重の存在に気づき、ツリ目気味にアイラインの引かれた目を大きく見開くと、女性の手に包まれていた自身の手を引き抜きスマホを取った。そして何かを打ち込み始める。
その間、ウォンジュンの様子から何か察したらしく女性が背後を振り返り、自分の斜め後ろ、ウィンドウ越しに立つ盛重の姿を見て顔をしかめ、何か言い放った。ウィンドウ越しで声は盛重まで届かなかったが、何となく侮蔑の言葉を吐かれたのはわかった。直後、盛重のポケットに入れられたスマホからメッセージの受信を報せる間抜けな音が響く。
『たすけて、つかまってる』
ウォンジュンからのメッセージだった。
要領を得ない文章だが緊急事態であることを察した盛重は、ウォンジュンに何やら訴えかける女性を一瞥してから店のドアを潜った。応対しようとする店員に「連れです」とだけ返し、一直線にウォンジュンの席へと歩み寄る。
「ジュニ、みんな待ってるよ」
盛重は咄嗟にハッタリをかました。女性に対して何か一言ぶつけてやりたかったが、ウォンジュンのイメージダウンに関わることはできないと、トゲが残らず且つ相手がウォンジュンを手放さざるを得ない引き離し方をしなければならないと思ったからだ。
ウォンジュンもハッタリだと気づいたようで「ごめんごめん」と返してショルダーバッグを持った。
「自分の飲んだ分ぐらい置いときな」
「あっそうだそうだ」
照れ笑いをしながらウォンジュンが2000円を出し机に置く。伝票に書かれている合計金額よりも僅かに多く、盛重は「ソイツの分まで奢ってやるなよ」と言いたかったが、芸能人としてのイメージを保つ上では仕方無いのかと思い黙っておいた。
そうしてウォンジュンが席を立つのを女性はしばらく呆気に取られた様子で見ていたが、やがて絞り出すように一言発した。
「そういうお友達もいるんですね…」
"そういう"とはどういう意味か。良い意味では決して無さそうな言い回しに盛重のこめかみに血管が浮く。しかし相手にするまいとウォンジュンの腕を掴みかけたところで、椅子を直しかけていたウォンジュンが女性を見た。
「"そういうお友達"ってどういうお友達ですか」
女性の顔が強張る。そして「あ、いや、」としどろもどろになる女性に対して、ウォンジュンはハッとした顔で「いいです、大丈夫です」と言った。
「何の変哲も無い普通の友達しかここにいないので、気になっただけです。大丈夫、僕達もう会わないですし、ね」
女性は萎縮し、どこに向けて言っているのかわからないほど小声で「すみません…」と呟いた。ウォンジュンはニコリと愛想笑いを浮かべて伝票と代金を女性の方に寄せ、固まっている盛重の腕を引いて店を後にした。
「あれは誰なん」
家に帰りついて間もなく、ハンガーに掛けたコートに除菌スプレーを吹きかけるウォンジュンに、自身もダウンジャケットを脱ぎつつ盛重は尋ねた。
「俺の追っかけらしい。1回一緒に仕事したデザイナーの知り合いの知り合いの知り合いか何かで、あちこちに俺の居場所聞いて回ったんだって」
「こわ…芸能界に守秘義務ってモンは無いの?」
眉根を寄せて尋ねる盛重に「さあ」と返しながらウォンジュンはスマホを除菌シートで拭く。
「でも本当にタイミングが良かった。ありがとうモリシゲ」
「ホントそれよ。お前の反撃もエグくてビックリしたけど」
「そんな無いでしょ」
ウォンジュンが照れ笑いしながら、Tシャツを脱ぎ上半身裸になった盛重の背中に抱きついた。肌寒い夜道に晒されて冷たくなったウォンジュンの頬が肩に張りつき、盛重は「冷たいよ」と身悶えしながらウォンジュンを振りほどこうとしたが、ウォンジュンは離れようとしない。
「ジュニ寒いよ、服着させてよ」
「…ムカつく」
「え」
静止する盛重に、ウォンジュンがもう一度「ムカつく」と言う。
「あの女の人、モリシゲのこと初めて見た時に『やだ怖い』って叫んだんだよ」
「まあそれは…ウィンドウに張りついて見てくる奴がいたらそうも叫ぶよ」
「その後ずっと『警察呼んで』って、まるで危ない奴にでも狙われてるみたいに叫んでた。俺その時に『落ち着いて』しか言えなくて。失礼だって怒れば良かったのに。だからそれで、俺にムカついてる」
確かに、もっと平凡なナリをした人間が俺と同じことをしたら、あの女性は「友達かな」ぐらいにしか思わなかったことだろう。そんな考えが浮かぶなり盛重は自身の赤黒い右手をギュッと握り、掌に爪を食い込ませ自身を痛めつけた。
直後、盛重はウォンジュンに謝らなければならないことがあるのを思い出した。
「ジュニ」
「はい」
「俺、ジュニがあの女の人と話してるの見かけた時にイラッとしたのよ。『この間、俺にゲイなの教えてくれたじゃん』って、嘘なのかよって。そんですごいムカついて、邪魔しようと思って店の前に立った」
「…モリシゲ、それ俺のこと…」
「…疑ってごめん」
「めちゃくちゃ俺のこと好きじゃん」
「人が真剣に謝ってんだよなぁ」
ツッコミを入れるなり盛重の首筋にうっすらと痛みが走る。その痛みの正体を見ずとも察した盛重は「ハジマ!(※)」と叫びながら上半身を左右に大きく傾けウォンジュンを振り払った。振り払われたウォンジュンは懲りずに盛重にキスを求めたが、盛重の手によって口唇を上下から摘まれアヒルの形にされてしまうのだった。
翌朝、盛重は首筋にキスの痕があるのを忘れて郵便局に出勤し、ロッカー室で先輩から冷やかされ赤面した。
※ハジマ…韓国語で「やめろ」という意味
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