第2話 出会い

首藤盛重がクォン・ウォンジュンと出会ったのは1年前の春、夜を越そうと訪れた都内某所の公園のベンチだった。


当時、知人への暴行がきっかけで課せられた2年の懲役を終えたばかりの盛重は貯金が殆ど無く、ネットカフェや24時間のファストフード店、路上などに寝泊まりしながら日雇い労働をして食い繋いでいたが、この日は仕事に巡り会えず金を得られなかった。実家には交通費が無いのとそもそも絶縁状態なのとで帰れない。

そういうわけで一旦公園で野宿しようと決め込んでベンチの上に寝転がっていた矢先、突如視界を暗闇に遮られたかと思ったら、黒いマスクを着けた白い顔が目の前に、真っ逆さまに迫っていた。


「お兄さん、隣いいですか」


突然のマスク男に驚いた盛重は思わず飛び起き、ベンチを半分空けた。男は「どうも」と言って腰掛ける。

男は盛重よりも頭半分ほど座高が低いが、代わりに脚がやたらと長い(それでも盛重の全長には届かなさそうだが)。着ている服はシワ1つ無い真新しいもので、アッシュグレーのパーマヘアはついさっき美容室に行ってきたような清潔さだ。この明らかに同類でないとわかる小綺麗な男が隣にいることに盛重は居心地の悪さを感じ、新たな寝床を求めてベンチを離れようとしたが、すぐさま男に腕を掴まれ引き戻された。


「あの、明日早いんスけど」


明日の早朝から予定している手配師探しのことを思い浮かべながら盛重が語気を強めると、男は「すみません」とたじろいだ。しかし手は離さない。


「え、いや何なんスか。離して下さいよ」


「すみません、寝待ちじゃないんですか?」


「は?」


「…ここハッテン場だって聞いたんですけど…」


言いながら男が耳を赤らめる。

どうやら目の前のマスク男は自分をナンパしているらしい。生まれて初めての事態に盛重は酷く困惑し、どうかして男から離れなければと男の手を振り解きベンチから立ち上がった。直後、視界が揺らぎ世界が回る。そして気づけば視界いっぱいに満天とは言えない疎らな星空が広がっていた。

そういえば食事もロクに摂ってなかったんだっけ。厚い古着越しでも背中に伝わる地面の冷たさと後頭部の痛みに悶えながら「何なんもう」とぼやく盛重の視界に、再び男の顔が迫った。


「大丈夫ですか?どこか悪いですか?あっそうだウチ!ウチ近いから連れていきます!」


それはハッテンしてしまう奴では。脳裏に危険信号が走るものの遠慮という名の拒絶をするだけの気力も無く、盛重は男に肩を支えられ公園の外へ歩かされた。






公園からタクシーで5分。そこそこ高級そうなオートロック付き賃貸マンションの一室が男の家だった。8帖はあろうかというワンルームマンションで、中はシングルベッドと折り畳みテーブル、横倒しで使われている3段BOXの上にTVが1つと、一人暮らしを始めたばかりの大学生のようなシンプルさだ。そこで盛重は男の素顔に我が目を疑った。

ネットカフェに置かれた雑誌、街の巨大モニター、日雇い労働で入った社屋で垂れ流しにされていたTV、そのどれもで見た顔だった。ファッションモデルをしているとか何かの、名前は確かウォンジュン。

ウォンジュンは唖然とする盛重をよそにレトルトの参鶏湯スープとほぐしサラダチキンを取り出し、電子レンジにかけ白米と一緒に出した。長らくパンの耳か安売りのカップ麺しか通過してこなかった胃に温かいスープが流れ込むのに盛重は得も言われぬ感動を覚え一気に食べ進めた。


「すごい食べますね」


盛重の向かいに座り熱心に見つめてくるウォンジュンの目にハートが浮かんでいるように見える。

そういえばナンパをされたんだったと盛重はウォンジュンが声をかけてきた目的を思い出し、気まずさを感じて目を逸らしたが、そこで自分が側に脱ぎ捨てた上着が目に入った。公園で倒れた時に着いた泥の他に、皮脂やら汗やらが染み着いているであろう上着。

思えばこんな薄汚れた男によく声をかけようと思ったものだ。風呂にも5日程入っていないので臭いもキツかろうし、それに顔の中心を占める赤黒い痣だって見えていないわけでは無かろうに。

飯を食ったら住所だけ聞いてお暇しよう、いずれ返礼品の1つでも送れるように。そう思い立ち、空になった器を重ねてお暇する旨を伝えようとしたら再び腕を掴まれた。


「お風呂入ってって下さい」


「いやもうご迷惑ですし」


「あんまお風呂入ってないでしょう。結構臭ってますよ」


人間、自覚があったことでもいざ他人に言われるとそこそこ傷つくものである。盛重は叱られた犬の如く頭を垂らし、ウォンジュンの勧めに従った。






風呂で身体中の垢を綺麗さっぱり流した後、盛重は洗面台の前に立ち自身の身体と向き合った。

肉体労働により筋肉の盛り上がった裸体には、首と右胸、それから右手の先までもを覆う大きな赤黒い痣がある。生まれつき自分の身体にあるこの痣を、盛重は何らかの呪いのように忌み嫌い生きてきた。警察の厄介になっていたのも、バイト先の先輩から『痣ぐらいでいつまでもウジウジしやがって』となじられたのが原因だ。

ウォンジュンがこの身体を見たら何と言うか。色白の顔を歪めて悪態をつくウォンジュンの姿が一瞬でも思い浮かんで胸が痛んだ盛重は、さっさと服を着ようと辺りを見回して気づいた。脱いだ服がどこにも無い。直後、脱衣所の扉が開く音。


「服洗っちゃったんで僕の着て下さい。身長近いんで入ると…」


黒の下着とグレーのスウェットを手に笑顔を浮かべて入ってきたウォンジュンの目が大きく見開かれる。

ああ、まあそういう反応だろう。盛重はウォンジュンが何か言い出すより前に家を出ようとスウェットを取ろうとしたが、その手をウォンジュンがスルリと避けた。


「は?どういうこと?」


語気を強めて問う盛重にウォンジュンがエッと目を見開いた。


「…スウェットだとチクチクするかもしれないから、もうちょっとツルツルした生地の奴持って来ようかと思って」


ウォンジュンはただ肌を気遣ってくれただけだった。盛重は自身の被害妄想でウォンジュンを威嚇してしまったことに心苦しくなり口唇を噛み締めた。対してウォンジュンはあまり意に介していないようで「前隠して」と顔を赤らめるのだった。






ウォンジュンが持ってきたスウェットをそのまま着て脱衣所を出た盛重の前に、ウォンジュンは「これでもどうぞ」とストロング系のレモンチューハイとキャンディチーズを出し、自分は風呂へと消えていった。

スウェットを出された時点で盛重は薄々察していたが、ウォンジュンは盛重を帰らせる気が無いらしい。帰るといったって盛重に家は無く、またあのハッテン場と言われる公園で寝るしかなくなるのだが。

せっかくだし一晩お世話になるか。盛重はキャンディチーズを1つ口に入れ、幾年ぶりかに味わうチーズの美味さに震えた。続いてチューハイを1口飲み、更に震えた。中学時代に悪友の家で飲んだチューハイの味に似ていると思った。

中学時代は堕落していたが、一緒に馬鹿やってくれる仲間がいて楽しくて良かったなぁ。願わくばもう一度あの時代に戻りたいと思いながらチューハイを飲み進めていると、スウェットパンツ一枚のウォンジュンがモワモワとした熱気を纏って盛重の向かいに座った。その顔はついさっきまで見ていたものより遥かに幼く、盛重はここで初めてウォンジュンが化粧をしていたことに気づいた。


「家、無いんですか?」


テーブルの上に頬杖をついてウォンジュンが訊く。その所作が妙に艶っぽいのに盛重は一瞬目を奪われ、すぐに目を逸らしてウンと頷いた。


「あったんですけど、ついこの間まで警察に捕まってて、出てきたら解約されてました」


「警察?…食い逃げで?」


「違うわ」


冗談ですとウォンジュンが笑い、盛重もつられて笑う。しかし罪状についてはまだ話したくないと思った盛重は警察についてどう説明したものかと頭を悩ませたが、幸いにもウォンジュンが追及して来なかったので内心ホッとした。


「ところで家が無いんじゃ仕事もできなくないですか?」


「固定の仕事は難しいですね。今は日雇いで働いてます。早朝に高架下とか行くと日給や仕事内容を書いたワンボックスカーが停まってて、それに乗って仕事場まで送ってもらうんです」


「え、なんか危なくないですか…?」


「たまーに連れて行かれたまま帰って来ない人とかいますね。でもまあ、やるしか無いんで…」


「じゃあここに住んで固定の仕事探しませんか」


ウォンジュンの持ちかけに盛重は目を剥いた。

今日会ったばかりの赤の他人をどうして住まわせようと思えるのか。盛重はイヤイヤと手を振り「迷惑になる」「こんな素性もわからん奴を住まわせちゃいけない」と遠慮したが、ウォンジュンもウォンジュンで「そもそも僕が下心を持って声かけたんだ」と譲らない。


「仕事が決まったら出ていっていいですから、ね」


盛重の手を握り、上目遣い気味にウォンジュンが言う。その様が異様に艶かしく色っぽく、盛重は心の底で「いつかハッテンするなコレは」などと考えつつウォンジュンの好意に甘えるのだった。






それから半月も経たないうちに盛重は郵便配達員の仕事に就くことができ今に至るまで働いているが、相変わらずウォンジュンの家に居座り続けている。そのことに盛重は薄く後ろめたさを感じているが、ウォンジュンの方はどこか嬉しそうである。

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