第11話 完璧なプログラム

病室に入ってまず目に入ったのは、折り畳み椅子に座った


中年の女性だった。おそらく杉下愛美の母親だろう。




母親の肩越しに、愛美の姿が見えた。


彼女はベッドに横たわっていた。




母親はうなだれていたが、僕に気づいておもむろに振り返った。




「あなたは?」




その声はかぼそく、弱よわしかった。




「さっき電話した藤原巧です」




僕は息を弾ませながら言った。




母親の肩越しに、ベッドに横たわった愛美の姿が見えた。


その姿を見て、僕は絶句した。頭には包帯がぐるぐる巻きにされ、


口と鼻には透明の酸素吸入器が取り付けられていた。


その透明な酸素吸入器のカバーは愛美が呼吸をしていることを


証明するように、曇ったりそれが消えたりしているのを見て、


僕の気持ちは、ほんの少しだけ安堵した。




だがベッドの隣には心電図らしき機器が設置されていて、


規則的に波線が波打っていた。


それは愛美の心拍を示している証拠だった。




「愛美さんの容態は・・・?」




「この子は事故のショックで全身を強く打って・・・。


ついさっき集中治療室からこの病室に運ばれて、


今は麻酔で眠っています」




それから母親は衝撃的な事実を僕に告げた。




「でも、脊髄を損傷したらしいんです。もしかすると下半身が


麻痺する可能性があるって、お医者様が・・・」




母親は両目に涙を溜めて言った。その声は小刻みに震えていた。




僕は立っているようで、立っている自覚が消えていた。


部屋中がぐるぐると回る。窓も壁も消失し、ただ白い壁が


僕を中心に回転していた。




それは今まで体験したことのない強烈な眩暈だった。


全身から急速に力が抜けていく。




僕は氷点下にさらされた標高の高い山の急激な斜面を


登っているような足取りで、愛美のベッドへと歩を進めた。


その距離は永遠に辿り着けないのではないかと思うほど、


遠く感じた。




愛美のそばに立ち、彼女の顔を見下ろした。


でも、自分でも信じられないことに、僕の思考は止まっていた。


何の感情も掻き消えていた。人間は極限の恐怖に置かれたとき、


心はその活動を止めることを実感した。




「どうして・・・こんなことに」




そう言うのが、やっとだった。もしかしたら、


唇を動かしただけかもしれない。




愛美の寝顔は穏やかだった。それだけが救いだった。


僕はその場に数秒いたのか、それとも数時間もいたのか、


時間感覚がまったくわからない。




そのときふいに、パイプベッドに座っていた母親が


立ち上がって、僕へと視線を向けた。




「藤原さんっていいましたよね。愛美とどういう関係か


わかりませんが、今は出て行ってください」




母親の声には警戒と悲しさが混じっていた。


でも、僕は反応しなかった。いや、反応できなかった。




すると母親が僕の左ひじを掴んで、強引に病室から


連れ出した。僕はなすがままになっていた。




重いドアが再び閉じた。


廊下で茫然としていた僕は、膝から崩れ落ちるように


(他人から見たその姿は、まるで神に祈っているようだと思っただろう)


リノリウムの床にしゃがみこんだ。




そんな僕の姿に気が付いた女性の看護師が、駆け寄ってきた。


彼女は僕のそばにひざを折り、何かを話しかけているようだったが、


僕の耳は機能を停止していて、看護師の言葉を脳まで届けてくれなかった。




僕は自分の部屋にいた。病院からどうやって戻ったのかは


記憶にない。ただパソコンデスクの前に座っていた。


机上に両肘をついて、頭を抱えた。


呼吸は不規則で、脈動がこめかみを叩きつけてくる。




僕は今、冷静じゃないことに気づいた。


それに気づいたということは、まだ冷静な部分が


わずかでもあることの証拠だ。




僕は考察を始めた。少しずつ心のモーターの回転を


上げていく。




愛美の乗った自動運転のタクシーが、反対車線に突っ込んだ。


この事実から、何が考えられるか―――。




答えはありえないということだ。


自動運転の車両が、実用利用されたのは、


10年以上も前だ。車に搭載されたAIとGPS機能は、


人工衛星から送られてくる電波によって操作されていて、


正確無比ともいえる精度で運行されていた。


タクシーやバス、それに電車や運送トラックまで、


約6割以上の車両に実用化されている。


もし万が一でも、その位置にずれが生じたとしても、


誤差はわずか3センチ以内だ。


そして、これはさらに重要なことだが、


実用されてから今まで、人身事故はおろか、


わずかな物損事故さえ一度も起こしていない。




そのプログラムが誤作動を起こした?


これもありえない。なぜなら、ソースコードに瑕疵が


生じたとしても、それを強制修正するプログラムも


実装されているからだ。




僕はハッカーの可能性も考えた。これもありえない。


完璧なこのプログラムを誤作動させるほどのスキルを


持つハッカーが、たった1台のタクシーを標的にする?


ハイレベルのスキルを持つハッカーは、自分の力を


試したがる。鉄壁のセキュリティを突破することに


至上の喜びを感じる人種だ。


それほどの腕があれば、たった1台といわずすべての


自動運転システムを狂わせるはずだ。僕ならそうする。




だったら、原因はなんだ?


やっぱりこの問題に帰結してしまう。




その時、デスクの端に置いていたディスプレイ・フォンが起動した。




目の前の空間に『愛』が現れた。




なぜ勝手に起動したんだ?




『愛』は微笑を浮かべて、僕を見つめていた。

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