第10話 嘘だ

翌日、僕は大学で経営工学論の講義を受けていた。


この講義は杉下愛美も受けているはずだった。


だが、その姿は見えない。


でも、その時はまだ僕はそんなに気に留めていなかった。




昼休みになり、僕は学食へ向かった。


そこには必ず杉下愛美がいると思っていた。


昨日のことを思い出しながら、僕の胸は小さいが強い


鼓動でときめいていた。




ところが、彼女の姿は無かった。


昨夜は寒かったから、風邪でも引いたのかと思い、


心配になった。どうしようもなく。




何かの理由で休むにしろ、彼女は僕に連絡してくれるはずだと


思っていた。思い上がりかもしれないが、きっとそうして


くれると信じていた。




僕はいてもたってもいられず、杉下愛美に電話した。




コール音が永遠と思えるほど、長く僕の鼓膜に響いた。


電話に出たのは、中年と思しき女性の声だった。


その声は小さく震え、警戒の色を帯びていた。




「僕は藤原巧といいます。愛美ちゃん・・・いや


愛美さんと同じ大学に通っている者です」




僕がそう言うと、その女性は愛美の母親だと


名乗った。




「愛美は今、病院なんです。ゆうべ自動運転のタクシーが


反対車線に飛び出して、対向車と正面衝突して・・・」




母親の声は嗚咽に掻き消えた。




「正面・・・衝突?」




声を震わせながら、かろうじてそう言えたが、僕の全身は鳥肌が立ち、


まるで床が、靴の下でゴムのように柔らかくなっていくような感じだった。


僕の心臓は早鐘のように脈打ち、こめかみに刃物が差し込むような


痛みを感じた。




「そ・・・それで愛美さんの容態は?」




僕は心の中にあるなけなしのエネルギーを、


振り絞るようにして尋ねた。でも語尾の震えは止まらなかった。




「愛美は全身打撲で・・・入院しています」




愛美の母親の言葉は苛立たしいほど遅かった。


僕はたまらず口を開いた。




「病院を教えてください!愛美さんの入院している病院を」




母親の訝しむような雰囲気を、通話越しに感じた。


だが、それでもすぐに彼女の入院先の病院の名を教えてくれた。




僕は通話を切ると、学舎を走り出た。


数段の階段を下りるのにも身体が左右に揺れて、


何度も転びそうになった。




大学の前の通りに出ると、タイミングよくタクシーが来た。


僕は無意識に、それが自動運転の無人タクシーではないことを


確認していた。運転席にはドライバーの姿が見える。




僕はタクシーを止めると、即座に盛り込んで


行先を告げた。焦燥感に気持ちが乗っ取られている僕とは


裏腹に、運転手がのんきな返事をした。


彼に罪はないとは思っても、


微かな怒りを覚えずにはいられなかった。




車中の僕の心の中には余白は無かった。


気持ちを占めていたのは、


焦燥感と不安・・・そして恐怖だけだった。




病院に着いたのは30分くらい後だったと思う。


僕はナースステーションに駆け込んで、


杉下愛美のいる病室を教えてもらった。




その病室は4階にあった。僕はエレベーターを


待っていられず、気づけば階段を駆け上がっていた。


息がつまるほど肩が揺れていた。首に巻いていたマフラーを


引きちぎるように振りほどくと、


彼女のいる病室へ向かって駆け出した。






ようやくその病室へたどり着くと、閉ざされていた


扉を横へ開こうとドアノブに手を掛けた。




横に開くその扉は、とても重く感じられた。




そして、病室に入った時、僕は思わず呟いていた。




「嘘だ・・・」




でも、その言葉は自分にしか聞こえてなかったかもしれない―――。

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