第9話 幸福の時間

僕は杉下愛美との待ち合わせ場所である中央公園の


真ん中にある、噴水にいた。


約束の時間より30分も早く着いていた。


空は晴天。雲一つない。見上げるとライトブルーの


天空が暖かった。




30分も早く来て、退屈じゃないかと思うかもしれないけど、


その時の僕はそうじゃなかった。


こんな浮ついた気分は初めてだった。


この快い緊張感なんか、いままで経験したことはなかったんだ。




この日のために、僕はファッションに凝った。


ハイネックのインナーに、ブラウンのフード付き


ダウンジャケットを羽織り、身に着けることなどめったにない


パンツはヴィンテージ物のダメージーンズ。


足元は黒いゴアテックスのブーツを履いていた。


腕時計はタグ・ホイヤー カレラ キャリバー ホイヤー01だ。




僕は何度、腕時計を見たかわからない。


その長針が回るたびに、胸の鼓動が強くなっていくのを


感じていた。


頭の中はこれかからの予定で、めまいがするほど


回転していた。それを反芻しながら、また腕時計を見る。




きっかり待ち合わせの時間、午後2時30分に杉下愛美は現れた。


彼女の姿はまぶしかった。




彼女は細い縦ストライプの入った白地のセーターの上から、


いい感じに色落ちしたデニムジャケットを着ていて、


淡いピンクのトレンチスカートを身に着けて、


白い網紐の入ったブラウンのニーハイブーツを履いている。


肩からはピンクの小さなショルダーバッグを提げていた。




とても似合っていた。とっても。


いつも大学で観る、ラフな服装じゃなかった。




きっとこの日のために、僕と会うために、


おしゃれをしてくれたんだ。セミロングのきれいな髪が、


そよ風に揺れていた。彼女はキラキラしていた。


本当にキラキラしていた。




僕はその時、涙が出そうになるのを止めるのに必死だった。


ドキドキが止まらない。全身が熱くなるのを止められない。




「藤原先輩、もう来てたんですね。お待たせしましたか?」




杉下愛美は僕を上目遣いで言った。




「いや、僕も今着いたところなんだ」




僕は小さな嘘をついた。




それから僕たちは中央公園から、


数百メートルの大通りに面している


映画館の入っているビルに歩いて向かった。




その映画館にはいくつかの会場があり、


同時に複数の映画を上映していた。




一つはスプラッターホラー映画。これは論外だ。


もう一つはアクション映画。これも無し。




それで僕が選んだのは、「ローマの休日」という


題名の映画だった。これは最近リメイクされたもので、


初作は1954年に作成されたらしい。


オリジナル版はモノクロで、オードリーヘプバーンと


いう女優と、グレゴリー・ペックという俳優が主演している。




どこかの王国の王女(オードリー・ヘプバーンが演じている)と


一介の新聞記者(グレゴリー・ペックの役だ)との、


たった1日の恋の物語だ。この映画を最近になって、ハリウッドが


リメイクした。




僕はその内容を詳しく調べないまま、


この映画を選んだ。でも、ラストシーンを観て、


後悔した。だって、王女と新聞記者はあまりにも


身分が違いすぎて、結局結ばれない悲恋のストーリーだったからだ。




でも観終わって会場を出た時、彼女はとても感動したと


言ってくれた。その二つの瞳は涙ぐみ、潤んでいた。




腕時計を見ると、午後5時を少し回っていた。


この時期は夕暮れになるのも早い。


街はいくつもの光に満たされ、並木に付けられた


明るいブルーのイルミネーションが、どこまでも続いていた。




クリスマスが近いせいか、通りにはカップルの姿が多かった。


その時、僕はふと思った。


僕と彼女もカップルだと見られてるのかなって。


そう思うと、照れくささと嬉しさに、心はいっぱいになっていた。


気持ちがゆらゆらとしていて、歩いている感覚がない。


目に入るすべてのものが、輝いて見える。


生まれて初めて、これが幸福ってものなんだと知った。




杉下愛美はいろんな話をしたと思う。


映画やアニメ、アイドルやミュージシャンのことなど。


でも僕の思考力は停止していた。


正確に言うと、そうじゃない。


何を話しても彼女の可愛い笑みに見とれていて、


それどころじゃなかったっていうのが本音だ。




「先輩って、『シンギュラリティ概論』読んでましたよね。


私も少し読んだんだけど、難しくて挫折したんです。


でも、また挑戦してみようかなって」




杉下愛美が急に話題を変えたから、僕は戸惑った。


今にして思えば、話をしても反応の薄い僕を


気遣って、そんな話をしたんだと思う。




「杉下さん、あれはちょっと難しいかもしれないね。


自己フィードバックで改良、高度化した技術や知能を


人工知能が・・・」




僕はそこまで言って、やめた。


いつもなら僕にとっては楽しい話だが、


杉下愛美と歩いている今、そんな話をするのが


もったいなかったからだ。




僕は腕時計をのぞいて言った。




「もうこんな時間だ。お店に行こうよ」




彼女は可憐な笑みを浮かべて頷いた。




スペイン料理専門店、スパニッシュ・テエンダの


扉を開けたのは、午後6時を過ぎたころだった。




店内は意外と広かった。テーブルと椅子は


木製の濃いブラウンで、淡いクリーム色の漆喰を塗られた壁と


マッチしていた。天井からは小ぶりだがクリスタルのような


小さなシャンデリアをいくつか、吊り下げている。


さらに店内のあちらこちらの隅に置かれている間接照明が、


西欧風の雰囲気を醸し出していた。




僕と杉下愛美は、予約していた二脚席に案内され、


互いに向かい合って座った。




料理はコースで事前に頼んでおいた。


サルモレホというスープに始まり、


トルティージャ・デ・パタタスのハーフサイズ、


(フルサイズは大きすぎて食べられなかった)


フィデウアという名のパエリアの海老の殻を


剥くのに悪戦苦闘している僕を、やさしく微笑みながら


杉下愛美は手伝ってくれた。


殻を剥いてもらって彼女から手渡される


海老を受け取る僕の手は微かに震えていた。


デザートはホットチョコレート付きのチュロス。




僕たちはいろんな話を楽しみながら食事をした。




ふいに彼女はミルクコーヒーを飲む手を止めて言った。




「あの、藤原先輩。今度からは私の名を呼ぶ時、


名前で呼んでください」




僕は彼女の言ってる意味が、すぐにはわからなかった。


どんなに難解なコンピュータプログラミング言語を


理解するよりも・・・。




「愛美・・・さん」でいいかな?」




「それでもいいけど、愛美ちゃんがいいな」




僕の自分の顔が火照っていくのがわかった。




僕たちがお店を出たのは、午後8時近くだった。


彼女と食事をしていた2時間は、あっという間に


過ぎていた。




僕と杉下愛美は大通りに出てタクシーを拾った。


タクシーは無人で、行先とビット・システムで


運用されていて、行先を告げれば車は自動的に、そして


安全に送り届けてくれる。


支払いはビットカードを運転席の後部にあるスリットに


差し込むだけだ。


僕は自分のビットカードを彼女に手渡した。


最初、杉下愛美は拒んでいたが、僕が強く進めると


やっと快諾してくれた。




自動運転のタクシーに乗る前に、杉下愛美は


僕の方へと右手を差し出した。




「巧君、またデートしようね」




デ、デート!僕はその言葉だけで頭がくらくらした。


僕も勇気を振り絞って右手でその細くて柔らかい


彼女の手をそっと握り返した。


これが初めて、彼女に触れた一瞬だった。




「ま、、愛美ちゃんも気を付けて帰ってね」




そういうのがやっとだった。




別れ際、僕たちはディスプレイ・フォンの電話番号を交換した。


これで、いつでも愛美ちゃんと話ができると思うと、


僕の体は路面から、数センチ浮きあがった気がした。




杉下愛美は明るい笑顔で返事すると、


自動タクシーの後部座席に乗り込んだ。




彼女はタクシーの後部座席のガラスからこちらを


振り返って、何度も手を振っていた。




僕も、腕がちぎれんばかりに手を振った。




その直後、言いようのない寂しさが胸を締め付けた。




でも、明日また大学で彼女に会えるんだ―――。




そう思うと僕はまだ、かろうじて立っていられた。

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