白衣の女

 始めに踏み込んだ部屋は、おれたちが監禁されていた向かいの部屋によく似ていた。パソコンやディスプレイが設置され、一方の壁には大窓が嵌め込まれている。違うのは、窓が粉々に砕けていたことくらいだ。


 そっと中を覗き込んだが、誰もいない。薄暗いせいもあるが、それ以上の情報を得られそうになくて、おれは早々にその部屋を後にした。



 次の部屋も似たような作りだった。

 ただ、部屋の隅には人が……研究員らしき奴等が倒れていた。遠目からでも、鋭利な爪で引っ搔かれたような傷痕が無数に走っているのが見て取れる。

 もう生きちゃいないだろう。そう思いながらも、念のため近づいてみる。

 そしてやっぱり後悔する羽目になった。


 抉られた傷痕からは、赤黒い何かが零れるように溢れ出し、そこから白い骨がいくつも覗いていた。

 見るんじゃなかった……。

 吐き気がせり上げてきて、すぐにその部屋を後にする。

 ……まともじゃねぇな……。

 逃げ出したい衝動を抑え込みながら、おれは一つ一つ、部屋を確認していった。



 幾つかそんな部屋が続いた後、ようやく様子の変わった部屋に行き当たった。大学で見た生物系の実験室によく似ていた。

 ウイルスか何かの培養施設か……?


 棚に並べられたガラスケースのほとんどは割れていて、床には何かの液体が飛び散っている。加えて鼻を突く強烈な異臭。

 アンモニアか……?


 割れたガラスを踏まないように部屋に踏み込みかけて、そこでハタと思い至る。

 ……おれ、こんなに無防備で大丈夫なのか?


 慌てて自分の肩口に目を向ける。血が乾き、辛うじて塞がっているような状態。

 もし、ここにウイルスが蔓延していたら?


 今さらながらに、ぞっとした。

 いつ感染するかわかったものじゃねぇな……。


 自分の考えなしの行動に肝が冷える。

 けど、その一方で、それを冷静に眺めている自分もいた。

 その程度で感染するなら、もうとっくにしているさ。ここまで来て、何言ってんだ、お前?

 

 自分の思考に、乾いた笑いが込み上げてくる。

 ……まぁそうだよな。けど、やっぱり……。

 今さらとは思っても、敢えてここに踏み込むのは躊躇われた。


(……シテ……)


 微かに響く声も、ここではない、どこか別の場所から聞こえてくる気がする。

 とりあえず、ここは後にしよう。

 おれはそう決めて、踵を返した。



 次に覗いたのは、大量のディスプレイが設置された部屋だった。壁にはずらりと、いくつものボタンやランプが並んでいる。計器室か何かだろうか……?

 どの画面も電源が落ち、すでに何も映し出してはいなかったが、非常灯らしきボタンだけが赤い光を放っていた。そして、そこに浮かび上がったのは……。


 ……ひでぇ……。

 床は、入ることを躊躇うほど血で汚れていた。

 散乱した机や椅子に混じって、幾人もの人間が倒れている。


 ……ここもかよ……。

 誰一人として身動きしている者はいない。けど、それがかえって恐ろしかった。今にも誰かが立ち上がって、襲い掛かってくるような錯覚すら覚える。

 

 ……ばかな。何考えてるんだ。 

 怯える自分を笑い飛ばしながら足を踏み入れたとき、ゴトリと、音がした。

 途端に、心臓が跳ね上がる。


「誰だ!」


 研究所の奴らならまだいい。けど、もし『奴ら』だったら……!


 おれは咄嗟に、ベルトに挿した銃を掴んだ。

 ちくしょう、滑る……!

 それでもなんとか、銃を構えて怒鳴りつけた。


「誰だ! 出てこい!」


 カタリと音がして、何かがデスクの向こうから姿を現す。

 その途端、おれは拍子抜けした。


 女……?


 机の影から現れたのは、整った顔立ちの若い女だった。

 上半身だけしか見えなかったが、恐らく白衣を着ているんだろう。胸元まで伸びた髪の下から、社員証らしきプレートが垣間見えた。


 まだ、生きてる奴がいたのか……。


 相対した女も、ひどく驚いたように見えた。


「あんた、ここの人間か」


 女がおれを検分するように目を細める。

 それだけで、なぜか背筋が寒くなった。


 ちくしょう。何を怖がってる……!


 女が、おれの怯えを見透かすように笑った。


「ボーヤ、慣れない物を振り回すと、大怪我するわよ」

「……っ! こんなところで何してるんだ!」


 女は可笑しそうに笑う。


「何してると思う?」


 軽くあしらわれた気がして、頭に血が上った。

 こいつ、おれが何もできないとタカをくくってやがるのか……!


 女は手を上げて笑ってみせた。


「冗談だって。そんなに怖い顔しないでよ?」

「答えろ! ここで何してたんだ!」


 女は肩をすくめた。


「……宝探しよ」

「宝探し?」


 およそこの場にそぐわない言葉。


「そう、これよ」


 言って、女が何かを掲げて見せる。それは、プラスチック製のカードのように見えた。ふいに、脳裏にひらめいた映像。


「……認証カード?」


 女はうれしそうに笑う。


「あら、察しがいいのね。そう、セキュリティカードよ。これがないと、所内を自由に歩き回れないじゃない?」


 そう言って笑った女に、ひどい違和感がこみ上げる。

 何で、そんなものを――

 そう言いかけたとき、


「ねぇ、そっちに行っても構わない?」


 おれの返事を待たずに、女が机の影から姿を見せる。


「おい――」


 言い掛けて息を呑む。

 女の白衣の下半分は、真っ赤に染め上げられていた。


「……あんた、怪我してるのか?」

「怪我?」


 首を傾けてから、女は「あぁ」と首を振った。


「違うわ。これは私のじゃない。こいつらを調べていたら、付いてしまっただけよ」


 こいつら……?


 女の指差す先を確認しようと、用心深く移動する。そして、

 ――おれは思わず呻いちまった。

 もう散々、目を背けたくなる光景を見てきたはずだった。でも、これは……。


 デスクの向こうは、赤黒い液体で塗り潰されていた。泡立った血の池に、まるで壊れたマネキンか何かのように、千切れた手足が散在している。

 不意に誰かと目が合った気がした。

 慌てて目を凝らすと、右半分だけになった顔から、トロリとした濁った瞳がおれを見つめていた。

 ……っ!!

 

 すぐそばで女の笑う気配。

 女……? ……女!


 慌てて手元を探ると……銃がねぇ!

 はっとして顔を上げると、目の前に銃口が――


「かわいいボーヤね」


 全身の血が沸騰した。

 だめだやめろたのむうつな……!


 女の指がピクリと動く。

 や、めろっ……!!


 カチリ、と音がした。

 え……?


 呆然と女を見上げると、


「これ、弾切れよ。気づかなかった?」


 おれ脱力してその場にへたりこんでいた。



 *****



「ちょっと、大丈夫?」


 どこか呆れた響きを持つ女の声。


「……あぁ」

 声が掠れた。


 正直、何てふざけた真似を、と怒鳴りつけてやりたかった。

 けど、この女はどこか得体が知れない。こんな場所でこんな真似をする辺り、こいつもまともな人間じゃないんだろう。こいつが何を考えているのか分かるまで、余計なことは言わない方がいいと思った。

 それで、懸命に冷静を装って尋ねる。


「あんた、ここで何してたんだ」


 大丈夫、もう声は震えてねぇ……。


 おれの問いに、女は小さく溜息をついた。それから、ひらひらと手にしたカードをかざして見せる。


「だからさっきも言ったでしょう? これよ、これ。このカードを探していたの」


 なぜ、と尋ねる間もなく、女は一人ごちるように呟く。


「なんとか1枚は見つけ出したけど、意外にないものね。全く、オウガの馬鹿が何でもかんでも壊すから……」

「あんた、こいつらは同僚なんだろう? なんでそんなに平然としていられるんだ」


 尋ねずにはいられなかった。でも、


「同僚? 冗談じゃないわ」


 余りにも刺々しい声に、おれは女を見上げた。


「確かに私も、昔はここの研究員だった。気付かない内に、随分と汚いこともやってきたわ」


 女が自嘲気味に笑う。


「だけど、こんなことはやっぱり見過ごせないじゃない? それで、世間に公表しようと証拠を集めていたんだけど」


 くすくすと女は笑う。


「やっぱり、一人じゃダメね。裏切りがばれて、あっさり捕まっちゃったわ。その後、しばらく閉じ込められていたんだけど。今回の事故でようやく逃げ出せたってわけ」


 ……つまり、こいつはここの造反者ってことか? ……本当に?


「何とか牢から這い出てみれば、この有様でしょ? ……ふふっ、まあ、自業自得ってやつでしょうね」


 自業自得……? 確かにそうかもしれねぇが……。


「それでも、あんたにとっては元同僚なんだろう? こいつらの姿を見て、本当になんとも思わないのか」


 女は、笑いをかみ殺すようにして言葉を紡ぐ。


「あら、思うわよ?」


 おれは唇を噛んだ。

 それだけで分かってしまう。

 女が何を言わんとしているかが分かってしまう。


 いい、わかった。もう答えるな。

 そう思うのに、女は続けた。


「ザマァみろってね」


 おれは顔を歪めた。

 狂ってる……。ここの奴ら、もうみんなイカレてやがる。


 思って、ふと嫌な思考が脳裏を掠める。

 ……おれは? おれは大丈夫なのか?

 頭の中に響く声。

 もしあれが幻聴だったら? おれもおかしくなってねぇ保証なんて、どこにある……?


「ねぇ、あんたこそ何をしていたわけ?」


 問われて、はっと我に返った。


「何って……」


 言いかけて、ふと思いつく。

 そうだ、この女に聞けば何か分かるかも……。


「なあ、この先には何があるんだ?」

「はぁ?」


 一瞬むっとした顔をした女は、すぐに首を傾けた。


「そんなことを聞いてどうするの?」


 どうって……。

 今度は、おれが言葉に詰まる番だった。


『誰かが助けを呼んでいる気がするから』とでも言えばいいのか。

 ……そんなことを言えば、正気を疑われるだけだという気がした。けど、


「何、黙秘?」


 冷ややかに切り返されて、冷汗が滲む。なぜかは分からないが、こちらがカードを切らないことには、こいつは手札を見せない。そんな気がした。

 それで、おれは諦めて口を開いた。


「誰かが、呼んでる気がするんだよ」


 女は眉を顰めた。


「……呼んでる?」

「ああ。多分、女の子だと思うけど、その子がおれの頭の中で叫んでるんだ。助けてくれって」


 言ってから、ひどい後悔に襲われた。

 これじゃぁ間違いなく正気を疑われるだろう。言うんじゃなかった……。


 だが、女はひどく驚いた様子でおれを見返した。おれの方が戸惑うくらいだった。

 それからしばらくして出てきた言葉が、

「そんな不確かな情報なんかに頼らないで、さっさと逃げたらどう?」だった。


 面食らった。そう切り返されるとは思わなかった。


「いや、でも」


 戸惑いながら、おれは答える。


「それができるなら、とっくにやってる。けど、逃げようったって、外には化物がうじゃうじゃいるだろ。……大体、ここがどこかも知らねぇんだ。そんなところに飛び出せってほうが無謀だろうが」


 そう答えると、女は笑った。


「まぁ、それもそうね」


 言って、真剣な顔になる。


「なら、脱出法を教えてあげるわ。だから、今すぐここから出て行きなさい!」


 おれはびっくりして女を見つめた。


「なんで……」

「なんで……って、あぁでも、その腕は問題かしらね」


 おれの左腕を見て、女が苦笑する。


「放っておくと、一生使い物にならなくなるかもしれないわよ?」


 薄々分かってはいたが、他人から指摘されると不安になる。


 じゃあ、どうしろってんだよ。


 思わず黙り込むと、女はやれやれと言った風情で机の引戸を開けた。そこから、銀色のアタッシュケースを引っ張り出す。女がそれを開くと、中から医療器具らしきものが現れた。


「私も専門家じゃないから、大したことはできないんだけど。ほら、その腕を出しなさい」


 答えを待たずに、女はおれの左腕を掴む。


 な……っ!

 思わず硬直していると、いきなり傷口に何かを吹き付けてきた。


「……いっ!!」


 脳天が痺れるほどの痛みが駆け抜ける。

 思わず涙目になると、女が揶揄るように笑った。


「男の子でしょ、少しは我慢して」


 ……こいつ……!


 子ども扱いされているようで腹が立つ。

 だが、好意で手当してくれているのは間違いないだろう。……多分。


 仕方がねぇか。

 憮然としながらも、大人しく治療を受けようと思った矢先。目の前に突き付けられたものに、おれは思わず飛び上がっていた。


 注射器……!


 とっさに、女の腕を振り払う。


「ちょっと、何?」


 不快感を露わにした女を見て、不信感が膨れ上がっていく。


 そうだよ、こいつはここの人間じゃねぇか……! なに簡単に信用なんかしてんだ……!


「この期に及んで、まだおれをモルモットにしようってのか……!」


 女は眉間に皺を寄せた。


「……落ち着きなさいよ。これは、ただの化膿止め――」

「そんなこと、信じられるか!」


 女が険しい目でおれを睨む。

 それから、気を取り直したように笑いを浮かべた。

 ――嫌な笑い。


「ほら、そんなにかっかするとまた傷口が開くわよ?」


 はっとして左肩を見ると、凝固していたはずの傷口から血が滲み出していた。

 見る間にそれは盛り上がり、床に滴り落ちる。


 ……っ!


 目の前が暗くなった。

 治療すると偽って、わざと傷口を開かせたのか。また、アレを投与するために……!


 騙された。そう思うと、全身を掻き毟りたいほどの怒りが込み上げてくる。


「ちくしょう、貴様らの思い通りになってたまるか!」

「……あんた、そんなに死にたいの?」


 ぞくりとした。なんて圧迫感……!


 思わず言葉を失っていると、女が無表情のまま立ち上がた。


「まっ、待て! 勝手に動くな!」

「じゃあ行けば?」


 ……え?


「ここを動かなきゃいいんでしょう? なら、さっさと行きなさいよ」


 おれは目を見開いた。


「別にあんたがどうなろうと、私の知ったことじゃないのよね。ただ、私の邪魔をしないでもらいたいの。わかる?」


 絶句していると、女が吐き捨てるように言った。


「うろちょろされると目障りなのよ。……だから、今すぐここから出ていきなさい!」


 気圧された。

 何も言い返すことができなかった。

 ただ二、三歩後ずさり、それでも女が動かないのを見ていると、急速に苦いものが込み上げてくる。


 おれ、間違えたのか……?

 自分に差し伸べられた手を、むざむざ跳ね除けてしまったのか。

 いや、けど……!


 振り切るように駆け出したとき、足がもつれた。もう一方の足で踏ん張ろうとしたが、上手くいかない。左肩に激痛が走った。


 やっぱり、何かされたのか……!

 焦って体を起こそうとしたが、体がまるで言うことをきかない。

 くそっ、このままじゃあ……。


 そこでようやく、おれは気付いた。

 目の前で広がっていく赤いもの、これは……。

 あぁ……そうか、血が流れすぎて目が回っただけか……。


 そう思ったら、急に力が抜けた。

 本当に馬鹿みたいだと思った。

 何やってんだ、おれ。何しに来たんだ……。


 何だか全身がぞくぞくする。

 やっぱりおれ、死にかけだったのか……。


 他人事のように、そう思った。

 なんだか、頭が上手く廻らない。まずいと思うのに、考えるのも面倒になっていく。

 ……まぁいいか……どうせおれは……。

 気だるさの中で目を閉じると、瞼の奥で火花が散った。


 目を開けると、女が額に手を当てて溜息をついていた。

 女……? あぁ、女か……。


「全く、普通ここで倒れる? 目の前で倒れられたら、無視できないじゃない」


 何だか怒っているように見えた。

 よく分からなくてただ見上げていると、女はもう一度溜息を落した。


「全く、わかったわよ。もう一度だけ聞いてあげるわ。で? あんたはどうして欲しい?」


 どうして……って……?

 いぶかしむようにすると、女は注射器をかざして見せた。


「これよ、これ。こいつを打って欲しい? それとも放っておいて欲しい? あんたが選びなさいよ」


 おれはまじまじと女を見つめた。

 まだ助けてくれる気があるらしい。

 完全におれの方が間違っていたわけだ……。


 自分が情けなくなりながら、おれは何とか声を絞り出した。


「助けてくれ……ください」


 女は大仰な溜息をついて、おれの傍にかがみ込んだ。

 女の肩に腕を回され、そのまま助け起こされて、壁に背を預けた格好にされる。

 何だか気恥ずかしかったが、女の方は意に返した様子もない。


 複雑な気分でされるがままになっていると、乱暴に左腕を捲り上げられた。

 女が一瞬、眉をひそめる。醜く腫上がった注射の痕を食い入るように見つめた。


「ああ、それ……」


 説明しようとしたら、問答無用に注射器を押し込まれた。

 1本では終わらず、続けざま、3、4本は打たれた気がする。

 もう何本だろうが構わなかったが、何を注射しているのかは気になった。

 気にはなったが、これ以上女を刺激するのも躊躇われて、おれは黙って治療を受け続けた。


 最後に、再び何かを吹きつけられ、左腕を包帯できつく縛り上げられる。

 手際の良いその処置に、おれは今度こそ感謝の念を抱いた。


「……ありがとう」


 頭を下げると、女は驚いた顔でおれを見つめた。

 怒ったような顔が、ふいとそっぽを向く。


 ……なんだ?


 一瞬面食らったが、それでようやく気づいた。

 こいつ、もしかして根はいい奴なのか? ……捻くれてるけど。


 そう思ったら、久しぶりに胸の奥が温かくなった。

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