再び地下施設へ
気づくと、おれの鼻先を雑草がくすぐっていた。
じりじりとした日差しが、容赦なくおれを照りつけている。
熱い……。
ぎしぎしと悲鳴を上げそうな身体を無理やり引き起こすと、すぐ傍に、コンクリート製の建物が聳え建っているのが見えた。
辺りに人影はない。まるで、さっきまでの死闘が嘘のようだった。
助かった……?
まるで他人事のようにそう思った。
なんだか、頭がぼうっとする。
熱い……。
建物から伸びた影はおれの目と鼻の先で終わっていた。
どうやら、日が昇るにつれて建物の陰が短くなり、おれは真夏の太陽に炙られていたらしい。
こんなところにいたら、熱中症で倒れちまうな……。
立ち上がろうとすると、左肩に鈍い痛みが走った。
破れたシャツから覗いている醜い傷跡。もう出血は止まっていたが、左腕は痺れたままで、まともに動きそうになかった。
なぜだか、何の感慨も湧かなかった。面倒だなと、そう思っただけだった。先ほどの余韻が抜け切っていないせいかもしれない。
あの訳の分からない情報の奔流。大量の情報を一度に与えられた気がするのに、一つ一つを思い出そうとしても、何かを形どっては霧散する。
意味が分からなかった。
鈍い頭を忌々しく思いながら頭を振る。
それでようやく、忘れかけていた感情が蘇ってくる。
今井に中嶋。理解できない朝倉の……裏切り。
ちり、と胸が疼いた。
……いや。
おれは目を瞑った。
あいつらのことなんか、どうだっていい。どうせあいつらも、ここから逃げ出せやしねぇだろう……。
理由など分からないが、そう思った。
なら、いつまでもここりゃあいいさ。そこで大人しく震えてろ。
それより、ひどく胸が急いた。
行かなければ、と思った。
思って、自嘲めいた笑いがこみ上げてくる。
「……全く、訳がわからねぇな……」
もう何度となく呟いた言葉を口にして、おれはゆっくりと森の向こうに足を向けた。
*****
切れた森の先に浮かび上がったのは、おれ達が囚われていた建物だった。
必死の思いで逃げ出したはずの、忌々しい始まりの場所。
……また、ここに戻れってのか。
そう思ったら、今更のように恐怖が這い上がってきた。
……やっぱり、止めておくか……?
今来た道を振り返る。
夏の日差しに浮かび上がる鬱蒼とした樹林。
(タスケテ……)
ふと、あの時の声を聞いた気がして、おれは周囲を見回した。
(……タスケテ……)
だが違う。
これは耳で聞いている声じゃない。直接、頭に響いてくるような――
何だよ、これ。……幻聴か?
そうだろう。でなきゃ、おかしい。
理性ではそう思うのに、感情がそれを否定する。
――違う。ここだ、ここにいる。
(……ダレカ、タスケテ……)
聞いているだけで胸が苦しくなる。恐らく、少女の――
おれは頭を抱えた。
何だよこれ。何なんだよ。ここに囚われの少女でもいるってのか?
馬鹿馬鹿しい。例えそうだとしても、どうして頭の中で声が聞こえるんだよ……!
普通に考えたら、こんな事は有り得ない。
これ、ウイルスだか何だかの副作用か……?
そうかもしれない。いや、きっとそうなんだろう。
だとしたら、そんな幻聴のために、再びこの場所に戻るだなんて狂気の沙汰だと思った。
やっぱり、引き返そう。
そう思うのに、足は一歩もその場を動いてはくれなかった。
(…………シテ……)
耳を塞いでも聞こえてくる。
(タスケテ……)
胸が締め付けられる。
(……オネガイ、……ダレカ、ワタシヲ……!)
理屈なんか知らない。ただ、声を聞く度に頭が痺れる。自分でも抑え難い感情がこみ上げてくる。
これを無視しろだって? くそが、そんな真似……!
おれは建物を睨み上げた。
わかったよ行ってやる! 助けてやるから、黙って待ってろ!
足を踏み出しかけて、おれは小さく笑った。
……死ぬかもしれねぇな。
ふと、そんな思いが頭を掠める。
自分の思考の危うさは、自覚しているつもりだった。
さっきから頭の一部が痺れて、上手く働いている気がしない。まるで、酒を飲んだときみたいだ。
おまけに……。
左肩に目を向ける。
痛みはなかったが、自由に動かすこともできない。改めて傷に見入れば、自分でも眉を顰めたくなる有様だった。
筋状の傷が3本走っていて、そのうちの1本はかなり深くまで抉れている。
傷の周りは凝固した血で覆われていたが、下手をすると骨にまで届いているんじゃないかと不安を覚えるほどだった。これで何の痛みも感じないというのが、正直、自分でも信じられない。
……いや。前にどこかで聞いたことがある。限度を超える傷を負うと、人の体は痛みを感じなくなる、とか。
だとしたら、おれ、相当まずい状況にあるってことか……?
なんだか、実感が湧かなかった。せめて傷の手当くらいした方がいいように思ったが、出血はもう止まっている。これ以上、何をすればいいのかわからなかった。
ついでに言うなら、本当は余り動き回らない方がいいんだろう。
けど、こんなところで安静にしていたところで、事態は何も変わらないだろう。誰かが助けに来てくれるとも思えねぇし……。
見せつけられたニュース画面を思い出し、おれは思わず胸を押さえた。
おれはもう、死んだことになってるらしいしな……。
家族以外に、おれを助けてくれそうな奴は思い当たらなかった。
ふいに朝倉の顔が浮かんで、おれはぎゅっと目を閉じた。
それ以上、考えたくもなかった。
……もしかして、おれ、棺おけに片足突っ込んだ状態ってことか……?
そう思ったら、何だか笑えた。今なら、あのバケモノじみた奴らに出会っても、よぅ、と挨拶すらできる気がする。
……そりゃ言い過ぎかもしれないが。まぁいいさ。
これ以上考えるのも面倒で、おれは建物へと足を進めた。
けど、入口の扉を前にして、おれはもう一度躊躇しちまった。
もし、この先に奴等がいたら? あるいは、研究所の奴らがいたら……。
今度こそ殺されるかもしれない。
そう思うと、手に嫌な汗が滲んでくる。――でも。
くそっ、もう決めたんだろう? 隠れていたってジリ貧だろう? だったら、行くしかねぇじゃねぇか!
ご都合主義の単なる馬鹿かもしれないが、それでも今は、自分の選択に賭けるしかなかった。
えぇくそ、なるようになれよ!
振り切るように扉を引く。その途端、嫌な臭いが鼻をついた。
微かな硝煙と、錆びくさいこの匂い…………血か?
尻込みしそうになる自分を宥めて、おれは扉の向こうを覗き込む。
そして、ひとまずほっとした。
辺りに人影はなかった。非常等の灯りだけが、無機質な壁をほの暗く浮かび上がらせている。耳を済ませても、あの不気味な喧騒は聞こえてこなかった。
それだけを確認して、強引に扉の隙間から体を滑り込ませる。
途端に、ひやりとした空気が体を包んだ。
同時に、脳裏に響く声。
(タスケテ――)
その断続的で微かな波動は、前より少しだけ強く、地下深くから聞こえてくる気がする。
地下、か……。
階段の下を覗いてみても、暗くてどこまで続いているのか分からない。そのまま真っ暗な闇に吸い込まれそうな気がして、おれは反射的に身を引いた。
引いちまって、そんな自分に苦笑する。
半分死にかけてんだから、なんて思ってみてもこのざまか……。
背筋を這い上がるような悪寒に、もう逃げ出したくなっている。
……くそっ。だから、言ってんだろう? 戻ってどうする。ほとぼりが冷めるまで待つのか? 待ってりゃ、誰かが助けてくれるっていうのか?!
そんなことはあり得ない。それは嫌というほど思い知ったはずなのに。
あいつも、あいつ等も裏切りやがったのに……! それを……!
胸の奥が灼けるように疼いて、おれはきつく拳を握り締めた。
このまま何もせずに死ぬ気か? それだけは嫌なんだろう? えぇ!?
奥歯を噛み締めながら息を吐く。
それからおれは、ようやく階段に足をかけた。
*****
B1 ←→ G0
あの時と同じ壁の表記。それを見ながら地下1階まで降りたところで、防火壁の存在に気づく。階段と廊下を隔てるようなそれは、全く見覚えの無いものだった。
……こんなもの、あったか……?
逃げ出すときは夢中だったから、よく憶えていなかったが……。
いずれにせよ、この扉の向こうは、おれたちが閉じ込められていたあの場所だ。
そう思ったら、恐怖よりも怒りが込み上げてきた。
ちくしょう、あの野郎……! よくも好き勝手してくれ――
(――タスケテ)
頭に響くその声に、すっと頭が冷える。
心なしか声が大きくなった気がする。
……もっと下、か。
おれは深呼吸してから、さらに下へと降りていった。
薄暗い階段は、異様なほど静かだった。
おれの足音と荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえてくる。
他に物音がしないか時折立ち止まってみても、静寂が返ってくるばかりで、それがかえって不気味さを増してくれた。
くそっ、もう誰もいないのか……?
(……タスケテ)
頭に響く声だけは相変わらずで、おれは小さく息を吐いた。
……行くしかねぇか。
けど、階段を下りるほどに、空気が淀んでいく。まるで空気が体に纏わりついてくるようだった。
なんだか、口の周りまでベトベトする……。
不快感に背筋が震えた。
手すりを握る手がじっとりと濡れる。足の動きも、ひどく鈍くなっていた。
くそっ……今さら引き返せるかよ……!
竦みそうになる足をなだめて、おれは引きずるように身体を動かし続けた。
いつの間にか、眼はすっかり薄闇に慣れていた。
下に向かうほど、床にも壁にも、何かを擦ったような跡が目に付くようになっていた。
……恐らく、血痕だろう。
ここで何が起こったのか、否が応にも想像はついた。
ついたが、それ以上は敢えて考えないようにした。
でないと、先に進めなくなる気がしたから。
B1、B2、B3……。
踊り場に大きく印字された文字を見ながら地下4階まで降りたところで、階段は終わっていた。
……ここが、最下層?
もっと地下深くまで続いている気がしただけに、違和感を覚える。
……いや、もしかしたら――
ふと脳裏に浮かんだのは、隠し扉の存在だった。
どこかの床に隠された一枚扉。
そこを開けると、さらに地下へと続く階段がぱっくり口を開けている……。
いや、まさかな。
妄想じみた自分の思考に呆れながら、防火壁に設置された小さな扉を押し開ける。
僅かな隙間に体を滑り込ませた途端、濃密な臭気が体を包んだ。
……っ!
むせ返るような血の匂い。
とっさに口を抑えて、辛うじて吐き気を飲み込む。
下唇を噛みながら廊下に目を凝らすと、あちこちで倒れている人間が目についた。
ある者は白衣を纏い、ある者は戦闘服らしきものを着ていた。ただ、ほとんどの人間は不自然な方向に身体が折れ曲がり、おまけに、頭を吹き飛ばされたらしき『奴ら』もいる……。
胃が痙攣した。
ここに来る前から予想はしていた。
けど、予想していれば平気だとか、そんなのは嘘だった。
なんでこんな……! いや、なんで……?
ここは『奴ら』に襲われたんだろう。
停電が奴らの侵入を招いたのか、奴らのせいで停電したのか、それは分からない。いずれにしろ、ここを襲った奴らが地上まで辿り着き、おれたちに遭遇したってところなんだろう。
……けど、『奴ら』一体何なんだよ?!
今さらのようにそう思った。
化け物としか思えないアレは――
そのとき、ふいに脳裏を過ぎった映像。
身動きできない人間に注射器を打ちこむ研究所の奴等。そして―……
……待て。
おれは身震いした。
何だ、今のイメージ。
もしかしたら、でも。……奴等、元は普通の人間だったのか……?
なぜだか、確信のようなものが全身を駆け巡る。
仁科の蛇のような目を思い出し、あいつならやりかねないと、そう思った。
くそっ、あの野郎。一体ここで何をしてやがったんだ……!
そのまま廊下の向こうを睨みつけたとき、ふと、床に投げ出されたものに目が留まった。
銃、だった。
ドクンと心臓が高鳴る。
……本物、だよな。
躊躇いながら手に取ると、ずしりとした重みが腕にかかる。
……重てぇ。
おれは鈍く光る銃身を眺めた。使い方なんか知らない。だけど、見よう見真似で何とかなる気がした。
危険、だろうか……?
試しに構えてみる。
……悪くなかった。
頭のどこかが警鐘を鳴らした気もしたが、武器を手に入れたという安堵感の方が強かった。
……このくらい、あった方がいいよな。
おれはそれを注意深く腰のベルトに捻じ込んでから、一番手前の扉に手を掛けた。
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