死闘

 夢を見ているんだと思った。

 そう、これはきっと悪い夢だ。だって、あんな奴ら、いるはずがねぇ……!


 全力疾走したせいで、心臓は口から飛び出しそうだ。


 いい加減、目を覚ませよ……! ほら彩乃! 早く起こせよ! 頼むから……!


 だが、悪夢は一向に目覚める気配はなかった。

 それどころか、どんどん悪化していく。

 逃げた先にも、そいつがいたんだ。色の抜けたようなグレーの髪に、真っ赤な瞳。


 嘘だろっ!?


 おれは立ち竦んだ。一瞬、先回りされたのかと思った。だが違った。奴は後ろからも迫ってきていた。


 2匹、いやがるのか……!


 おれたちはすぐに、森の中へと逃げ込んだ。本能が逃げろと叫んでいた。きっとやり合ったら、殺される。

 だったら、逃げるしかないじゃねぇか……!


 逃げた先で、絶望的な気分になった。そいつらが、森の奥に何十匹といるのが目に入ったからだ。


 冗談きついぜ……!

 半ば泣きたい気分で、おれは怒鳴った。


「左だ! 左へ逃げろ!」


 朝靄に煙る森の中で、おれたちは必死に走った。辺りは薄暗く、何度も木の根に躓きそうになる。誰がどこにいるかなんて、もう分からない。いつの間にか、おれたちはちりじりになっていた。


「はぁっ、はぁっ……」


 闇雲に走り回ったせいで、汗が滝のように流れ落ちる。


 奴らは……? まいたか?

 そう思った瞬間、背後に殺気を感じた。

 本能的に体を捻る。獣のような唸り声とともに、体の脇を重量のある何かが掠めていく。


「……ぐっ」


 おれは、辛うじて奴の腕を交わしていた。けど、全ては避け切れなかった。奴の歪曲して長く伸びた爪が、脇腹を掠める。よけた拍子に、地面に体を打ち付ける。

 けど、息つく間なんかない。おれは跳ね起き、そして目を見開いた。


 今だ!


 奴はおれを襲った勢いを殺しきれずに、バランスを崩していた。とっさに渾身の力を込めて体当たりを食らわす。そいつが地面に倒れ込む。


 ……やった!


 それを視界の端に捉えながら、おれは駆けた。

 こいつら、動きが鈍いんだ……!

 それが、せめてもの救いだった。

 けど……。

 おれは顔を歪めた。


 何で奴ら、おれの居場所が分かるんだ?!


 しかも、おれは本調子じゃない。忌々しいことに、体は思うように動かなかった。今はただ、火事場の馬鹿力ってやつで動いているだけだろう。

 けど、今はそんなことを言っていても始まらねぇ。この先に何があるかなんて知らない。逃げこむ場所があるかなんて、それこそ知らねぇ。

 でも、他に何ができる?


 捕まれば、喰い殺される。しかも、奴らは何十匹といるんだ。

 だったら、逃げるしかねぇじゃねぇか……!


 先ほど見た光景を思い出して、おれはぞっとした。

 こんなところで、喰い殺されてたまるか……!

 息の続く限り走る。それしかなかった。


 やがて、木々の向こうに、建物の姿が見え隠れし始めた。それを見て、わずかな希望の火が灯る。

 あそこに逃げ込めば……!

 おれは、萎えかけた足を鞭打って走った。



 唐突に森が途切れた。だだっ広い草むらが広がり、数十メートル離れた場所に白い建物が浮かび上がる。

 気づけば、すぐ近くを今井が走っていた。


 ……今井? 今井!?

 おれは目を剥いた。

 何で今井が……!


 何がどうなってやがる!

 けど、今はそれ以上考えている余裕なんてなかった。

 ひたすら走りながら、おれは視線を動かした。少し先に、水野と池田の姿が見える。朝倉はすでに建物の扉まで辿り着いていた。


 お前ら、無事だったか……!


 安堵にも似た思いが広がる。おれも急いで後に続こうとしたとき、つんざくような悲鳴が聞こえた。


「いやああぁっ!」


 この声、まさか……中嶋?


 おれは足を止めて、辺りを見回した。

 全力疾走している今井。転びそうになりながら建物に走り寄る水野と池田。扉に手をかけた朝倉、……中嶋がいない!


「どこだ!」


 おれは叫んだ。


「やあああっ!」


 ……後ろか!

 数十メートル離れた森の切れた場所で、中嶋がうずくまっているのが目に入った。木立の奥から、恐ろしい唸り声が近づいてくる。


 おれは一瞬、躊躇した。建物までの距離と、中嶋までの距離はほぼ同じ。

 助けに行っていたら、間に合わねぇ……。


 逃げよう、と思った瞬間、脳裏を彩乃の姿が過ぎる。

 ああちきしょうっ! 間に合わせてやる!


 おれは全力で走った。けど、中嶋との間にはまだ距離がある。

 まずい……!


 おれは手近な石を拾い上げた。今にも腕を振り下ろそうとしている奴めがけて、渾身の力で投げつける。それは奴のこめかみにヒットし、不快げにこちらを睨んだ。

 真っ赤に染まった目で睨まれた瞬間、戦慄が走った。奴らの注意を自分に向けたことを、ほんの一瞬、後悔した。


 ……くそが! 今さらだって言ってんだろ! びびってんじゃねぇ!


「ほら! お前の相手はこっちだ!」


 だが、奴らはおれを睨んだ後、再び中嶋に視線を戻した。

 この……!


「中嶋! 逃げろ!」


 叫んだが、中嶋はへたり込んでいるだけだった。腰が砕けたらしい。


「……ちっ!」


 距離にして数メートル。おれはもう一度、そいつの脇から体当たりを食らわせた。

 こんな芸当、こいつがトロイからできることだ。

 けど、何ども通用する手じゃねぇ……!


 呆然と見上げる中嶋に、おれは怒鳴った。


「立て! 逃げるぞ!」

「……りょ、涼司君……」


 中嶋は硬ばった顔でおれを見つめた。


「ばか野郎! 死にてぇのか! さっさと立て!」


 そのとき、背後に殺気を感じた。

 とっさに中嶋を抱えて飛びのくと、左肩に灼けるような痛みが走った。

 抉られた……!


 地面に転がりながら、おれはすぐに中嶋を突き飛ばした。奴の爪が地面を抉る。

 左肩を押さえながら飛び起きたおれの目に、下卑た笑いを浮かべるそいつの姿が映った。その背後から、まるで沸くように奴らの数が増していく。


「ひっ……!」

 掠れるような中嶋の悲鳴。


 やべぇ……。

 おれの額を、嫌な汗が流れ落ちた。

 こんなの、相手にできるかよ……。


 おれは背後の中嶋に囁いた。


「……お前、走れるよな? おれが合図したら、建物の方に逃げろ」


 息を飲む気配が伝わってくる。


「り、涼司君は?」


 おれは、無理矢理笑って見せた。


「あいつらを撒いてから行く。先に行ってろ」


 中嶋が絶句したような気がした。


「そんなことしたら、あなたが……!」


 おれは有無を言わせず、中嶋を後に押し出した。


「うるせぇな! さっさと逃げろ!」


 そのまま建屋とは逆方向に駆け出すと、奴らがおれを追ってくるのが目に入る。


 やっぱりだ。奴ら、血の匂いの強い方に寄ってくる習性があるらしい。


 奴らの攻撃を避けながら、おれは再び森の中へと飛び込んだ。

 奴らをやり過ごすには、森の中の方がいい。だだっ広い場所で多勢に無勢じゃ、勝てるわけがねぇ……!


 奴らも次々と森の中へ分け入ってくる。それを確認しながら、おれは木々の間を駆け抜けた。

 次第に、奴らとの距離が開き始める。奴らが愚鈍で、心底助かったと思った。

 けど、おれの体力も落ちてきている。早いところ奴らを引き離さないと、本当にやばくなりそうだった。


 建物が木々の隙間から見え隠れする。後ろを振り返ると、何とか20、30メートルは引き離したというところか。

 もっと引き離した方がいい。それは分かっていたが、これが限界だった。

 これ以上逃げ回れば、逆に追いつかれちまう……!


 おれは再び、建物を目指して駆け出した。入口に近づくにつれ、体が悲鳴を上げ始める。本当にもう限界だった。


 最後の力を振り絞って扉に取り付く。鈍く光る金属製の枠に、ガラスか何かがはめ込まれた造り。傍には電子錠。きっと今なら難なく開くだろう。


 これで助かる……!


 扉を開けようとして、おれは愕然とした。

 開かなかった。


 おい、まさか……。


 力を入れてドアを押す。

 開かねぇ……。

 何度やっても扉は開かなかった。


 後ろを振り返ると、奴らが森から出て来るのが見えた。

 ちくしょう、奴らが来ちまう!


 焦ってガラス窓から中を覗き込むと、暗がりの中で身を寄せ合うようにした中嶋たちの姿があった。

 お前ら……!

 拍子抜けした。心底、ほっとした。おれを締め出したまま、どこかに行っちまったのかと思った。


 ほっとした途端、こちらを見上げていた中嶋と目が合った。恐怖と緊張に歪んでいた顔が、瞬間、輝いたように見えた。


『涼司君……!』


 声は聞こえなかったが、そう言ったように見えた。


「開けてくれ! 急いで!」


 駆け寄ろうとした中嶋が、びくりと体を強張らせる。後ろにいる奴らの姿が目に映ったらしい。奴らがここに来るまで、もう一刻の猶予もないだろう。

 おれは後ろを振り返りながら、扉を叩いた。


「早く!」


 我に返ったように駆け寄ろうとした中嶋の腕を、誰かが掴む。

 今井だった。

 奴はおれの方を指差し、中嶋に何かを怒鳴りつけている。言い返す中嶋に、必死の形相で喚いているように見えた。


 今井、てめぇ……!

 苛立ちと焦りが膨れ上がっていく。


「おい! 何してるんだ! 早く開けろ!」


 業を煮やしたらしい中嶋が扉に取り付こうとして、それを今井が引き止める。

 ……っ! だれか、今井をどうにかしろ!


 だが、水野はおろおろと見ているだけ。池田は床に倒れていて、朝倉は……。

 朝倉を見た途端、おれは一瞬、思考が停止した。


 なんと言えばいいのか分からない。ただ、おれを見つめる顔が、今までに見たこともないほど歪んで見えた。

 何……?


 それ以上、考える暇はなかった。

 背後におぞましい気配がした。


 しまっ……!


 辛うじて身をかわした場所に、奴らの腕が叩きつけられる。ドアがみしみしと軋んだ音を立てた。

 だが、それだけだった。ドアには傷一つ付いていない。おれは、間髪をいれずにそいつを突き飛ばした。


 ちくしょう! てめぇらがトロトロしてるから、奴らが来ちまったじゃねぇか! 早くここを開けろ!


 じりじりと近づいてくる奴らを見ながら、おれはドアの向こうに視線を送った。

 そして言葉を失った。

 今井はもとより、全員が館の奥へ逃げ込もうとしていた。


 お前ら……。

 呆然とするおれの目に、顔を歪めた中嶋の姿が映った。


 中嶋……。

 中嶋は顔だけをこちらに向け、目に涙を浮かべながら謝っているように見えた。


 ……謝る? 誰に? おれに? 何を?!!


 中嶋の肩がびくんと跳ねる。そのまま逃げるように奥へと駆け出していく。

 ……中嶋ァっ!


 最後に朝倉がおれを一瞥し、そのまま奥へと姿を消した。


 ……てめぇ…ら……。


 体が震える。形容しがたい感情が全身を駆け巡った。

 ちくしょう……ちきしょう……!


 激情にも似た衝動をどうにもできないまま視線を戻すと、奴らはおれを取り囲んだまま、動きを止めていた。灰色の髪が小刻みに揺れる。


 笑ってやがるのか……。


 大して知能がないように見えるくせに、おれ一人、とり残されたことは分かるらしい。下卑た笑いを浮かべながら、おれを取り囲む輪を縮めてきた。


 逃げ切れねぇ……。


 そう思ったら、ふいに腹の底から、こみ上げてきたものがあった。


「くっ……くく……あははははは!」


 だってそうだろう? こんなバカな話があるか?!


 ぶわっと視界が歪む。

 それが煩わしくて顔を擦り上げたとき、視界の端に傘立てが映った。無造作に何本かの傘が突っ込んである。ちゃちなビニール傘。けど、何もないよりはマシだろう。

 おれは傘立てから1本引き抜き、無数の真っ赤な目を見据えた。


 来いよ、てめぇら。全員、叩き潰してやる……。


 不思議と恐怖は感じなかった。ただ、突き上げるような怒りだけが全身を支配していた。


「どいつから血祭りにして欲しい? えぇ!?」


 その声を合図に、奴らが一斉に襲い掛かってくる。

 けっ、能無しが。


 奴らの最初の攻撃は読めていた。真正面から放たれた拳を屈んでかわし、そのまま、手にした傘で奴の顎を突いた。

 めきめきと何かが潰れる嫌な感触が伝わってくる。それを無視して力を籠め続けると、奴らが怯んだ。


 よし、今だ!


 串刺しにした奴の体を突き飛ばすと、密集していた奴らはあっけなく将棋倒しだ。そのまま、奴らの体を踏みつけて走り抜ける。


 いける……!


 そう思ったときだった。

 足首をつかまれ、おれはその場につんのめった。


 この……っ!


 足首をつかんだ手に傘を叩きつけて逃れ、顔面に突き出された拳を辛うじて避ける。

 だが、下腹めがけて振り下ろされる爪には、無防備な姿を晒していた。


 よけきれねぇっ!


 目を瞬くこともできなかった。

 ただ、スローモーションのように奴らの動きを見ているしかできない。


 くそが……!


 そのとき、目の前を何かがよぎった。

 え……っ?


 視界が回転する。

 次の瞬間、全身に衝撃が走った。余りの衝撃に息ができない。

 何…が……。

 必死で酸素を求めると、ひどい草いきれがした。


 いつの間にか、おれは地面に体を投げ出されていた。

 なんとか首を上げると、十数メートル先に、奴らが群れをなしている様子が目に映る。おれは奴らの包囲網を逃れ、その輪の外まで放り出されたらしかった。


 な……?

 呆然としていると、再び奴らと目が合った。

 ……っ! 逃げねぇと……!


 そう思ったが、身体が言うことをききやしない。

 全身から汗が噴出す。何とか上半身は引き起こせたが、それ以上はどうしても力が入らない。

 ちきしょう、このままじゃ……!


 頭が白熱しかけて、そこでようやく、おれは気付いた。

 奴らはおれを睨みつけたまま、一歩もその場を動いてはいなかった。


 混乱した。訳が分からなかった。

 今襲われれば、おれはきっと、ひとたまりもない。それなのに、奴らは動かなかった。


 なんで……。

 

 そのとき、奴らを一喝するかのような、一際大きな吼え声が響いた。 

 ……っ!!

 何かが容赦なく頭の中に分け入ってくる。

 

 やめろ……。

 おれは頭を抱えた。

 いくつもの残像が奔流のように流れ込む。そのどれもが、見たこともない映像。

 理解できない。頭が割れる。


 や…止めろおおぉ!!


 そのとき、狂おしいまでの感情が全身を締め上げた。


(ダレカ、タスケテ……!)

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