脱出

「あいつ……!」


 今井が部屋を出て行った後、憤慨したように声を上げたのは池田だった。


「何て奴だろう! まったく、先輩の風上にも置けない奴だ!」


 冗談めかして言っているが、声が上ずっている。


「智ちゃん……」


「私たちだけでも、何とか全員で助かる方法を探そう! ね!」


 言って、池田がおれの方を見る。

 けど、おれは曖昧に頷いただけだった。


 おれにだって分かってる。

 今井がそれほど悪い奴じゃないことくらい、おれにだって分かっていた。

 あの状況で誰かの名前を挙げなければ、本当に今井が残されただろう。

 ……けど……。


 明日になれば、また仁科がやってくる。そうなれば、遅かれ早かれ、皆おれの名前を口にするだろう……。

 そう思うと、堪らなかった。


 誰もが、投与の度にその反動を大きくしている。

 皆、不安なんだ。

 どうしようもないほど不安で、それを必死に押し隠している。

 そんな中、おれの姿は最悪の結果の体現だろう。


 いつか自分もこうなるかもしれない。明日にでも、この苦痛が自分のものとなるかもしれない。そのまま、死んじまうかもしれない……!


 今は今井を非難していられても、いざ自分が選択を迫られたなら、きっと誰もがおれの名前を挙げるだろう。

 無理はねぇんだ……。

 頭では分かるのに、感情がついていかない。

 とても笑顔を浮かべる気にはなれなかった。


 ……ちくしょう……。

 無性に家に帰りたいと思った。

 家に帰って、あの温もりに触れたかった。

 ガキみたいでもいい。何と言われようが構わない。

 ただ、こんなの全然大したことじゃないんだよって、頭をかき混ぜて貰いたかった。

 けど……!


 唇を噛み締める。

 母さんたちはもう、おれが死んだと思っているかもしれねぇんだ……。

 ……くそっ、こんな奴らの策略に騙されないでくれ。おれはまだ生きてるんだ!

 けど、このままじゃ本当に…………。

 あぁ……ちくしょう、ちきしょう……!


 そのとき、勢いよく背中を叩かれた。

 驚いて顔を上げると、そこには怒ったような池田の顔があった。


「何しけた顔してるのよ! しゃきっとしなさいよ、ほら!」


 ……え……?

 上気した顔がおれを覗き込む。


「何考えてたんだか知らないけど、あたしは絶対に、誰か一人を選ぶような真似なんてしないわよ! 中嶋さんだって、そうですよね?」


 中嶋は一瞬戸惑ってから、力強く頷いた。


「ええ、もちろんよ……!」

「信じてもらえていなかったんなら心外だな。そんなに信用なかった? あたしたち」

「そうだ、そうだ! 失礼だぞ!」


 少しだけ笑い含みの池田の声に、つられたように水野も応じる。

 おれは呆気にとられて彼女達を見つめた。


「ほらほら、あたしたちに檄なんか飛ばされて、男どもはどうなの?」


 ……池田……。

 胸の中が熱くなっていく。

 ……お前、いい奴だな……。


 おれは頷いた。確かめるように、何度も頷く。


「そうだな」


 少しずつ、力が戻ってくる気がする。


「……よし。全員でここから逃げる算段でも立てるか……!」


 池田の目が輝いた。


「そうこなくちゃ! ほら、朝倉さんも! 期待してますよ!」


 池田に声をかけられ、朝倉も硬い表情のまま、微かに笑みを浮かべた。


「朝倉君、あの嫌味な野郎にスカウトされるほどの人なんだから! ぎゃふんと言わせちゃってよ!」


 中嶋がファイティングポーズを取ってみせる。その言葉に、朝倉が一瞬、翳りのある表情を覗かせた。

 あ……。

 おれは、慌てて口を開く。


「いや、中嶋――」


 過度な期待はこいつの負担に……。

 そう思ったが、朝倉は苦笑するような顔でおれの肩を叩いた。


「そうだな、みんなで知恵を合わせれば、何とかなるかもしれないね」


 おれはほっとした。朝倉も、いつもの顔に戻ってきている。これなら本当に、何とかなるかもしれねぇ。

 おれはもう一度、しっかりと頷いてみせた。


「よぉし、奴らの思い通りになんかなってたまるか!」


 おおっ、と威勢のいい声が上がり、おれ達は小さく噴き出した。

 胸の中が熱い。

 まるでガキにでもなった気分だ。

 でも、いいだろ?

 帰ろう、皆で。必ず、無事に帰ってやるんだ……!




 *****



 けど、そんな高揚は束の間だった。

 その後、間髪を置かずにガスが使用された。まるで計ったようなタイミング。今後の算段を練る暇もなかった。


 そして次の目覚めは、本当に目が覚めたのかどうかさえ、判然としなかった。


 目を開けても視界がぐちゃぐちゃで、どこまでが現実なのかわからない。全身を何かで押し潰されているようで、まともに息をすることすらできない。ただひたすら苦しくて、その重圧から逃れたくておれは喘いだ。

 その途端、心臓が引き攣るように痛んだ。

 ……っ!!


 しばらく、意識を失っていたのかもしれない。

 次に気付くと、全身を苛む重圧が少しだけマシになっていた。


 ……どうせなら、全部終わってから目を覚ませよな……。

 ぼんやりと、そんなことを思う。


 視界に、ひどく不安げな中嶋たちの姿が映った。

 何かを喋っているようだが、うわんうわんという音が頭の中で鳴り響くだけで、何を言っているかまでは分からない。

 瞼が重くて、おれは再び目を閉じた。



 ……どのくらいたっただろう。

 重圧感が薄らいでいる気がして、おれは目を上げた。相変わらずの無機質な天井。


 もう大丈夫かと思って体を起こすと、強烈な眩暈に襲われた。

 ……まだかよ……。

 頭に血が回っていないようで、ふらふらする。


「無理しないで……?」


 気遣わしげな中嶋の声。おれは何とか笑みを返した。


「悪ぃ……。もう平気だ」

「本当に……?」

「こんな美人3人に介抱されたら、元気になるに決まってるわ。ねえ?」


 茶化すような池田の言葉に、おれは薄く笑いながら同意を示した。

 池田の心遣いがありがたかった。


 そのときだった。

 突然、部屋の明かりが落ちた。


「な、何?!」


 水野の怯えた声。

 そのとき、つんざくような非常ベルが鳴り響いた。


「何なの!?」

「まさか……!」


 朝倉の声と、誰かがどこかに飛びつくような気配。


「開いてる……!」


 開いてる?

 おれは目を瞬いた。

 開いてるって、そこのドアがか!?


「本当か!」

「ああ、外に出られるぞ……!」


 その言葉に、おれも転げるように扉に取り付いた。手探りで扉の輪郭を確かめ、外に顔を出す。

 だが、闇が広がるばかりで、何も見えない。


「真っ暗じゃない!」


 すぐ背後から、後を追ってきたらしい池田の声がする。


「一体、どうなって……」


 そのとき、非常灯らしき赤いランプが一斉に灯った。それで、辺りの様子がぼんやりと浮かび上がる。

 そこは、長い廊下だった。遠くに、階段を示す緑の非常灯が見える。


「逃げよう……!」


 朝倉の声に、水野が身を硬くする。


「で、でも……」


 どこか遠くで、怒号や銃声らしき音が聞こえる。それに混じって、獣の咆哮のような叫び声まで聞こえてきた。


「そ、外に出たら、危ないんじゃ……」


 言い淀んだ池田に、朝倉は怒鳴った。


「ここにいても、殺されるだけだぞ!」


 水野がびくりと肩を震わせた。


「今がチャンスなんだ! これを逃したら、次はもう無いかもしれない!」


 おれは頷いた。確かに、四の五の言ってる場合じゃない!


「行こう! こんなところからは逃げ出してやる……!」



 *****



 まるで地獄の底から響いてくるような喧騒は、階段に近づくほど大きくなっていった。

 ダダダダ、ドンドンと何かを連打するような音。これは恐らく、銃声だろう。

 そこに悲鳴と怒声が入り混じり、水野でなくとも、足が竦むような喧騒だった。


 けど、他に出口らしきものは見当たらない。階段を使わなければ、ここから出られそうになかった。


 だったら、行くしかないじゃねぇか……!


 それに、この喧騒はかなり遠くから聞こえてくる気がする。

 大丈夫、きっと大丈夫だ……! 

 祈るような思いで、おれたちはひたすら階段へ急いだ。



 辿りついた階段は、上にも下にも続いていた。

 反響してよく分からなかったが、不気味な喧騒ははるか下の方から聞こえてくる。

 上を見れば、踊り場の壁には『B1 ←→ G0』の文字。恐らく、地下1階から地上に向かう階段という意味だろう。


 だったら、地上はすぐそこだろ……!


 おれたちは転げるように階段を駆け上がった。

 すぐ目の前に、金属製の扉が迫る。


 外に、出られる……!?


 やけに重い扉に体当たりした途端、露に濡れた樹木の匂いが押し寄せてきた。


 外だ……!


 とにかく、無我夢中で扉を閉めると、あの恐ろしい喧騒も嘘のように止んだ。


 やっ……た……。


 全身からどっと汗が噴出てくる。ひとまず地上に逃げ出せたのだ、という安心感が全身を包んだ。


「涼司……」

「ああ、ここにいる……」


 肩で息をしながら、ようやくおれはハタと気づく。

 他の奴らは?!


 慌てて頭数を確認すると、……全員、無事だった。

 心の底からほっとして、おれは今しがた這い出てきたばかりの建物を振り仰いだ。


 それは、コンクリートを打ちっぱなしにしただけの平屋構造の建物だった。スライド式の扉には、電子錠らしきものが取り付けられている。


 電子錠か……。

 おれたちが閉じ込められていた部屋にも、似たようなものが取り付けられていたのかもしれない。

 停電でロックが解除されたのか。それにしても……。


「ここ……どこ……?」


 目の前には、鬱蒼と茂る森が広がっていた。

 建物の前にだけ、森の中に分け入る砂利道が続いている。


 辺りはまだ薄暗かったが、少しずつ明るくなってきているようだった。

 夜明け、なのか……?


「ぐずぐずしているのは危険だ。とにかく行こう」


 朝倉の言葉に、皆が頷いた。

 ここがどこかなんて分からない。けど、この場に留まっていたらすぐに発見され、連れ戻されるのがオチだろう。

 それに、ここが信州のコテージからそう遠くない場所なら、歩き続けていれば、いずれは町に出られるかもしれない。そんな僅かな期待を胸に、おれ達は森に抉られた道を辿っていった。


 もちろん、目の前の道を行けば、誰かに発見される可能性は高くなる。それは分かっていたが、まだ暗いうちから森の中に入りたくはなかった。森の中で迷子になっては、元も子もない。

 何かあれば、すぐ森に身を隠そう。そう申し合わせて、おれ達は歩き始めた。

 とにかく、一刻も早くこの場から離れたかった。



 *****



 どれくらい歩いただろう。15分か、20分か。

 まだ、あの建物からそれほど遠く離れていない場所で、突然、池田が小さく叫んだ。


「待って!」


 どきりと心臓が高鳴る。

 誰かに見つかったのか!?


 でも、そうじゃなかった。


「何……あれ……」


 池田が震える声で指差す先に、奇妙な物体が見えた。右手の森の中、木々に遮られてよくわからない。だけど、大型の動物か何か。


 熊……?


 だとしたら厄介な……。そう思ったとき、妙な音に気づいた。

 枯れ木を折るような音と、何かを啜るような音。それが断続的に聞こえてくる。

 背筋が、ぞわりとした。


 狼……?


 狼が何かを喰らっているのか。だとしたら、ますますやばい。おれたちは、息を顰めながら慎重に足を進めた。

 そのときだった。


 突然、そいつが立ち上がった。

 立ち上がる姿を見て、一瞬、やっぱり熊だったのかと思った。

 けど、それにしてはやけに細い。


 ……人? くそっ、研究所の奴等か……!

 

 舌打ちしたい気分で駆け出そうとしたとき、そいつの目に釘付けになった。

 眼が、異様に赤かった。


 何……?

 背筋を冷たい汗が伝う。


 とにかく、逃げよう……!

 そう思っておれ達が後じさると、そいつは一歩、近づいてきた。 

 一歩下がると、さらに一歩近づいてくる。


 完全におれたちに気づいてやがる……!


 そいつとの距離は、せいぜい20m。

 一歩ずつ前進と後退を繰り返し、ついに日の光に浮かび上がったそいつを見た途端、おれは絶句した。


 そいつは、研究所の奴らにも、兵士にも見えなかった。

 身に纏っているのは、あちこち裂けたボロ布。

 だけど、何より違和感を覚えたのは、口からはみ出ているものだった。


 ……棒? ……違う、あれは……。


 視覚は間違いなく脳に情報を送っていたが、脳が理解を拒絶する。


 あれは……でも……。


 半ば呆然としながら、そいつが手に持っているものに視線を移した途端、


「いやあああぁっ!!」


 叫んだ水野を、おれは責められなかった。

 もし水野が叫ばなかったら、おれが声を上げていたかもしれない。


 そいつの手には、人間の首が握られていた。


 冗談……だろ!?


 思考は既に働かない。心臓はバクバク言っている。


 逃げなきゃ。そう思うのに、体が動かなかった。

 どんな悪夢だよ……!


 突然、そいつはそれを投げ捨てて。

 おれ達めがけて駆け出してくる。

 ……っ!!


「逃げろっ!!」


 誰かが叫んだのと、おれたちが全力疾走したのは同時だった。

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