生贄

 翌日の目覚めは最悪だった。


 日を追う毎に、体調が悪くなっていく。

 起き上がろうとすると、心臓をキリで刺すような痛みが走った。


 ……っ!!


「……じ…… 大丈夫……?」


 返事をするのも辛い。おれにできたのは、ただひたすら、痛みが遠のくのを待つことだけだった。


 ようやく起き出せるようになったのは、その何時間後だろう。

 だが、顔を合わせても、おれ達はわずかに言葉を交わしただけだった。

状況が分かっても、何も変わらない。むしろ悪化した気がして、それがいっそう息苦しさを増していた。


 昨日、あれから熱いタオルと食事が与えられた。

 壁の一部、足首の高さまでわずかな空間が開き、そこからトレーに乗った食事が出された。

 スープとパン。一応、まともな食事に見えた。


 けど、全員、ほとんど手をつけられなかった。毒が盛られているのでは、と疑ったせいもあるが、あんなビデオを見せられた後で、何かを口にできるような図太い神経の持主はいなかった。


 食事が取れないと分かるや、再びあのガスが使用された。

 おれたちには抗いようがなかった。

 気づいたときには、再びベッドの上だったというわけだ。


 何もできない。それがただ悔しく、憤ろしかった。

 どうしてこんな……。

 その思いばかりが、ぐるぐると頭の中を渦巻いてしまう。


 なんで旅行になんか行っちまったんだろう。どうしてあの日、あんな場所へ……!


 口を開けば、互いが互いを罵りそうで……皆が押し黙っているのは、そのせいかもしれなかった。



 *****



 おれが起き出してすぐ、二度目の食事が与えられた。

 こんな状況だというのに、食べ物の匂いを嗅いだ途端に腹が鳴る。

 でも、考えてみれば当たり前だった。長い間ほとんど何も口にしていない。無理にでも口に入れなければ、いざってときに力が出せないだろう。

 それに、食事には毒など入っていないと思えた。もし何かする気なら、おれたちを眠らせている間に、いくらでもできるのだから……。

 そう結論して、おれたちは食事に手をつけた。


 結局、奴らの思い通りかよ……!


 そう考えると、腸の煮えくり返る思いがしたが、ここで意地を張っても仕方がない。そう言い聞かせてスプーンを取り上げたおれは、そこでまた、小さく衝撃を受ける羽目になった。


 上手くスプーンを掴めなかった。

 隣を見ると、今井がすごい勢いでがっついている。

 他の奴らも、特に不自由を感じている様子はなかった。


 ……おれだけ……?


 ようやくスプーンを握り締めても、思うように腕が動かない。

 仕方なく両手でボウルを持ち上げたが、手が震えて、あと少しでボウルをひっくり返すところだった。

 慌てて椀に口をつけ、両手と口でバランスをとる。そのまま、何とかスープを流し込んだ。


 けど、スープが喉の奥を通り抜けた瞬間、おれは今度こそボウルを跳ね飛ばしそうになった。


「涼司!?」

「矢吹君!」


 皆の鬼気迫る声。


「いや、ちが……!」


 むせながら、おれは何とかボウルを床に置く。


「ちょっと……むせただけだ。毒とかじゃねぇから。……気にしないで、食っててくれ」


 無理やり笑みを作って見せると、皆は一応納得した顔で、浮かせた腰を下ろす。


 けど、おれはそのまま食べるのを止めた。あれほど腹が減っていたはずなのに、スープを口にした途端、胃が痙攣して吐きそうになった。

 食わなきゃ、体が保たねぇのに……。

 そう思ったが、敢えてもう一度、口をつける気にはなれなかった。


 袖口をそっと捲り上げると、紫色に醜く腫れ上がった腕が現れる。

 …………。


 視線を感じて顔を横に向けると、中嶋と目があった。ふと気づくと、池田も水野も窺うような視線を向けている。


 おれは急いで袖口を下ろし、壁に背を預けた。

 なぜか、胸が痛かった。



 *****




 食事を配膳口に戻してしばらくした頃、仁科が姿を現した。


「具合はどうだね?」


 いけしゃあしゃあと、そんなことを聞いてくる。


「矢吹君、君はどうだい?」


 いいわけねぇだろう……。

 仁科を睨み上げると、奴はニヤニヤ笑いながら、水野へと視線を移した。


「君は? 水野君」

「……どうして……」


 消え入りそうな水野の声に、仁科が首をかしげた。


「『どうして』?」

「どうして、私たちなの……? なぜ……!」


 涙を零す水野に、仁科が目を細める。


「すまないね……。私も、君のような子を被検体としてしまったことに胸が痛むよ。だが、我々にはどうしても達成しなければならない使命がある。そのためには、若くて健康な人間の協力が不可欠だった。そこに君たちがやって来たんだ。全ては運命と思ってくれないかな」


 運命、だと……!


「あそこで、都合のいい人間が現れるのを待っていたって言うのか?」


 今井の問いに、仁科は頷いた。


「そう、世間に疑いを持たれずに人を連れてくるには、いろいろと準備が必要だからね」

「準備……?」


 池田がはっとしたように顔を上げる。


「そうよ、家族には? 家族には一体、どう伝えられているのよ? 昨日の話は嘘なんでしょう? だったら、どう……!」


 最後まで聞かず、仁科はキーボードを叩いて、モニターに何かを映し出す。

 それは、ニュース番組だった。

 夜の山が燃えている。その様子を、リポーターがヘリコプターから報道していた。画面の左上に掲げられた見出しは……


『山火事! 大学生6人の行方、依然として不明』


 体が硬直した。

 ……山火事……?


 続いて、映像は昼間に切り替わる。別のリポーターが、沈鬱な表情で何かを喋っていた。


『……どうやら、男女6人の遺体が発見された模様です。いま、消防隊に……』

 続いて映し出されたのは、おれ達の名前だった。


 ……ばかな……。


 リポーターが、顔を隠した母親らしき人物にマイクを向けている。女性のすすり泣く声……。


「お母さん!」


 水野がモニターに駆け寄る。


「お母さん、私はここよ! ここにいるの! 生きてるのよ! お母さあぁん!!」

「どういう……ことですか……」


 掠れる中嶋の声。


「始めから、おれたちを開放する気なんかねぇってわけか……!」


 怒気を顕にした今井に、仁科は肩をすくめた。


「嘘ではない。抗ウイルス薬が完成したなら、君たちは開放されるだろう。……もっとも、戸籍も何もかも変え、守秘義務に遵守してもらう必要はあるがね」

「そんな……ばかな話があるか!」

「君たちに、選択の余地はないと思うが?」


 ……嘘だろ……。


 冗談だと思いたかった。

 今時、こんな理不尽がまかり通るのか……?


 ……けど、もし……。

 もし、あのニュースが現実で、本当にあんな報道がされているとしたら……?

 母さんも彩乃も、親父も、おれがもう死んだと思ってるのか……?


 胸が疼いた。

 ちくしょう、そんなこと……!!




「さて、そろそろ時間だな」


 仁科が腕時計に目を落とす。その言葉を聞いた途端、体が震えた。


 また、“あれ”をやるのか。


 たった3日のことなのに、おれにはもう、あの苦痛が耐えがたくなっていた。

 このままじゃ、本当に死ぬかもしれねぇ……。


 そう思うのに、おれにはそれを止める手段がなかった。せいぜい、大窓を叩くことしかできない。何もできない……!


「待ってくれ!!」


 沸騰しそうになっていたおれを止めたのは、他でもない、今井の声だった。


「お願いだ、助けてくれよ!」


 仁科が、無機質な目で今井を見返す。


「薬が完成すれば、そこから出られると言っただろう」

「いつの話だよ! その前に、副作用か何かで死んじまうんじゃねぇのか?」

「……君の反動は、最も小さかったと思うがね」


 今井は窓を叩いた。


「それでも! 少しずつ反動が大きくなってきてるんだよ……! こんなことを繰り返していたら、おれもいつか……!」


 おれは唇を噛んだ。あいつが何を想定して喋っているのかは想像がつく。

『おれみたいにはなりたくねぇ』だろ……。


「助けて欲しいか?」


 仁科の言葉に、何人かが弾かれたように顔を上げた。


「助けて欲しいかね? そう思う者がいたら、言ってみたまえ」


 こいつ、何を……。


 悪寒が走った。

 仁科の意図が分からない。こんなことを尋ねる意味が分からなかった。


「お願い、助けて!」


 飛びつくように、水野が立ち上がる。

 池田も中嶋も、躊躇うようにしながら次々と立ち上がった。


「助けて……欲しいです……」

「私も……」


 ベッドに座っているのは、おれと朝倉だけになった。


「君たちは? そこから出たくはないのかね?」


 問われて、朝倉の肩がぴくりと震える。


「なぜ、わざわざそんなことを聞くんです……?」


 感情を押し殺したような声。仁科は片眉を上げた。


「僕たちがそう思っているのは、当然ご存知のはずでしょう。何か別の意味でもあると……?」


 仁科はニヤニヤと笑った。


「やはり、君のような人材は是非うちに欲しいねぇ……」


 皆がいっせいに朝倉を振り返る。

 嫉妬と羨望が入り混じったような顔。とりわけ、今井はすごい形相で朝倉を睨んだ。

 朝倉がわずかに唇を噛む。


「ふざけたこと言ってんじゃねぇ!」


 おれはとっさに立ち上がっていた。


「てめぇの目的は何だ! ハナからおれたちを助ける気なんかねぇくせに! 単に、おれたちを嘲笑って楽しんでやがるのか!?」


 はっとしたように、池田と中嶋が顔を上げる。

 仁科は、至極愉快そうに笑った。


 この……!

 本気で殴り飛ばしてやりたかった。

 ぶっ殺してやる……!


 窓を殴りつけてやろうとしたとき、朝倉がおれの肩を抑える。


「涼司! 止めろ!」

「うるせぇっ!」


「助けてやろう。今すぐに」


 ……あ?

 振り返ると、仁科がまじめくさった顔をしていた。


「3回の連続投与で、君たちから様々な情報を得られたからね。その功績に免じて、助けてやってもいい」

「ほ、本当に……!?」


 今井と水野が目を輝かせる。

 だが、続けて放たれた言葉に、誰もが身を硬くした。


「その代わり、誰か一人は残してもらう」


 ……なに……?


「抗ウイルス薬は完成したわけではない。実験はどうしても必要なのだよ。だから、誰か一人は実験に協力してもらわねばならない」

「誰か……って……」

「君たちで選びたまえ」


 戦慄が走った。


「できるわけないだろう!」


 即座に答えたのは、朝倉だった。


「……そうかね? なら、全員に残ってもらうだけだ」


 今井が慌てたように窓に縋り付く。


「待ってくれ! そう、何か基準みたいなものはねぇのかよ。誰でもいいってわけじゃねぇんだろ? なぁ!」


 おれは唇を噛んだ。


 仁科は何度も、おれを被検体として優秀だと言っていた。

 確かに、おれの反動は皆に較べて桁違いだ。普通に考えれば、おれを手放そうとするわけがないだろう。


「基準か。……まぁ、最も反動の大きい者を残して欲しい、というのが本音だがね」


 みんなの視線が、おれに集中する。

 ……ちくしょう……。


「だが、最も反動の大きい者は、最も死に近い者ともいえる。我々としても、君たちから死人を出すのは望むところではない」

「じ、じゃあ……」


 今井が、上ずった声を上げた。


「そう、君のように反動のほとんどない者が実験を続けてくれるのなら、全員が生き残る可能性も高くなるがね」


 皆の視線が、今度は一斉に今井に向かう。


「ま、待ってくれ! おれはそんな……!」

「ふざけんな!」


 気づくと、おれは叫んでいた。

 慌てふためく今井の姿が忌々しかった。

 今井だけじゃない。何も言えない他の奴らも腹立たしかった。

 だけど何より、仁科の言動に我慢ならなかった。


「汚ねぇ真似しやがって……! お前の狙いは一体何だ! おれ達から誰か一人生贄を選ばせて、それでどうしようってんだ!?」


 仁科は苦笑するようにしてから、やれやれと首を振った。


「勘違いは困る。我々としても辛いのだよ、誰か一人を選ぶというのはね。だから、君たちの総意で選んでもらえればと思ったんだが……」

「そんなたわ言……!」

「それなら、君が残るのかね?」

「……っ!」

「死ぬかもしれないというのに、随分と殊勝な心がけだな。感心なことだ」


 頭の奥が沸騰する。

 この野郎……!


「勝手なこと言ってんじゃねぇぞ!」

「それが嫌なら、代わりの者を選びたまえ」

「ふざけんな! 誰がそんなこと!!」


 仁科はため息をついた。


「では、君に聞こう。今井君」


 今井は、びくりと肩を震わせた。


「一番始めに助けて欲しいと言ったのは君だ。ならば、君に答えてもらおう。君なら、誰を残す?」


 今井の体が震えた。

 誰もが、今井と視線を合わせないようにしている。

 ……ちくしょう、こんな真似……!!

 おれは、窓の向こうを睨みつけた。


 どうせ今井はおれの名前を挙げるだろう。そんなことはわかってる。

 まさか、女子の名前を挙げるほど腐っちゃいまい。だったら、おれか朝倉。

 今までの心証を考えても、あいつがおれの名前を口にするだろうことは容易に想像がついた。


 今井が、小声で何かを呟く。


「……ん? 聞こえないのだが」


 仁科に促され、今井は窓を叩きつけながら怒鳴った。


「選べねぇって言ってんだよ!」


 ……!


 仁科が、初めて苛立ったような表情を見せた。


「……ほぅ」


 言って、酷薄な笑みを浮かべる。


「では、君が残りたまえ」

「なっ……!」


 今井の体が凍りつく。


「他の者には部屋を出てもらおう。君の協力に感謝する」


 立ち上がって、部屋の奥に控えた兵士に合図を送る。


「ち、ちょっと待て! おれはそんなつもりで言ったんじゃ……! おい、待てよ! 待ってくれ!」

「では」


 必死の嘆願に、仁科は振り返って今井を見据えた。


「誰か他の者を選ぶのかね? 私はこれでも、それほど時間の取れない身なんだよ。堂々巡りの会話に付き合わされるのはたくさんでね」


 言って、冷えた視線を投げる。


「これがラストチャンスだ。お前なら、誰を残す?」


 沈黙が流れた。誰もが、固唾を呑んで今井を見守っている。


「矢吹……を……」


 ……。

 ……分かっていた。

 分かっていたはずなのに、実際にその名を呼ばれると……思っていた以上に堪えた。


「よろしい。ではまず、君を開放しよう」


 今井が、驚いたように仁科を見返す。


「辛い選択をさせたからね。もう、この部屋には居辛いだろう。先にここを出たまえ」


 苦しそうに、今井の顔が歪む。


「……悪ぃ」


 おれの脇を通り過ぎるとき、今井の呟きを聞いた気がした。

 弾かれたように顔を上げたが、今井は顔を背けたまま、おれの方を見向きもしない。


 ……なんだよ、それ……。

 胸の奥が冷えていく。

 それで、謝ったつもりかよ……?


 部屋のドアが閉じられるまで、誰も口を利かなかった。

 何より最悪なのは、仁科が残した一言だった。


「他の者には、明日返事を聞く」

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