殺人ウィルス
その痩せぎすの男は、
「お互い、名前も知らないというのでは味気ないだろう?」
その男――仁科は、椅子に腰掛けて鷹揚に笑った。
「いいから、さっさと説明しろよ!」
焦れた今井が、大窓を叩く。
仁科は肩をすくめて、モニターを指し示した。
一拍の間をおいて、どこかの部屋が映し出された。画像も音声も粗くてよく分からない。ただ、こことよく似た部屋に思えた。
一つだけ決定的に違うのは、部屋の中央にひどく汚れた台が据え付けられていることだ。
何だよ、ここ……。
ふいに、画面の中が騒がしくなった。
白衣を着た男が何事かを指示すると、屈強な男たち2人に脇を抱えられるようにして、中年の男が連れてこられる。
その男は、ひどく怯えているように見えた。助けてくれと搾り出すような声で懇願している。なのに、兵士たちに耳を貸す様子はなく、まるで機械のように、嫌がる男をベッドに押さえつけ、拘束具のような金具で四肢を次々に固定していく。
……何……してんだよ……。
背筋を何かが這い上がっていく。ドロドロとした感覚が喉元までせり上がる。
やがて、1人の男が何かを手に持って、括り付けられた男に近づいていく。
……注射器……?
やけに針の太いそれを男の首筋に押し込んだ途端、男の体がびくんと撥ねた。
「何を……」
言いかけたおれに、仁科は黙って見ていろ、とでもいうように顎をしゃくる。
思わず怒鳴りかけたとき、
『ぎゃあああぁっ!』
ビデオを振り返った途端、頭の中が真っ白になった。
部屋は真っ赤だった。
真っ赤で、中央にある男の体だけが無くなっていた。
……いや、違う。なくなってはいない。
ただ、滅茶苦茶だった。
そこにあるのは、赤黒い滑(ぬめ)った塊。無数の赤い筋が台から床に零れ落ち、壁はまるで真っ赤なスプレーを撒いたかのようだ。
酸っぱいものが込み上げる。
見たくない。
見ていたくなんかないのに、目が離れない。
それは、本当に人間だったのかと目を疑うのようなシロモノだった。
まるで、内部から何かが喰い破って出てきたような……。
「どうだね?」
問われて、我に返る。
「これが問題のウイルスだよ。恐ろしい効果だろう?」
仁科の頬が緩む。おれは目を疑った。
……笑った……? こいつ今、笑ったのか……?
「幸い、空気感染ではなく血液感染だがね。あのように、静脈に直接投与しなければ感染しない。しかし、致死率は100%だ。ウイルスが体内を巡った瞬間、血管が内部から破裂して即死というわけさ」
まるで笑いを堪えているかのような声。
全身が凍りついた。
「それで……? あなた方は何をしているんです?」
声が、震えてる……?
振り返ると、朝倉の顔も蒼白だった。
「ウイルスの開発をしているとでも……?」
朝倉の問いに、仁科は唸ってみせた。
「惜しいね、残念だが違う。我々が行っているのは、抗ウイルス薬の開発だよ」
「抗ウイルス薬……?」
「某国から、あのような殺人ウイルスを持ち込まれてね、その対抗薬の開発を任されたんだ。対処法のないウイルスなど、兵器としての価値を失うだろう?」
「この……悪魔が!」
池田だった。
「よくもあんな真似を……平気で……!」
絞り出すような池田の声に、仁科は心外だとでも言いたげな顔をした。
「勘違いは困る。あの男は死刑囚だ。我々が咎められる筋合いはない」
死刑囚?
おれは唇を噛んだ。
ふざけんな、嘘をつくな。いくら死刑囚だからって、この日本で、あんな非人道的な執行が認められるはずねぇだろう……!
「それなら、私達は何? こんなところに閉じ込めて、一体何をする気なの!」
中嶋の声も震えていた。
仁科が蛇のような目を細めてくる。
「君たちのような前途ある若者を捉えて、すまないと思うのだがねぇ」
御託はいいから、さっさと言え……!
「きみたちは、抗ウイルス薬開発のためにつれてこられた被検体というわけさ」
……被検体?
「安心したまえ、開発は順調に進んでいる。薬の完成まで、後もう一歩のところまで来ているんだ」
「どういう……意味ですか」
掠れる池田の声に、仁科は笑いを噛み殺すようにする。
「君たちには、ウイルスと抗ウイルス薬の同時投与を行っているのさ」
……なっ……?
おれたちの顔を舐めるように見回しながら、言い含めるように続ける。
「これでも、すでに2回ほど実験させてもらった後なんだよ。だが、君たちは今も無事だろう? これは、抗ウイルス薬が効果を発揮している証しなんだ。……もっとも、多少の後遺症はあるかもしれないがね」
後遺症……?
初めて目が覚めたときの、あのとんでもない苦痛を思い出す。
あれが多少の後遺症、だと!?
睨みつけるおれの視線に気付いたのか、仁科は口の端を上げて笑った。
「おっと、失礼。そんなに怖い顔で睨まないでもらえるかな。……そう、順調に見える開発だが、実は問題もあってね。抗ウイルス薬が効く効かないは、今だ個人差によるところが大きいんだ。今はその原因を探っているところなんだよ」
「おれたちの体を使ってか……」
腸の煮えくり返る思いがする。
仁科は、可笑しそうに笑った。
「君、矢吹君だったね。確か、君が最も抗ウイルス薬との相性が悪かったねぇ」
「……だから何だ」
こいつの勿体つけた言い回しは、いちいち癇に障る。
「ここまで話したのだから、全て話してしまおうか。つまりは、こういうことさ。薬物投与後の反動が大きく、衰弱が激しい者ほど、対抗薬との相性が悪い。それが過ぎれば、死に至る」
体がびくりと震えた。
「ある意味、君は実に優秀な被検体というわけだ。なぜ、抗ウイルス薬との相性が悪いのかを探るためのね」
……っ!
「おい! それじゃあ」
おれが怒鳴るより先に喚いたのは、今井だった。
「反動の出ない奴は? 対抗薬が効いている証拠だろ? 調べる意味なんてないんだろ? だったら、早くここから出してくれよ!」
仁科は、悩ましげに腕を組んだ。
「そうだな。確かに、反動の出ない者は早々に開放してもいい。……今すぐには無理だがね」
「そんな……!」
「落ち着きたまえ。いずれにしろ、対抗薬が完成すれば、君たちは無事に帰れるだろう。全ては、君たちの協力次第というわけさ」
その場に、落胆とも安堵ともとれない声が上がる。
……この……!
こいつに、おれたちを無事に帰す気がないことくらい、皆とっくに分かっているはずだ。開放する気がないから、これだけべらべら喋っているんだろう。
……けど。
「協力してくれるね?」
おれは周りを見回して、唇を噛んだ。
目の前にぶら下げられた希望に、みんな目が眩んでしまっている。
こいつに協力する気でさえいる。
少し頭を冷やせば、すぐ分かることなのに……!
隣を見ると、朝倉も血の気の失せた顔で立ち尽くしていた。さすがの朝倉も、この先どうしたらいいか分からないんだろう。
……それはおれも同じだった。
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