夏の日
「……っ!」
衝撃を感じて、おれは飛び起きた。
その途端、目に飛び込んできた強烈な光に、何度も目を瞬いてしまう。
「ほら兄貴! いい加減に起きろ!」
目の前にいたのは、
「彩乃(あやの)……?」
どうやら、頭を乗せていた枕を引き抜かれたらしい。それが他ならぬ妹の仕業だと気付くのに、一拍の間を要した。
お前……驚かすなよ……。
早鐘を打っている胸を押さえながら、おれは妹を睨んだ。
彩乃は素知らぬ顔で部屋のカーテンを開け放っている。窓から草いきれの混じった熱風が流れ込むたび、ショートカットの髪が小さく揺れた。
「うわ、暑いなぁ! よくこんなところで眠れるもんだ……」
おれは溜息をついた。
彩乃は、結構可愛い部類だと思う。おれが言うのも何だが、丸くてくりっとした目に、もちもちの肌とふっくらした口元。……うん、やっぱりかなり可愛い。
なんてことは、本人の前じゃあ、口が裂けても言えないが。そんなことを言おうものなら、調子に乗るに決まってる。なにせ、外見に似合わず、中身はなかなか小憎らしい奴だったから。
「……お前なあ、もうちょっとマシな起こし方……」
おれの言葉を遮り、彩乃は机の上の時計を指差した。
「兄貴が寝坊しすぎなの。もう1時よ、1時。それもお昼の! 分かってる?」
どうやら、正午を過ぎても眠りこけているおれを見かねて、わざわざ起こしにきたらしい。
「いくら夏休みだからって寝坊しすぎよ。しかもこんなところで。だから、うなされたりするんでしょう」
うなされる?
そう言えば、全身ぐっしょりだった。
……待てよ、おれ、さっきまで何か――
強烈な違和感が込み上げる。けど、何も思い出せない。
くそ、何だこの気分――
思わず額に手をやったとき、頭上から枕が降ってきた。
「……いてっ! おい、彩乃!」
見上げると、彩乃がぷりぷりとした顔で見下ろしていた。
「いいから、もう起きる! ……全く、これだから大学生は……」
このまま黙っていたら、またいつもの説教が始まっちまうだろう。
「分かった分かったよ、起きるから! ……だけどな、彩乃。おれだって、ただ遊んでるわけじゃねぇぞ。昼まで寝てるのだって、夜勤のバイトで……」
彩乃はあっさりとおれの言葉を遮った。
「そんなこと知ってるわよ。で、明日から友達と旅行なんでしょう? ……いいなあ、こっちは受験勉強の真っ最中だって言うのに」
「……」
それを言われると辛い。おれは、なんと答えて良いのか分からずに彩乃を見下ろした。
彩乃は高校3年生だ。おれと違って頭の出来が良いとはいえ、我が家の経済状況を考えると、国立大学にしか進学できないと思い定めている身には、受験はそれなりのプレッシャーだろう。こんな時期に、おれ一人遊びに行くことを悪いとは思っていた。
だが、黙ってしまったおれを見て、彩乃は小さく舌を出した。
「冗談だってば。気にしないで行ってきてよ。兄貴が友達と旅行に行くなんて珍しいんだから。……というより、あれ? 初めてなんじゃない?」
おれは曖昧に頷いた。
「……まあな。2年生になるまで、サークルになんて入っていなかったからな」
ああ、と彩乃は頷いた。
「兄貴、バイトばっかりだったもんね。……そんなに頑張らなくてもいいのにって、お母さんも言ってたよ? お小遣いぐらい出すのにって。うち、そこまでお金ないわけじゃないんだから」
おれは苦笑した。
「分かってるよ。でも、夜勤の工事現場ってバイト代がいいんだぜ? それでつい……かな」
彩乃がしかめ面をしておれを見上げる。
「でも、所詮はバイトでしょ? きちんと勤めてから稼いだ方が、ずっと効率的じゃない」
あ、やばい。と思ったときは遅かった。
「いい? 学生は勉強が本分なの。しかも兄貴は理系! もっと勉学に勤しみたまえ!」
おれは軽い頭痛を覚えて、額に手を当てた。
「お前、その説教グセ、大学に行く前にどうにかした方がいいぞ。一体、誰に似たんだよ……」
彩乃は、へへぇん、といでも言うように、なぜか胸を張りながら笑う。
いや、だから何でそこで威張るんだよ。
「でも、ずっと不思議だったのよね。今から、そんなに貯めてどうする気? 何か欲しいものでもあるの?」
……欲しいもの?
問われて、思わず肩をすくめた。
「いや。特に目的があってバイトしてたわけじゃねぇし……」
いい加減なおれの答えに、彩乃は苦笑する。それから、ニヤリ、という言葉がぴったりくるような笑みを浮かべた。
「ねぇ。じゃあ、そのバイト代、今日はちょっと散財しない?」
「……は?」
いつの間にか、夢の後味の悪さはすっかり消え失せていた。
*****
「親父、ちょっといいか?」
それから約2時間後、おれは親父の仕事部屋を覗いていた。冷房の効いた部屋から、ひんやりした空気が流れ出してくる。
「……ああ、涼司か。なんだ?」
親父は、パソコンに向かっていた顔を上げた。
おれの親父は、大抵は家にいた。いわゆる在宅勤務だ。
詳しい仕事内容は知らなかったが、ホームページ作成を請け負ったり、ネット取引をしたりといった具合らしい。最近は何かと出かけることも増えていたが、基本的には日がな一日、パソコンに向かっていることが多かった。
こんな親父も、昔は普通のサラリーマンだったらしい。けど、親父が交通事故に遭って以来、生活は一変した。
おれがまだ、小さかった頃の話だ。当時のことは良く覚えていないが、後から聞かされた話によると、親父は一時、歩くことさえままならなかったらしい。ここまで回復するには、長いリハビリ期間が必要で。それが会社を辞めた理由で、その後も再就職ができなかった理由と聞いていた。
不幸中の幸いは、事故を起こした相手からの慰謝料やら保険金やらで、一家四人が生活していく分には困らなかったことだ。とはいえ、余裕のある暮らしとも言えなかった。
そのせいだろう。親父はやがて、家でできる仕事を探しては小金を稼ぐようになっていたし、母さんも近所のパートに出ては家計の足しにしていた。……そんなこんなで、おれもつい、バイトばかりしているのかもしれなかった。
だが、バイトの理由にそんなことを口走ろうものなら、親父たちに渋い顔をされることは目に見えている。『余計な心配は、お前が一人前になってからで充分だ』と。
……全く、彩乃の言う通りに違いなかった。
そんなことを思いながら部屋に入ると、全身を冷気を包まれ、思わず身震いしてしまう。
「うわっ。この部屋、よく冷えてんなぁ」
つい先ほどまで、うだるような炎天下を駆けずり回っていただけに、生き返る心地がする。
「……悪いな。おれだけ涼んでいて」
どこか申し訳なさそうな親父に、チリ、と胸が疼く。
……パソコンが壊れたら元も子もねぇんだから、いいんだよ、そんなことは。
わずかな苛立ちを覚えながらも、おれは何とか、素知らぬ顔で話を進めた。
「なぁ、親父。うちの物置にバーベキューセットってあっただろ? それ、2、3日借りてもいいか?」
親父は目を瞬いた。
「バーベキューセット? ああ、そういえば、そんなものもあったな」
親父は少しだけ懐かしそうに目を細める。
「別に構わんよ。……旅行先で使うんだろう?」
おれは頷いた。
「昨日、朝倉から電話があってさ。貸し別荘でそいつを借りると、それなりの値段がするんだと。だから、もし誰かが持っているなら、持参しようって話になって」
そうか、と頷いた後、親父は首を傾けた。
「……朝倉? おまえと一緒に行く友人か?」
「ああ」
答えてから、おれは今まで、朝倉の名前を口にしたことがなかったことを思い出した。
「高校のときからのダチだよ」
その言葉に、親父はどこか意外そうにおれを見上げる。
「お前にも、そんな友人がいたんだな……」
ざわりと胸の奥が疼いた。
「……涼司?」
不意に黙り込んだおれを見て、親父は首をかしげる。
「どうかしたのか?」
「……いや」
小さく答えて、おれは顔を背けた。
まずい、と思った。
しばらく忘れていた感覚が沸き起こる。
くそ、なんで……。
親父はわずかに眉を顰めたが、それ以上は何も聞かないでいてくれた。正直、それが一番有難かった。
だから、おれも何でもない振りで口を開いた。話題を変えるつもりだった。
なのに、おれの口をついて出てきたのは全く逆の言葉だった。
「……おれにダチがいたら、おかしいか」
親父が、はっとしたように息を飲む。おれも自分でぎょっとした。
……何言ってんだ、おれは。
そう思うのに、口が止まらなかった。
「おれにダチがいたら、おかしいかよ」
「――涼司」
ああ、くそっ……。
なぜだか、無償に苛ついてきた。
なぜ、こんなことで苛つくのか分からなくて、おれはすます苛ついてしまう。
ちくしょう、何だってんだよ……。
思わず頭を掻き毟ったとき、親父が立ち上がった。
「涼司」
ああ、だめだ、やばい――
「悪い、ちょっと……」
そう言ってきびすを返そうとした。さっさと部屋を出るつもりだった。
なのに、部屋を出ようとしたところで、手首を掴まれる。
なっ……?
おれは驚いて振り返った。
いつもなら、こんなときは放っておいてくれるのに。
「……あ、いや、悪い」
親父も、我に返ったように手を離す。それから、ぎこちない笑いを浮かべた。
「なあ、涼司」
それから、迷うように口を開く。
「……少し、話せないか……?」
おれは目を見張り、それから顔を背けた。
親父の行動に少し驚いたせいで、わずかに冷静になった自分を感じていた。
でも、口を開くのは怖かった。また、妙なことを口走りそうな気がして。
そのとき、階段から顔を覗かせた人影があった。
「ねぇ、どうかした?」
彩乃だった。
少し気遣わしげな表情でおれと親父を交互に見つめる。
「何でもねぇんだ。ちょっとその、久々に、熱くなりかけただけで、……」
彩乃がおれを見上げる。
それから、親父の方をちらりと見て、気を取り直したように頷いた。
「そっか。……で? 兄貴、今日の件はもう話したの?」
……あ。
「いや、まだだ。……悪ぃ」
歯切れの悪いおれを見て、彩乃はとててっと駆け寄ってくると、軽くおれを小突いた。
「なら、早いとこ話を済ませて、下に降りてきてよ? 早くしないとお母さんが帰ってきちゃう。あたし一人じゃ、手に余るんだからね?」
お前は……また……。
とっさに胸に込み上げてきたものがあって、でも、それを無視して、どうにか苦笑いを浮かべると、彩乃はくすりと笑って、何事もなかったかのように階下へと降りていく。
その姿を見送りながら、おれは息苦しさに胸を押さえた。
……こんなだから、おれは……。
これが理由だった。おれに長い間、友人と呼べる相手がいなかった理由。
何を逆切れしそうになっているのかと、自分でも不思議に思う。
けど、それでも――
「……で?」
おれはどうにか口を開く。
「話って、何?」
つっけんどんに、それだけ言うのが精一杯だった。
*
*
*
そこまで話し終えたとき、おれは背後に気配を感じて振り返った。
「彩乃……?」
部屋の入り口で、彩乃が腰に手を当てておれを睨んでいた。
はっとして時計を見ると、すでに4時半を回っている。4時半!?
……まずい。
すぐに階下に行くといってから、軽く1時間近く経っている。
「いや、これはその……」
言い訳しかけたおれは、彩乃に睨まれて口を閉じた。
怒った彩乃はけっこう怖い。
「で、兄貴。今日の予定、もうお父さんには話したの?」
「……あ」
思わず冷や汗を浮かべたおれに、彩乃はため息をついた。
「いいわ、あたしから言うから。兄貴は先に下に行ってて。下ごしらえの終わった食材を運んで、テーブルのセッティングをすること!」
おれは、内心で首をすくめた。
本格的なお怒りモードに入っている。こうなったら、おれにできるのは、ひたすら逆らわないようにすることだけだった。
「……セッティング?」
けど、彩乃の言葉尻を捕らえて、親父が声を上げる。
「これから、何かするのか?」
彩乃は、得意げな顔で頷いた。
「うん。お母さんが帰ってきたら、バーベキューをしようと思って」
親父は目を瞬いた。
「バーベキュー? 今から?」
「そう。下準備はほとんど済ませたから、後は焼くだけよ。すごいでしょう?」
小さな胸を自慢げに張る彩乃に、親父は目を白黒させた。
「あ、ああ。……でも、何だって急に?」
「兄貴がバーベキューセットを持っていくって聞いて、急に懐かしくなっちゃって。あたしもやりたいって思ったの。それに、今日はお母さんの誕生日でしょ? 驚かせるにはちょうどいいんじゃないかと思って」
親父は、一瞬きょとんとした。
それから、すぐに大きく頷く。
「バーベキューか。ああ、すごくいいね」
彩乃は顔をしかめた。
うん、そりゃそうだ。おれから見ても空々しさ満点だからな。
「もしかしてお父さん、お母さんの誕生日、忘れてたの……?」
親父は目に見えてぎくりとした。途端に、彩乃の顔が険しくなる。
親父は慄いたようにおれに視線を移した。哀れっぽい顔で、おれに助けを求めているのがわかる。
けど、おれを見たって知るもんか。忘れていた親父が悪い。
おれは彩乃の怒りの矛先が変わったのをいいことに、敵前逃亡を決めた。
「じゃ、おれは先に下に行ってるから!」
後はよろしく、とばかりに部屋を後にする。
それから、彩乃と親父が階下に下りてくるまでには、少し時間がかかった。
それが、親父がこってりと彩乃に絞られていたせいなのか、それとも……親父がおれの話を彩乃に伝えていたせいなのかは分からない。
*****
仕事から帰ってきた母さんは、庭の様子を見て目を丸くした。
母さん自身も、自分の誕生日のことはすっかり忘れていたらしい。
突然のことに驚きながらも、母さんはとても喜んでくれた。傍目で見ても分かるほど、……というより、誰がどう見たって間違いようのないほど、心底うれしそうだった。
で、バーベキューの串を握り締めながら、感極まったのかボロボロ涙を零したのは親父の方だった。
もともと涙もろい方だとは思っていたが、『こんな家族を持っておれは幸せだ』 とか、臆面もなくクサイ科白を吐くものだから、おれたちは身の置き場に困ってしまった。
全く、どうしてそんな科白を……。
何も言えないおれを他所に、彩乃は苦笑しながらも、親父を散々からかってその場を盛り上げ、母さんもころころと笑い続けた。
……でも、やっぱり。
アルコールが入っていたせいだろう。身体が程よく火照るのを感じながら、おれは馬鹿みたいに思った。
こういうのって、いいよな……。
皆で笑えるのがうれしい。
そして、そんなふうに思えるのは……。
かつて親父とおれを襲った不幸の分だけ、今の幸せを余計に感じ取れるのかもしれない。
だとしたら、おれはある意味、恵まれてるのかもな……。
そんなふうに思って、おれは苦笑した。
おれも親父のこと、馬鹿にできねぇや。
涙を拭き拭き、馬鹿騒ぎをしている親父を出汁に、その日のささやかな祭りはあっという間に過ぎていった。
これからもこんな日が続くと。それを信じて疑うことなんかできずに――
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