50.剣と彼女のオカルティズム②

 バレルから、糸が伸びるのが見える。線と言い換えても良い。それが果たして正しい表現なのかは分からない。


 ただ、今の僕の主観はアレを糸と認識していた。


 糸の伸びる方向は双方向で、ひとつは山岸このはに向かっていて、もう一つはまだ見ぬどこかへと伸びきっていて、つまりバレルは糸の中継地点なのだった。


 wifiで言うところのルーター、呪いを繋げる触媒である。


 それを思うと、この空間全体に糸が絡まりすぎているというか、あちこちにルーターがあることになる。切ろうと思えば全部切れそうだ。しかし、今切るべきものは一つだけだ。


 沙也加は僕を構える。

 切っ先の向かうところは、あのバレルの方。

 背後からは山岸このはが駆け寄ってくるのが見える。


 このはが追いつく前に、バレルが取り戻される前に。


 沙也加は僕を振り回した。しかしその動きは当てずっぽうだった。全く関係ない糸が切れることもあれば、ただ空振りするだけに終わることもある。そしてその軌跡のいずれもが、山岸このはの糸を切れずにいる。


 ……少し、分かったことがある。

 外部とコミュニケーションは可能だ。ただ、僕のすべてをこの剣に込めている間は不可能というだけなのだ。回路の一部、その少しを元の身体に繋げること。それが出来れば沙也加に声を届けることも出来るし、切るべき場所を伝えることも出来る。


 さっきは僕の声が聞こえたのだと思う。だから僕を手に取って、このはとバレルの間にある糸を切ろうとしてくれたのだ。


 精神と身体は不可分なはずだ。僕の精神は元々と繋がっていた。ならば、不可能なことではない。


 声を。沙也加に声を、届けなくては。

 切るべきは空では無い。切るべきはそこでは無い。断ち切るべき糸は沙也加の振る場所には無く、その位置はーーーー


「きるのは、そこじゃ、なくて。バレルの、そこ……うえとしたと、……りょうほうを」


 声が届いたようだった。

 僕の言葉は途切れ途切れ、その一端だけが声となって出力された。だが、一端だけで十分だった。沙也加は僕を再び構える。

 今度の切っ先は僕が指示したとおり、バレルの底面。

 そこには呪いと人とを繋げる糸の寄り集まりがある。


 バレルから伸びる糸は二つ。

 このはから伸びる糸は緑色を、もう片方から伸びる糸は虹色をしている。

 沙也加はそのうちのひとつに刃を振るう。山岸このはから伸びる、緑色の糸だ。

 糸と僕の身体がぶつかる。

 じょきん、と。紙でも切ったかのような感触が身体に伝わっていく。


 バレルとこのはの繋がりは切断された。とても簡単に、あっさりと。

 沙也加はそのまま、僕をもう片方のーーー虹色の糸の方に取りかかる。


 ……だが、今度はうまくいかなかった。

 なぜなら虹色の糸は僕を食い込ませて、刃を止めてしまったからだ。

 

 このはとバレルとの間にある呪いは切り取られている。


 僕はバレルを呪いのルーターに例えた。おそらく、虹色の糸が山岸このはに影響を及ぼすためにあのバレルは存在する。ならばこのはとバレルの繋がりが切れた今、呪いは追い払われた状況と言って良い。


 ……しかし、あの虹色も切るべきだ。再びこのはがあのバレルを手にしてしまえば、元の木阿弥になる。呪いの大本、発生源である虹色の糸を断ち切らなくては根本的な解決にはならない。

 しかし、なぜ切れないのか。

 刃を当てる位置を間違えていると言うわけでも無い。

 沙也加は正しい位置に剣を振るい、しかし刃の方は糸を途中までしか切ることが出来なかった。

 ならば、間違っているのは沙也加では無く僕の認識の方だ。


 ……思い出す。

 糸とは何かと言えば、それは意図の集積だ、と僕は言った。それは架空存在と呼ばれるものの成り立ちとか意味とか、それを用いてどうしたい、というような願望のことを指している。

 

今、僕はそれらと同じ次元にある。

 魂の次元へと次元上昇させた、架空存在に干渉出来る道具。それが今の僕のあり方だった。

 ならば、考えることは。

 なぜ切れないのか、どうすれば切れるのか。

 今の僕には正解が見えている。考えることはひとつだけ。


 大久元文書。

 とある神社から発見された文書であり、その本文には神代文字が用いられているという。

 神代文字とは何か。

 それはすなわち、上古以前、古代をさらに遡った神代において用いられていたとされる文字たちの総称である。一般に有名なのはヲシテ文字や竹内文献に用いられるもの、ハングルを改変した阿比留文字、そしてカタカムナ文字など。


 その思想は日本という国家のナショナリズムによって成り立つ。文化の中心たる中華圏の周縁に属していた日本は、思想も言葉も中華という他者の影響を受けざるを得なかった。何より、文字も。


 文字とは人間の思考や思想を記録する媒体である。

 僕らは先人が記録した言葉を用いて学習する。記録された言葉が、僕たちの思考のあり方を規定するということでもある。


 ……だが、日本には漢字伝来以前から大和言葉があり、その言語体系は中国語とは大きく異なっていた。そして近世以降の学者たちはその事実を発掘し、日本人には中国から影響されたものだけではなく、オリジナルの精神が存在することを主張した。


 その主張を裏付けるための文字が、漢字からの派生であるひらがなやカタカナではない、大和言葉を書き記すための文字である神代文字である。

 

 大久元文書において用いられる神代文字も久元文字という独自の文字を用いている。

 しかしながら、文字はオリジナルでは無くカタカムナ文字の改変に過ぎない。カタカムナ文字とは楢崎皐月氏が発見した神代文字のことを言う。日本軍お抱えの研究者だったという楢崎は地質調査のために方々を旅していた。そんな中、とある山中でマタギを助けたことをきっかけにカタカムナ神社にまで案内され、そこで彼はカタカムナ文献を発見したーーー


 カタカムナ文字なるものの真偽をひとまず置いておくにしても、「ちよろずのつどひ」と彼らの共通点は明らかである。まず間違いなく、彼らはカタカムナに関する周辺の影響を受けている。

 

 それは彼らの話の出所が、模倣であることを示している。 


 そうであるならば、この話はすべてがフェイクだ。

 発見されたとする神社、大久元神社なる社は実在せず、文書にも原文が存在しない。つまり、架空の存在に過ぎない。そんなものが、在るわけが無い。

 無いものは、存在し得ない。

 存在しないものは、切るまでも無く消え去るほか無い。


 するり、と刃が抜けた。刃が糸を断ち切る。

 熱伝導スプーンがアイスをすくうかのように、あるいは熱したナイフがバターを切り裂くかのように。


 分かったことがある。

 ーーー僕が対象をどう思っているかによって切れるかどうかが決まるのだ。

 怪異を理解し、それを否定すること。僕がそれを「偽物だ」と思うこと。それができれば、いとも簡単に糸は断ち切れる。


 呪いは解けた。必要なことは実行された。

 沙也加は僕を鞘の中へと収めていった。

 視界が黒く、世界が閉ざされる感覚に見舞われる。だが、もう理解している。この世界観の終わりは、元の身体への帰還となる。


 僕の意識はぷつん、と。眠りに落ちるかのように消失した。

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