48.僕が彼女について忘れていたこと

「ここですよ。本当おいしいんで、ぜひ飲んでみてください」

「そうなんですか」

「そうなんです」


 僕は円藤沙也加の案内に従って一つの出店の前までたどり着いた。

 白い天幕の下には数人の年齢がバラバラな男女がそれぞれ飲み物などの準備をしている。

 沙也加は客引きをしたフリを、僕はそれに連れられてきた人物を、それぞれ演じていた。 

 素知らぬ顔で勧められるままにコーヒーを注文する。

 天然水で淹れたコーヒーという触れ込みだった。

 そういえば、沙巫と一緒に行った喫茶店にも似たようなメニューがあったことを思い出す。


 きちんと豆を挽くところからやっているらしく、到着するまでには時間が掛かった。

 その間にも沙也加は僕に「今日はどこから来たんですか?」などと世間話を仕掛ける気の良い店員を演じ続けた。


「東京から」

「ぶふっ……いえ、すみません。少しむせました。ええ、東京ですか」


 僕の答えに沙也加が吹き出す。

 なぜ吹き出すのか。小杉から丸子橋で多摩川を渡れば都内になる。

 つまり実質東京みたいなものだ。

 そもそも、こんな場所で自分の正確な個人情報を伝えるつもりも無い。決して見栄では無い。


 その後もこのあたりは良い空気があふれてます、とかここは有機栽培のものしか使ってませんよ、というようなことを沙也加は語り続けた。こういう時の沙也加は良く口が回る。


 そうこうしているうちに、ひとりの女性が紙コップに入ったコーヒーを持ってくる。

 20代くらいの女性だった。沙也加よりは短いショートカットで、髪は染めていない。化粧はしているようだが、薄めのナチュラルメイクのようだった。

 服装は麻のような質感のワンピースで、いまの沙也加が着ているものに近い。


「どうぞ」


 彼女は不自然に作られた笑顔で僕にコーヒーを手渡してきた。


「ああ、ありがとうございます」


 紙コップから漂う湯気が鼻孔を擽る。確かに香りは良かった。味は、と一口飲んでみたが少し酸味が強い気がした。口当たりは悪くないが、この間の喫茶店の方が美味しい。


「ちょうど良いところに来ました。ねぇ、このはさん」


 沙也加は僕にコーヒーを手渡した女性に呼びかけた。


 山岸このは。「ちよろずのつどひ」に入会し、家の口座からグッズや合宿参加費などを支払って金銭トラブルを引き起こしたのだという。彼女こそ今回の事件の渦中の人物だった。


「何かあった?」


 山岸このはは沙也加に問いかける。

 その声には信頼というか、気の置けなさを感じ取れた。

 沙也加が言うところには、合宿で彼女を見つけてからは積極的に語りかけ、近づき、良好な関係を築いているようだった。


 実際、沙也加と接する時は外部の人間に対する不自然な笑顔はなりを潜め、ナチュラルな表情でもって接していた。


「この方なんですが、色々と興味があるようなのです」

「ああ、そうなんですね」


 再び作り笑顔で問われたので「ええ、はい」と肯定の意を返す。


「文学部の学生なんですよ。古代文字に興味があるようなのです。バレルにも興味があるらしくて。でも、私持ってないじゃないですか」

「注文したばっかだもんね」

「はい。残念です。なので、ちょっとこのはさんのを見せて貰いたくて」


 山岸は沙也加の言葉に「いいよ」と即答すると、コートのポケットから金属製の円筒を取り出した。


 見覚えがある。「ちよろずのつどひ」のホームページで約五万円で販売されている高額商品だった。


 山岸はうやうやしい調子で僕に手渡してきたので、僕も恐る恐る受け取る。


 ホームページで見たときは誰が買うのか、と懐疑的だったが、しかし実際に購入して大事にしている人物が目の前に居ると、どうしても粗末にする気持ちにはなれなかった。


 受け取った金属製の円筒は、思ったよりも重量感と存在感がある。

 直径は小ぶりの水道管くらい、長さは10cmほど。降ってみるとからん、と空洞内に入った金属片が転がる音がした。


 円筒の上下……数学の図形でいうところの底面には記号が刻印されていた。


「綺麗でしょ?」

「え?」


 言ったのは山岸だった。

 それは僕に語りかけるようでもあり、山岸の感想が漏れたかのようでもあった。


「久元文字はただの文字じゃない。ただの円形の記号ではなく、世界の循環を表現している……それは月の満ち欠けとか、天体の運行とか、原子の運動とか……とにかく、そういう回り回るものの象徴なんです。人によって見え方は変わる。誰もが同じものを見ることは無い。……あなたには、どう見えますか?」


 記号は○、)、∪、(、⌒、というように、円の軌跡の一部を切り取ったものが並んでいる。循環が一つ終われば今度は円の中にーが足されたものが続いた。


 それがさらに渦巻き状に並んでいる。それは蚊取り線香でもあり、アンモナイトの殻のようでもあり、銀河のようでもあり、DNAのようでもあって、どこまで続き、奥深くまで飲み込まれそうな魅力がある。この世界の真理に繋がっているような、真善美しんぜんびを表してもいるような、誰も知らない本当しんじつにたどり着けるような、そんな予感と期待が―――


「―――っ、そうだね。僕には、ただの黒に見えるよ」


 僕は何を考えているのか。

 思考が定まらない。


 ただの記号に僕の心が持って行かれそうになった。

 ……そう。ただの記号だ。


 円と線の組み合わせに過ぎない。だが、僕はその記号から眼が離せない。

 いつだったか、最近似たような感覚を覚えた気がする。

 それは何だったろう。なぜか、思い出せない。


「黒、ですか」


 僕の答えに山岸は少し残念そうな顔と声音で言った。

 僕は見たままを言った。このバレルの刻印には何らかの塗料が墨入れされているようだった。

 それ以外には見えない。

 山岸の抽象的かつ観念的な物言いは比喩に過ぎないものだ。この文字が、塗料の色以外を放つことはあり得ない。

 ……そう思って、視線を文字に戻した。


「―――これは」


 もう一度見た文字。どうしても見ずにはいられないそれを視る。

 今度は、文字が赤紫に輝いて見えた。遠く彼方からこちら側へと招待するような光が円筒に刻まれた文字からあふれ出している。


「見えましたか?」


 見えている。

 先ほどまで見えなかった光が、僕に降りかかっている。


「何色ですか?」

「赤……いや、赤紫色、に」


 信じられない気持ちで文字をもう一度視る。


「ア、イ、ウ、エ、オ……いや、a,i,u,e,o……ですね」


 分かる。文字の持つ意味と音が、すんなりと理解できる。


 ただの記号では無く、ただの丸と線の集まりでは無く、ただの音でもない。

 ○とーの繰り返しによる無限の循環こそがこの文字の持つ意味であると、心が理解している。


 この理解はとても懐かしい思いを惹き起こしていて、かつて繋がっていた感覚が一度断ち切られて今に至っている事実が脳内を感動ともに駆け巡り続けているのだ。なぜ忘れていたのか。なぜ思い出そうとしなかったのか。涙が止めどなく溢れだし、思い出したことに歓喜して―――


「セキくん」


 声が、聞こえた。

 円藤沙也加の声だ。


 彼女の声が、僕を現実に引き戻した彼女の声が、僕を仮初に引きずりこんだ


 彼女の表情は僕を慮るものだった。彼女の表情は僕を誘惑し騙すものだった


 脳内の理性と感情は分離したかのように脳内の感情と理性が分離したかのようにめいめい違うことを叫んでいためいめい違うことを叫んでいた


 ……思い出す。この感覚は、あの日も感じている。

 自主祭の日。沙也加が居なくなった日だ。僕はあの日のことを忘れていた。あの日あったことで覚えているのは、沙也加の声だけだった。


  どうしてわすれていたのかと言えばあの日、僕は記号の持つ意味によって沙也加のせいだった感情と理性を引き剥がされた彼女は僕が一度気がついた真理を彼らの主張する歴史や世界観に共感し、邪な術者の力を借りて引き剥がしたのだ共鳴し、歓喜を覚えてしまった奪い取ったのだ彼らの主張する、僕はどうして彼女がそんなことをしたのか古代日本についての哲学や真理なるものに理解できなかったコミットした今となれば簡単でコミット出来た事実を喜んだ。彼女は僕が手に入れることができるようやく、僕の世界にオカルトがやってきた、という喜びとともに彼女は手に入れることの出来ない真実にだが、それは僕が大事だと考えるものを嫉妬したのであって自分で踏みにじるそんなことをする裏切りのような裏切り者だとは思わなかった行動でもあった


『すごい話だね、沙也加。……すごい話だ。この文字は僕が求めてたものな気がする。追い求めても現れないものでありながら、手を伸ばせば手に入るような、そんな本当があれにはあるんだ、きっと』


 思い出した。

 あの日、自主祭の発表の日。僕たちは彼らの作った会誌や聖地巡礼のビデオを半信半疑で見ていた。いつもどおり、彼女とともに僕は正気のつもりで、大喜利でも聞くような心持ちで。さて、どんなトンデモが飛び出すのか、と。


 ……だが、大久瞑が現れ、彼の講演を聴き、彼らの文字を視た瞬間、すべてが反転した。


『セキくん、気を確かに』

『……いや、僕は自分で判断してる。あの人の言うことは正しいと思う。この世界には足りないものがあると思う。それは感謝とか癒やしとか秩序とか、歴史に則った循環とか、そういうものたちだ。僕たちはいつのまにか、それを忘れてしまっていた』

『セキくん、いいえ。思い出して。あなたが信じるものは何ですか?』

『あの文字の持つ深遠な世界。大久瞑さんの言葉。もっと聞いてみたいと思う』

『……思い出してください。そうじゃないはずです。あなたはオカルトがあることを良しとする人間じゃ無いはずです。在ることも無いことも、それをどちらも大切に思っている人間のはずでしょう?』


 思い出して。

 彼女は繰り返し、小声で僕にそう語りかけた。

 何度も何度も、僕に呼びかけた。僕の大切なものを思い出せ、と。

 だが僕は、それを思い出すことが出来なかった。


『君は、何も解ってないんだな。何も視えてないんだ。本当に大切なこと、目に見えないものを感じとれていないんだ。……だから、そんなことを僕に言うんだろう?君はなにも視えないから……』


 あの時、僕は彼女にそんなことを言った。それは僕の止めどない感情が言わせたことであり、意味のない言葉の連関に過ぎない。

 しかし、その言葉は確実に沙也加を傷つけるものだった。


セキくんセキくん


 また、声が聞こえる。

 あの時の声のようにも、今この瞬間の声にも聞こえる。

 どちらなのか、僕には分からなかった。だが、どちらでも良い。


「ごめんね、沙也加さん」


 僕はバレルを持って走り出す。


 沙也加と山岸このはの居る地点から、脱兎のごとく駆けていく。


 遅れて、後から山岸このはが叫ぶ声が聞こえた。泥棒、とか。返せ、とか。そういう至極まっとうな非難の声だった。


 当初の計画通りだ。山岸このはとあの記号のつながりは、おそらくこのバレルにある。バレルこそが記号と世界観と歴史観とをつなぐ依り代となっている。


 このバレルには刻印の上から塗料で塗られている痕跡があった。

 もし、坂田と沙也加の分析が正しいのなら、この刻印の上から塗料を流し込んでいるのは大久瞑ということになるだろう。彼が文字を書くことで呪いは装填そうてんされる。

 そして刻印の上から文字をなぞっても、同じように呪いは機能することになる。


 だとするならば、このバレルをしかるべき手段で破壊することが出来れば、沙也加の言う怪異の解体は成ることになる。

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