46.僕と彼女のあいだにあるズレ
円藤沙也加はいつもどおりだった。
麻製の浴衣に、上からエプロンを被っている。
その姿は無印良品で衣服をそろえた大正時代の女給のような趣があった。
彼女の手には麻製の袋がある。重たそうに、お腹に抱えて持っていた。
「ああ、これ。コーヒー豆です」
あっけらかん、と。
僕の視線に気付いた沙也加は答えた。
「……コーヒー豆」
「ええ。もちろんここで作ってるわけじゃありませんよ。有機栽培している農園から仕入れたものです。どちらかというとここの売りは天然水で淹れるというところでして。しかし、ちぐはぐで笑ってしまいますね。夜な夜な神代文字を教えながら古代日本の精神を説き、昼は有機食品がどうの自給自足がどうのと言って啓発するくせ、こういう時は輸入したコーヒーを提供するというのですから」
僕は彼女がぶつ演説を呆けながら聴いていた。
この調子も久しぶりで、ああ、そういえば彼女はこういう話し方をするのだった、と懐かしい思いにすら駆られた。
まだ一ヶ月も経っていないのに。
「セキくんもどうです?飲んでいきませんか?ちなみに一杯700円です。値段相応の手間暇は掛かっていると思うので、まぁ話の種にでも……」
「いや。その前に、色々あるでしょ」
とはいえ、いつまでも周縁をぐるぐる回るわけにも行かない。
彼女のペースに飲まれそうになったが、今このときはそういうわけにはいかないのだ。
「あー……その、なんです?なんか怒ってます?」
「別段怒ってはいない」
僕の言葉をどう捉えたのかは分からないが、沙也加はしばし上目で虚空を見つめてから、次の言葉を発した。
「ここにはわざわざ追いかけて来てくれたってことですよね。色々手間暇時間を掛けさせてしまってますよね……?」
「いや。沙巫が教えてくれたから。場所はすぐにわかった」
「え、嘘ですよね。スーちゃんが?無理でしょ」
「色々曲げて教えてくれたよ」
「ホントに気に入られたんですね。ビックリです」
「……沙也加さん」
自分が思ったよりも冷たい声が出た。
別段、そういう思いを掛けたわけではないはずなのだが。
沙也加はいつもとは少し違う笑みを浮かべた。罪悪感を笑顔で誤魔化しているような風情だった。
「ここじゃなんですので、裏行きましょうか」
沙也加がそう言うので、彼女の案内に従う。
やってきた場所は会場のメインストリートから少し離れた木陰だった。彼女はよいしょ、と麻袋を根元に置くと改めて僕と向かい合った。
彼女はまたしても「あはは……」と笑みを浮かべた。が、向かい合っている内にその笑顔による誤魔化しにも限界が来たようだった。
「それで、どこまで知ってます?」
「沙也加さんが拝み屋みたいなことやってて、潜入みたいなことをしようとしたら身動きが取れなくなったってことくらいか」
「ほとんど全部ですね」
沙也加はため息を吐いた。
自分の不始末を恥じるような、同時に自嘲しているような調子だった。
彼女には変わった様子は無かった。いつも通りの円藤沙也加のようで、まずその点で言えば少し拍子抜けする。
「それで……ええ。まず、ごめんなさい」
視線を四方八方に蠢かせて、考えた結果の言葉はシンプルなものになった。
「謝らなければならないことは色々あると思います。急に連絡が取れ無くなったこと、代返をさせてしまったこと、諸々黙っていたこと、利用したこと等々……」
「ちなみに代返とかしてないから」
講義を受けたことを示すカードを提出するシステムはあるが、筆跡などからバレると厳重注意を受けるリスクがあるため行っていない。
というか、彼女の学籍番号を知らないので書きようがなかった。
沙也加はですよね、と言いながらしおらしく頭を下げた。
一応、一緒に取っていた講義のプリントは二枚分保管しているが、それを告げるのは今度にする。
「……で。どれについて怒ってます?」
沙也加はそう問う。
どれについて。まぁ、色々あると言えばある。
そして無いと言えば無い。そもそも僕は彼女に対して怒っているのでは無いと思う。
怒っているのでは無くて……
「怒っては無いけど、話さなきゃいけないことはある」
「はい」
「……とても気持ちの悪い言い方になるけれど、僕は君と同じものを見ていると思ってた。同じスタンスを共有しているように感じていた」
「……別に、気持ち悪いとは思いません。誰しもそういうところはありますよ。他人に自分を投影することなどしょっちゅうです」
「そうだね。でも、そうじゃないんだ。僕にあるのは、もっと……なんだか、もっと自分勝手な感情で。……僕は、隠されたものが好きだった。無いはずのものを追い求める行動自体が好きだった」
自分の言葉の行き先が分からなくなった。
彼女に何を伝えたいのか、何を伝えるべきなのか。
どういう言葉が自分の感情を託すに足る言葉なのか。
瞬きをした瞬間に、霧散してしまいそうな恐怖に陥った。
言葉に詰まる。いますぐにもすべてを投げ出してしまいたい誘惑に駆られる。
「大丈夫です。続けてください。これまで、もっと胡乱な話をしてきたじゃないですか。いまさらです」
沙也加はそんな僕の様子を読み取ったのか、優しく微笑みかけた。
ゆっくりと、次の言葉を探す。
「でも、そうじゃなかったんだな。君は怪異の有る世界に生きていて、僕は無い世界を生きていた。それが、なんだか」
無性に哀しいし、寂しいし、恥ずかしいし、寄るべのない感情を覚えさせている。
そういう感情が渾然となっていて、言葉にしてしまえば矛盾するような諸要素が沙也加に対して向けられていた。
「素性を隠していたことを怒っているのですか?」
「いや、そうじゃない」
「……そもそも、私の素性自体に怒りを覚えている?そしてそれを隠しきれなかったことに対して、納得がいかないと感じている?」
怒りという言葉が必ずしも適切では無いことを除けば、つまりはそういうことになるのかも知れない。
だから、やはりこの言語化できないわだかまりには何の意味も無ければ妥当性も無いものだった。自分勝手な感情だった。呆れられても仕方が無いし、これがきっかけで決別しても仕方が無い。
沙也加は再び空を仰いだ。
今日は快晴で、吸い込まれてしまいそうな澄んだ青が広がっている。
それから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……難儀な人ですねぇ」
「そうだね。自分でもそう思う」
「自分勝手でもあります。面倒くさいです」
「返す言葉も無い」
「でもまぁ、私も大概自分勝手ですので。私も勝手に告白させてもらいましょう。実のところを言えば、私はあなたと同じ視点や視線を持っているとは端から思ってませんでした。だって、誰しもがそうです。同じ視点、同じ考えを持っている人間なんてこの世にはいません。いたとしても、その人とコミュニケーションを取ることが果たして実りある結果となるかどうか」
自分に無いものを手に入れようとすることがコミュニケーションでしょう?と沙也加は言う。
必ずしもそうとは限らないと思う。だが、確かにそういう一面もある。
「同じことを考えていなくても同じテーマを共有することは出来ると思うのです。多分、なんですけど、私とセキくんは語りたいことが近かったんです。私が生きている現実と、セキくんが思考する架空。それは違うものではあったけれど、重なり合う部分の多い近似値でした」
言ってから、言葉が途切れた。
沙也加は一生懸命に次の言葉を探し、僕はそれを待ち続ける。
僕たちはいつもこうだ。
確信に近づくと、たどたどしくなる。
どうでも良いことを話している時は言葉が途切れない。
でも自分たちにとって大切なことを語ろうとすると、躊躇が立ち現れる。
それでも沙也加は何とか次の言葉を絞り出した。
「……私は、そうですね。
「……中途半端ってこと?」
「そうですね。私の家は……まぁ今となっては一目瞭然だと思うのですが、つまりは拝み屋のようなことをしている家系でした」
彼女は円藤の家の家業のことを『
「生まれたときから、私の現実はこれでした。世間一般で言うオカルトが当たり前のものとして存在していた。これが普通だと思っていました。世間一般から見ればそうじゃありません。でも、私にしてみればどちらでも良い事柄でした。社会と私の家のズレを知ってなお、私は私が生まれた家の価値観を良しとして来ました」
彼女が語る自分の来歴は、今のところ何の不足も無いものだった。
自分が生まれた世界を自明のものとして受け入れ、それを受け入れてきた、という。
世の中には生まれてきた時点で世界と自分の齟齬に苦しめられる人間だっている。
彼女ははじめから自分の価値観と身の回りの世界をコミットさせることが出来た。
それは幸せなことのように思う。
しかし、そうして自分について語る彼女はいつもとは違う雰囲気を持っているように思えた。
「……スーちゃんのことは聞いていますか?」
「"視える"って言ってたよ」
沙巫は意味深な言葉を残したが、具体的に何を視ることができるのかまでは聞かなかった。だが、今となっては予想もつく。。
「そうですか。ええ、妹は色々な、視えざるものを視ることが出来るようなのです。幽霊、怪異、オーラ……時にはその人の未来が見えたりもするとか」
沙也加はようだ、とか、らしい、というような伝聞形の言い回しを用いた。
「ですが。私には何もないのです」
「……霊感が無い?」
「妹が言うには、私からはなんの因果も感じ取れない、と。徳の高いと言う
しかし、僕の知っている沙也加はオカルトを捨てなかった。
好意とか愛とか、軽はずみに言うことは出来ないかも知れないが、彼女は彼女のパラダイムを固持し続けた。
「……つまり、私はあなたが思っているほど向こう側の存在ではないのです」
残念なことですが、と続ける。
その事実を言葉にすることが、とても苦痛であるようだった。
「だから何、と言うことじゃありません。セキくんの感情と私の経歴には何の関係も因果もありえませんし」
その通りだった。
彼女が辿ってきた時間と、僕が今直面している感情の間に連関するもの無い。
「でも……そうだな。なんて言って良いか分からないのですが」
「うん」
「そういう時間があって、そういう感情があって。その後にあなたと出会えたことは―――良かった、と思うのです」
彼女の言葉を聞く。
僕の持つ今の悩みとか、不満とかに対して、彼女の言葉は意味を持たない。
彼女の言葉は何の解決も導くものでは無かった。
「駄目ですね」
呟いたのは沙也加だった。
「言葉にしてしまうと
「……違うよ」
それは違う、と思った。
そしてその感情は、何か大切なことを示しているようにも思う。
「違う?何がです?」
「必要だとか、意味があるとか、何かの解決のためとか。僕が沙也加さんと一緒にいるのはそういうことじゃ無かったんだ」
彼女と一緒にいることは、常に無駄がつきまとった。
意味の無い言葉、意味の無い博識、
……僕にとって、オカルトもそうだった。
ああ、そうか。
僕は、オカルトが無意味だから楽しかった。
有用性とか実用主義に縛られない、自由な思考を許す地平だから、楽しいと思っていたのだ。
だからこそ、気に入らなかった。沙也加が住む世界において、オカルトは実用的な代物だったから。意味のあること、無駄では無いことだったから。
それが僕の世界と彼女の世界のズレだった。
「僕は、沙也加さんと一緒にいたいと思う。言葉を交わして、色々なところを見て。感想を語り合って……そういう風に、これからもしていきたい」
きっと彼女と一緒にいるということは矛盾をはらむ。
ズレはまだ残っている。そのズレに対する違和感も消えていない。
……場合によっては決裂する未来が待っているかも知れない。
だが、納得はした。
それに、考えてみればずっとそうやってきた。僕は彼女の言うことにいつも同意していたわけでは無いし、だから一緒にいたわけでも無い。
「結局のところ、だからここまで来たんだ」
僕は沙也加のことが好きだった。
僕の中にある違和感とズレを置いても、彼女と一緒にいたいと思った。
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