33.僕と円藤妹の再会

「暗闇坂、か」


 誰ともなくつぶやいた。

 沙也加が言っていたオーストリア大使館を右手にした急峻な坂道を上る。


 今回も前回と同じようなルートを使っていた。

 いや、むしろ前回以上の遠回りになるルートだった。


 それでも彼女が言っていた暗闇坂とやらを見てみたい気持ちもあったのと、気持ちを整理する時間が欲しかったからだった。


 つまり、円藤沙也加の家にまで行くという行為にどれだけの妥当性が認められるか、ということだった。

 連絡が付かずに家まで向かうという行為が、ストーカーのように受け取られたりはしないだろうか。


「いいや」


 そんなことは無い、と自分を勇気づける。

 わけも無く連絡が取れなくなった親しい友人がいれば、心配になるのは当たり前だ。一度は家にまで招かれた。母親と妹に挨拶もした。不審者として追い返されるようなことは無いはずだ。


 僕はそう自分を勇気づける。

 高津と別れてこの家に向かおうと決心してから何度目かの思考だった。

 こうして自分を鼓舞して足を前に進めるのと、再び不安に感じることを交互に繰り返している。


 人の姿は無い。住宅街の、それも平日のそれだったから、当然のことだった。以前円藤邸を尋ねた時と風景も光景も変わりはない。


 あの松の木のような大きなマンションは相変わらず空に向かって伸びきっていたし、やたらと寺が多いのも変わらない。

 目的も、結局は変わらない。円藤沙也加にあいにいく。そのために僕はこの坂を登っている。


 ただ、自分を取り巻く状況が変わっている。


 あの時は沙也加が僕を待っていた。今は分からない。

 たどり着いた先にあるのは拒絶であるかも知れない。

 あるいは、知りたくもない事実かもしれない。


「全部夢だったりしたら、かえって納得するんだがな」


 円藤沙也加などという存在がそもそも僕の想像上の存在でしかなかった、とか。

あるいは存在してはいるのだけど彼女との交流はすべて僕の妄想でしかなかった、とか。

そういうSF小説やサスペンス小説みたいなシュチュエーションを思い浮かべる。


だが、恐らくそういうことは無い。

 高津は僕と沙也加が会話している姿を見ている。通話アプリを見れば彼女と会話した履歴は依然として残っていた。


 以前、一緒に行ったレストランのレシート、映画館や博物館の半券が残っている。

円藤沙也加という存在の痕跡は僕の周りに満ち溢れている。


 しかし、彼女の存在が空白であることに違いは無い。

 僕の目の前に無いものは、無いことと一緒だ。


「そういえば」


 そういう話も沙也加としていた。オカルトが僕の目の前に現れないのなら、それは無いのと一緒ではないか。

 決して本心からの言葉では無かった。僕はオカルトが存在するから好きだったのではない。


 だが、沙也加が僕の人生から存在しなくなったら。

 それは、好きで居続けることは難しいかもしれない。

 あったはずのものが失われてしまう。

 それを思い続けることは辛いことのように思える。確かにあった繋がりが断ち切られた事実。それが絶えず突き付けられることになるのだから。


 仙台坂の頂上を示す看板を通り過ぎて小道に行く。

 世界平和について語ったポールをわき目に何度か曲がり角を行く。

 以前と同じように、円藤邸はそこにあった。

 塀と橘の木に囲まれた屋敷。たどり着いてしまった。


 その門戸を叩こうとして、また躊躇ちゅうちょしている。

 きっと恐れているのだ。何かが確定してしまうことを恐れている。

 僕が抱いている漠然とした恐怖が、現実の上に出力されることを怖がっている。


「どうしたんです?やっぱり変な人なんですか?」


 後ろから声がした。その声にはじかれるように振り向く。

 沙也加か、と一瞬思ったが、そうではないことにすぐ気が付いた。

 そこにいたのは髪を淡い赤に染めたブレザー姿の女子高生、円藤沙巫えんどうすなふの方だった。

 沙巫すなふの物言いは以前とまったく同じだった。


「不審者一歩手前っすよ、人の家の前で出待ちとか」

「まったく返す言葉が無い」

「サヤちゃんならしばらく帰ってきませんよ?またぞろ仕事がどうだのなんだのって出掛けてますから。今度はどこだったかな」


 沙巫すなふは全く何気ない様子で沙也加についての情報を語った。心臓の鼓動が速くなる。今すぐにでも問い詰めて沙也加が今どうしているのかを知りたい衝動が立ち現れる。それを何とか抑えて、極めて冷静な態度を心掛ける。


「へぇ。そうなんだ」

「そうみたいです。いやぁ、しかし嫌ですねぇこう寒いと。そろそろ寒くなってきてマフラーのひとつでもしないとやってられないっすよ」

「僕はちょっとくらい涼しい方が好きだな。ほら、この当たりなんか秋の方が趣がありそうじゃないか?近くに公園とか無かったっけ」

恩賜公園おんしがありますね。図書館の近くっすよ。何とかっていう皇族の人に由来するものらしいっすけどね。セキくんさんが聞いたらなんか分かるかもしれませんけど。まぁ確かに秋は結構綺麗ですよ。銀杏が黄色になって道一面に落ちてくると、秋になったなぁ、なんて思いますよね。そういやセキくんさん、サヤちゃんとこの当たり歩いたりしました?自慢じゃないっすけどこの当たりは良い街ですからね。なんというか、お洒落?品のある町っていうか?」

「自分で言うのか……」

「地元愛の持ち主って言ってください」


 彼女は本当に、途切れることなく言葉を連ね続けた。

 喋らないと死んでしまう。

 沙也加は妹のことをそう形容した。

 実際、沙巫は異常なまでに言葉を途切れさせようとしない。


「沙也加さんとは見てないな」

「もったいないっすよ。坂の下にはレストランもカフェもあるし、食べ歩きできるスイーツ屋さんもあるし。そういう話しないんすか?」

「暗闇坂っていうスポットがあるって聞いたけど」

「パスで」


 モノクロ色の冷たい言葉が耳朶じだを揺らす。

 それまでコロコロと変わっていた沙巫の声と表情から一転して、あらゆる色が消えたかのような無表情でそういった。


 彼女は暗闇坂、というワードを聞いたとたんに喰い気味になった。

 以前会った時もこの手の話題に全くと言っていいほど興味を示さなかった。

 今日も僕がその手の話をしようとした途端に感情を消してしまったかのようだった。


「パスで。本当に、無しで。……もっと楽しい話しましょうよ。あ、そうだ。おすすめのカフェがあるんすよ。なんだっけ、この当たりの地下水を利用したコーヒー出してるんすよ。連れてってくれればチャラにします」


 人によってその手の話に対する耐性は異なる。

 沙巫は本当にこの手の話に対して耐性が無いのだろう。

 少し軽率に話題を振ってしまったかもしれない気になってくる。

 ……が、それと僕が彼女にコーヒーをおごると言う話は繋がりが薄いように思えた。


「いいけど……僕のおごり?」

「そうっすよ?」

「僕の記憶では君の家、随分なお金持ちだったと思うんだけど」

「家がお金もちなのと私がお金もちなことはイコールじゃないんすよ。良いじゃないっすか。私みたいなかわいい女の子におごれるチャンスと思って。あとサヤちゃんとのデートの下見とでも思って。恐れることなくおごってください」


 僕が彼女の意気に押されたのを見て取るや、あれよあれよと言う間に彼女は僕を坂下のコーヒーショップまで誘導した。


 ……まぁいいか。後輩におごるようなものだと思えばいいだろう。

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