32.僕のストーキング
一週間たった。状況は何も変わっていない。
円藤沙也加には相変わらず連絡は取れない。
一緒に取った講義にも姿を見せていない。
まるで痕跡が大学からすべて消えてしまったかのように、彼女はどこにも現れなかった。
僕は意外と……いや、かなり参っていたのだと思う。
学部窓口まで出向いて、何食わぬ顔で英文学科向けのシラバスを貰い、二学年にとる必修講義を調べた。その講義の教室の前で待ち受けたりもしたが、沙也加の姿は見当たらない。
『フランス語は取っていますよ。再履修を取っているのでタイムリーです』
西洋美術の講義を取りながら、ふとそんな会話をしたことを思い出した。
次は学部共通のシラバスで再履修のフランス語を調べてみる。
しかし語学の再履修の対象となる講義は対象がかなり広い。
あまりに数があって絞り切れなかった。
それでも一縷の希望にかけてみたくなった。とあるフランス語の必修の教室で出待ちする。
ふと、自分の行動の異常さに思い至った。
まともじゃない。やっていることはストーカーそのものだ。確かに沙也加とは親しかった。それが急に連絡を取れなくなって妙だとは思う。心配にもなる。
しかし、だから何だというのか。
付き合いは一年に満たない。恋人でも無い。急に連絡の取れなくなった、大学の友達。そんな存在でしかない。
シラバスを使って彼女が履修していそうな講義を調べて、教室の前で待つなんて、そんなことをする必要性は無いのではないか。僕のやっていることに、必然性など無いのではないか。
よしんば、彼女を見つけたからと言ってどうするというのだろう。
もしかしたら普通に僕とつるむのが面倒になっただけかもしれない。彼女がもし……そう、もし無視でもしてきたなら。そういう状況を確定させてしまったら、僕はとてつもないダメージを負うのではないか。
もし、彼女がこの教室から出てきてそういういきさつになったりしたら……
チャイムが鳴った。
彼女はその教室から現れはしなかった。
結局、僕は無駄に想像力を働かせて、無駄に羞恥心を覚えただけだった。
「振られたな」
高津は茶化すような、おどけるような軽い口調で言い放った。
彼に対して別段怒りは覚えなかった。
むしろ、そういう常識的な判断を僕の代わりに下してくれたような感覚すらある。
「付き合ってもいないのに?」
「付き合う前に振られることもあるやろ。相手がこっちの下心に気が付いたりして、そうなると、まぁ男女の関係は恋愛にしろ友情にしろ自然消滅することだってあるわ」
前回と同じように、フランス思想史の講義で高津と鉢合わせし、その後昼食を取りながらの会話だった。
彼は再び沙也加が出席していないことに気が付き、僕に声をかけてきたのだ。
沙也加と連絡が取れないことを告げると、彼はすかさず上のような発言をした。
詳しいことまでは言っていない。
学祭の時のことが、僕にも整理がついていない。それを他人に伝えられる気がしない。
「……そういうもんか」
「そういうもんやろ。それよりどう?ゼミとかさ。オレたちは勉学に励むべき学生なんやから、色恋沙汰にかまけてる暇はないやろ?」
高津は励ますように、近況を尋ねてきた。
……僕はそこまで参っているように見えているのだろうか、と少し不安になりつつ「基本的に小説よんで書評を考えるだけの日々だよ」と当たり障りのないことを答える。
「そっかー……いやなぁ。うちらは何というかもう、しっちゃかめっちゃかや。先輩にちょっと変な人がおるんよ」
「変な人?」
「そ。卒論に
「えっと……日本書記とかの仲間だっけ?」
「まぁ近からずも遠からずやな。でも、いわゆる偽書扱いされとるんよ」
「それはまた……」
随分タイムリーな話題がやってきたものだ、と苦笑いした。もしかしたら、全部何かの仕込みじゃないかと疑ってしまう。
僕の苦笑をどうとらえたのか、高津は真面目腐った顔をしながら腕を組んでため息をつく。
「先生も『それは偽書だ』って指摘したわけや。普通、そこで話は終わるやろ。じゃあ何を題材にして書こうかなーって切り替えて終わりや」
「まぁねぇ。そうでなくても没にされるの多そうだし」
僕のところとは違うな、と思いながら想像で相槌を打った。
「でもその先輩はそこで怒り出しちゃって……『先生は九州で発見された
喧々諤々の議論やで、とぼやいた。
「まさかとは思うけどさ。その人、古代日本史研究会の人だったりしない?」
「え?」
「いや、前聞いたじゃない。そういうサークルについて知ってるかって」
「あー……ああ!あったな、そういうの。ド忘れしとったわ」
高津は「思い出した思い出した。すまんすまん」と頭を掻いた。少しバツが悪そうでもある。そこまで気にすることも無いだろうに、と思う。義理堅い性格なのかもしれない。
「いや、その人は違う。九州出身なんや、その人。あ、ちなみにやけど上記は九州で発見された史書ってことになっとってな。その先輩、郷土愛が強すぎるっていうか、なぁ?そのせいで面倒なことになっとるんやけど」
確かに面倒そうな話だ。
創作の場合、書くにしても論評するにしても自由な余地がある。
小説なり詩なり、一つの作品を相手取る時、例えばよく行うアプローチは作者の人間性と作品を重ね合わせる読み方だ。
こういう人生を送ってきたから、こういう作品なのではないか……という読み方。
あるいは作者の代わりに時代性とかについて考えてみることもある。
こういう事件が起こった時代に発表されたから、こういう展開になったのだ……というような読み方。
この二つは比較的オーソドックスな論評の仕方と言っていいだろう。
それとはまったく逆方向に行くケースもある。
テキストはテキストとして成立しているのだから、作者や時代と結びつける必然性は無いという読み方だったり、それどころか誰が書いたかという情報をノイズとして排除する評論もある。
これについて、どれが正しいという正解がない。
強いて言うなら、どれほど納得できる解釈か、という範疇に過ぎなくなる。
作品自体の創作の場合はそれ以上に曖昧になる。
結局ところ、個人が好きか嫌いかというところに行かざるを得なくなる。
しかし、歴史とか史料を扱う場合、そうはいかない。
そこには一定のルールに則ったうえで妥当性ある論を提示しなくてはならない。
例えば古事記と同時代に作られた史料、という触れ込みで出てきたものがあるとする。だが検証すると語彙や文法などに中世以降の用法が見られる。
そうなると偽書として扱われる。
それを偽書として扱う……つまり中世に書かれた史料として活用する分には問題が無い。
それを触れ込み通りの上代の文書として扱うと問題が出てくる……ということなのだろう。
その先輩は好きか嫌いかという問題を学術の世界に持ち込んでしまっている。
それだけ愛が強いなら文芸創作の方面に行った方が幸せになれるかもしれない。
上記を小説の題材にしても面倒くさい歴史ファン以外は誰も問題にしないだろうから。
「そんでな、その人とは関係ないけど、聞いてみたで、古史古伝研究会」
「え……」
「やっぱ胡散臭いサークルって扱いやな。先輩が……というより、教授の方が気炎を吐いとったよ。『大学当局は何やってんだ』ってな具合で。
「……そうだね、表現の自由があるから」
「そ。でもなぁ……なんか宗教団体というか、カルト一歩手前のヤツらと繋がってるって噂があってな。まぁ題材が題材やから、うちのゼミのOBにも所属してた人がおるらしいねん。それであっちに引き込まれちゃって……っていうケースがあったらしくてなぁ。でもそうなるとどうしようもできないやろ。どんなに説得してもさぁ、結局当人がその話を聞くか聞かないかなんやから」
高津の言ったことを受けて、僕は後悔と納得と、新たな疑問を感じていた。
彼の言うことは全くその通りだ。
どんなに他人が言っても……特に家族でもなんでもない、一介の友人が言っても、当人が聞かなければ意味がない。
そして沙也加に僕の言葉は届いていない。彼女は僕の連絡の一切を無視している。
同時に、古史古伝研究科が怪しい組織であるならば、あの場で感じた妙な感覚にも理由が付けられるように思えた。
何かの熱狂とか熱気が僕の記憶に影響を及ぼした……そういう考え方だ。あるいは何らかの薬物を盛られたか。
そうするとあんなに敵対視していた沙也加が一転、あのカルトまがいの組織に入会するという状況も説明できる。
少し強引な推理かもしれない。
稚拙な推理小説の安直なトリックのような仮定だと思う。
だが、今の僕には稚拙であっても何らかの仮定が必要だった。
沙也加が洗脳か何かをされて妙な組織に捕らわれている。
もしそうなのだとしたら、彼女を救い出さなければならない。
そういう今後の行動指針が見えてきたように思えた。
そうこうするうちに「あかん、もうすぐ講義の時間や」と高津があわただしく食事を書き込み始めた。
食べ終わったタイミングで「僕が下げておくから先に行きなよ」と声をかける。
「それは……すまんな、頼むわ」
「うん。ありがとう、高津くん」
「え?いや、お礼言わなきゃなのは俺の方だけど」
高津は怪訝そうな顔をした。
しかし次の講義が迫っていることの方が問題と感じたのだろう「ホントすまんな、頼むで」と言い残して食堂を出ていった。
さて、と僕も残っていた分の食事を食べて、食器を片付ける。
気持ちが心なしか楽になった。我ながら、単純な性格だと思う。
とにかく、これから考えるべきことは決まったのだ。
それだけは、良いことだと思う。
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