31.僕と彼女の不在
毒々しい宣伝ポスターに書かれた指定の教室に僕らは連れ立って行った。
普段は学科の必修抗議などに使われるような大教室で、多くの人間が入れる部屋だった。
そこでどういう会話があったのか、実は少し曖昧なところがあるのだ。
大まかに、どういう発表をしていたのかは思い出せる。
それなりに金がかかっていそうな丁寧な装丁の会誌をぺらぺらとめくりながら読み、合宿の様子を取った動画を見た、
そこに会員たちがやってきて妙に丁寧な態度でどういう活動をしているかなどを僕らに説き、そうこうしているうちにゲストだという大久冥なる人物が現れ、彼の演説を聞くことになった。
そこで円藤沙也加は立ち上がると「しばらく!」と大声を出したのだ。まるで歌舞伎か何かの一幕のようなその一声。その一瞬だけ茫洋とした頭が晴れるように鮮烈だった。
沙也加が主張したことはおおむね面白みのない指摘の数々だった。
「ここで神代文字として使われているこの文字、いわゆるカタカムナ文字の変形と考えられますが、それをまた別の資料で発見された、という主張ですね?」
大久冥という人物はその質問に肯定を返していたように思う。
思う、というのは、特に大久と言う人物についての記憶があいまいになっているからだった。
恐らく40代半ばくらいの男性だったと思う。髪は白く染めていた。それなりに品のよさそうなスーツを着ていたように思う。
彼の声は記憶から完全に抜け落ちていた。彼の言っていた言葉も。
恐らく大久は沙也加の言葉に肯定を返していた。
「では神代文字と呼ばれる資料群に妥当性が無い、という研究がなされていることはどうお考えですか?」
「 」
「確かに。アカデミーだけが研究の特権であるなどということは思いません。在野の研究から新たな発見が出ることもあるでしょう。しかし、多くの神代文字はその由来が社寺の縁起であるケースがほとんどです。言語学的、史学的に無理があるケースだったり、あるいは何らかの別の文字の変形であることもありますよね。この文字の出自はどうなっているのですか?」
「 」
「……なるほど。ではその発見された史料は鑑定などされましたか?筆跡鑑定や使われている紙などから時代を特定することは可能なはず。どうなのですか?」
「
」
「そうですか。だとするなら……」
果たして、どういう会話になっていたのか。
不思議なことに思い出すことが出来ない。
ただ、僕と彼女の間に何らかの口論があったような気もする。
すべては気がする、だった。多くの言葉に靄がかかり、視えなくなっているかのようだった。
ひとつ言えるのは、どこかでスタンスが逆転したということだった。
結局、何かあって彼女はこのサークルへの入会を決めた。彼女が自分で言ったその言葉は、僕もはっきりと覚えている。
「……分かりました。セキくん、私も入会します。あなたが私のことを信じられないというのなら、それは仕方がないです。だからセキくん、あなたには―――」
気が付いたら、僕は教室から追い出され、大学構内を彷徨っていた。外は暗くなり、出店もほとんどが店じまいをして翌日の準備などに追われている。
円藤沙也加がいないことにはすぐに気がついて、まずは連絡に使っているアプリを見てみた。特に会話ややり取りはなされていなかった。
こうなった時、どう連絡をするべきなのだろう、と僕は少し悩んだ。
正直なところを言えば『何があったんだ?』と聞きたい。だがその質問は妙なものに思えた。自分は確かにあの教室に足を踏み入れた。そこで何らかのやり取りをした。それは確かに覚えているのだ。だが、それと今の状況が全くつながらない。痛飲して記憶が吹き飛んだ、とかそういうことも無い。学祭中の飲酒は全館で禁止されている。
五分ほど悩んだ。そうこうするうちに時間は流れていく。キンキンと耳鳴りがする。何か大切なものが無くなったような焦燥が強まっていく、
結局僕は「どこにいる?」とだけ発信した。答えは10分経っても返ってこなかった。その後も何個か状況確認の連絡や通話を掛けたりしたが、それが応じられることは無かった。
もちろん、翌日もその教室に乗り込むことは考えた。
だが、それは叶わなかった。僕が大幅に体調を崩したからだ。倦怠感、吐き気、高熱が体を襲った。家族は偉く心配したという。回復した後、母親から『学祭に言って沙也加に確かめないと』というようなうわごとを言っていたと聞かされた。しかしそれはうわ言では無かったと思う。本当に、それを押しても行くべきだと思っていたのだ。
体調が安定する前の僕は何かに気が付いていたのかもしれない。本能的にそういう言動を取っていたのだろう。
しかし家族の「そんな体調で行くべきではない」という理性的な主張に全く逆らうことは出来なかった。体調が悪いのも本当で、立ち上がるのもキツいくらいだった。僕は「しょうがないことなんだ」と言い聞かせてそのまま眠りにつくしかなかった。
熱が収まったのは学祭が終わってからだった。
講義が再開する日までには嘘のように熱は収まっていた。
その頭で、こうして何度も学祭のの日に起こったことを回想した。しかし、何度思い返しても、あの日に何があったのか、その核心を思い出すことは出来なかった。
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