29.僕と彼女の出店巡り(ロシア文学編研究会編)

 その次には僕が推していたロシア文学研究会へと向かう。


 2000年代初頭に作られた校舎の片隅にあったその研究会は閑散かんさんとしていた。

 この教室だけが自主祭の熱狂から切り取られているかのようだった。

 20人ほどが入れそうな小教室には本が入れられたカラーボックス、いくつかの丸テーブル、レジというとても地味なものだった。


 僕と沙也加は通されたテーブルに向かい合って座る。メニューは紅茶、ロシアンティー、コーヒー、あとはクッキーとレパートリーも少ない。


 周りを見ても、僕らのほかの客は二人組だけだった。ここに惹かれてくるような人間はあまりいないらしかった。


 ロシアンティーとクッキーのセットを二つ頼むと、本棚になっているカラーボックスの中身を物色した。


 トルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキーの『罪と罰』といった有名どころが目に入る。どちらも読んだことは無かった。せっかく来たのだから、とドストエフスキーの短編が納められた薄い文庫を一冊手に取る。

 沙也加も同じように一冊を手にしていた。


「何借りたの?」

「ロシア怪談集という面白そうな本です。ほら」


 彼女が見せてきた文庫本は黒くおどろおどろしい表紙のものだった。装丁は綺麗で、まだ新しい本であることをうかがわせる。

 それぞれ無言で本の文字を追った。

 そうこうするうちに注文した紅茶とジャムのセットが来る。


「ジャムはお茶の中に沈めず、一緒になめて飲むのがおすすめですよー」


 お茶を差し出した学生が言うのに頷く。

 甘い苺ジャムを舐めて、紅茶を飲む。暖かく、紅茶特有の芳しさが鼻孔びこうをくすぐる。呑みながらも文字を追った。


 僕が手に取ったのは信仰についての短編小説だった。タイトルは『光あるうちに光の中を進め』。

 古代ローマの時代、キリスト教徒として出家したい気持ちを持つ主人公が、出家した友人と議論を重ねながら自分の信仰について悩む……というような内容だった。お茶を飲みながら、その内容を追っていく。


 時折、外の喧噪けんそうがコンパネ材の壁越しに聞こえてくる。どんどんぱふぱふ、という陳腐な音、自分たちの出店の呼び込みの声、あるいは楽しんでいる学生たちの嬌声。


 そうした騒がしさから取り残されるような感覚があるから、僕は去年からこの出店を気に入っていた。


 別段、喧噪が苦手というわけでは無い。学祭で騒ぐ学生に辟易しているということも、無いわけでは無いがそこまで気にしてもいない。そもそもの話をするなら、本当にいとっているなら来なければいい。事実、学祭期間を休みとしているような人間もいる。


 僕は喧噪を厭っているのではなく、楽しみ方が違うだけだった。

 昔から、楽しそうなお祭りの喧噪をはずれから聞くのが好きだった。

 騒がしい場所から一転、耳鳴りのするような静かな場所にふっと立ち寄る時の感覚に魅力を覚えた。そういう静寂を味わうのに、ロシア文学研究会が出しているこの出店は都合が良い。


 別段、ロシア文学に興味があるわけでも好きなわけでもないのに、去年も今年もこの店に来ているのはそういう理由からだった。


 紅茶の香りがする。白い湯気に乗って鼻を刺激する。

 冷める前に飲もうと思い、一口すすった。

 恐らくそう高いわけでは無いティーバックの紅茶。

 だがこれも、ものの善し悪しと心の充実感が比例するというわけではないことの実例と言える。境界に取り残されたような安らぎがあった。


 薄い小説のページはゆっくりと進んでいった。

 僕は普段、ページが進む速さなど気にすることは無い。気にしてしまうと読む速度ばかり気になってむしろ集中できなくなるからだった。そもそも今の自分は時間など気にしなくていい立場にいる。読みたいと思えば図書館に一日中こもっていることもできた。


 だが今は、進んでいる時間の遅さが気になって仕方がない。

 退屈だからではない。逆だった。

 この安らぎがいつまでも続いてほしかったからだ。

 安い紅茶の香り、甘ったるいジャムのべったりとした赤さ、いつかの誰かが書いた何やら深刻な心情をテーマとした文字の羅列られつ……それと、目の前にいる円藤沙也加。

 僕はつい、沙也加に目が行ってしまう。

 この時間が終わってしまうことに対して焦燥を抱いている。おかしな話だった。何故だろう。最近はいつも彼女と一緒にいて、そろそろ飽きが来てもおかしくないというのに。

 沙也加が僕の視線に気が付いた。文庫のページを開いたまま、視線を僕に寄越す。


「ロシアという土地柄なんでしょうかね」

「なんの話?」

「小説の話です。このシリーズの怪談集は私も集めてまして、確かイギリスは持っているんですが、やはり趣が違います」

「どういうところがさ?」

「まず5ページに一回は酒が出てきます。ウォッカ火酒かワインか、ともかく一息つくか眠るかする前に酒が入ってくるのです」

「ステレオタイプのロシア人と言えば極寒の中でウォッカを飲んで顔を赤らめる喉が焼けた大男……って感じだけど、そんな感じ?」

「そんな感じです。ステレオタイプというのもポリコレが叫ばれだした近年では否定されるべきものとなってしまいましたが、事実の一端を描いているものなのかもしれませんね。とにかく何かあると酒が入るのです。魔女に追いかけられてウォッカで一息つくだとか、風景描写をすると街中に昼から飲んでるおじさんがいるだとか、怪奇現象を前にして酒で勢いを付けるだとか。そのおかげでなんだかカラッとした気風さえ感じます」

「恐いっていう感情も国によって違くなるのかな。寒い場所だと幽霊が現れたら酒の勢いで何とかやり過ごせるものなのかも」

「いや、そもそも酒で幻覚を見てるだけかもしれませんよ」

「そうなると怪奇ロマンもへったくれも無いな」

「ああ、でもこの吸血鬼の一篇は心なしかロマンチックというか、いわゆるゴシックホラーの文脈で読めるかもしれません。もっとも登場人物はフランスからの亡命貴族で他の登場人物から浮いている感じもしますが……セキくんのはどうです?」

「こっちは何だか真面目な話だよ。古代ローマが舞台で、享楽的で現世的な生活を続けるか、それとも出家してキリスト教徒として精神的な救いを求めるか……ってことを悩み続ける話」


 僕が表紙を見せると沙也加は「トルストイですか」とつぶやいた。

 特別な感慨やピンと来たような響きが無く、知っている名前を口にしただけのようだった。


「読んだことがあるのはイワンの馬鹿くらいです。セキくんは?」

「僕もイワンの馬鹿くらいか。短いし、なんだか童話みたいなテンポだからすぐ読めた」

「……察するに、トルストイは原始キリスト教というか、あるいは共産主義だとか、そういう質素で公共性のある生活にあこがれを抱いていた人物ということなんでしょうね」

「ああ……確かにそういう感じの文章だ」


 確かにこの小説の主張しようとする方向性は、どこかイワンの馬鹿と通ずるものがあるかもしれない。

 現世的な利益とか快楽を下に見て、清貧でありながら心は豊かな生活を正しいものとする、そういう価値観が文章の中に現れているように思う。

 それを童話として描けば「イワンの馬鹿」に、信仰の話として描けば「光あるうちに光の中を進め」になるのかも知れない。

 

「のちの世に生きて、共産主義の失敗も原始回帰を謳う宗教のカルト性も知っている我々からすると純粋な人としか言いようがありませんが」

「またアイロニックな物言いだ」

「歴史と言うものは常に皮肉なものですよ。歴史となった時点で、どうあれアイロニーから逃れることは出来ません」

「当人は真面目に生きているのに?」

「だからこそです。チャップリン曰く『人生は近くから見れば悲劇に、遠目に見れば喜劇となる』。そしてあとから回想すればアイロニーとなるんです」

「チャップリンが言ったの?」

「いえ。最後のは私が勝手に付け加えました」


 沙也加は僕の問いにいたずらに成功した子供のような笑顔で返した。

 僕らの人生も後から回想した時、僕らの感情とは裏腹な皮肉としてやってくるのかもしれない。

 それが喜劇として笑い話になるのか、悲劇として過去から襲い来るのか。そればかりは分からない。だが、どちらもありうることであるように思えた。

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