25.僕と彼女と両国国技館

 チケットを購入し、長いエスカレーターを上っていく。天井には江戸や明治、大正の時代がかった服装をした人物があしらわれていた。


 エレベータは二回ほど乗り継いで、ようやく六回までたどり着いた。江戸東京博物館の順路は六回から始まるから、登らないことには展示を見ることが出来なかった。


 先ほどまでの饒舌じょうぜつが嘘のように、エスカレーターを上る間、僕らは無口になる。


 ちょっとした癖みたいなものだった。話すときは30分でも一時間でも話すが、黙り込む時は無音が続く。


 チケットを手渡し、博物館の内部に入る。入ってすぐ現れるのが江戸時代の日本橋のレプリカだった。沙也加はその橋を見るなり、たたた、と駆けていき、橋の中央に佇んでから振り返った。


「どうですか」

「すごいな。こんな大きな展示物から始まるなんて」

「そうじゃなくて。今日の私の服装についてです」

「えっと、綺麗な市松模様で似合ってるよ」

「ありがとうございます。でもそういうことじゃなくて、なんかタイムスリップでもした気分になりませんか?」 


 まぁ確かにしないでもない。しかし彼女の稚気は少しずれているように思えた。


 日本橋の上からは博物館の展示をある程度見下ろせる。左を見ると江戸時代の長屋のレプリカが、右を見れば明治以後の東京の建物が、それぞれ再現されている。東博のような西洋的な博物館とは違った趣があった。


 僕と沙也加はあらかたの展示物を巡った。いつも通り、ちょっとした雑学や日本の社会や歴史への皮肉を交えた会話をつづけた。


 江戸開発から商工業の発展、明治以後の近代、関東大震災、復興、戦争、そして現代へ……という歴史の追体験をあらかた楽しんだ。


 明治、大正のあたりに差し掛かった時、僕はちょっとした気恥ずかしさと楽しさを覚えた。誰が見ているでも無い。誰が気にするでも無い、僕の自意識の暴走からだった。


 最近の僕はもっぱらシャツ、ネクタイ、ベストというスタイルをしている。ファッションに関心がないがゆえに、何を着てもそれなりに見える服装として選んだものだった。しかし、市松模様の着物の沙也加の隣を歩くと、明治以後の東京に関する展示のあたりでなんだか二人してその時代のコスプレをしているかのように思えたからだ。


 実際、僕も沙也加もそのあたりに来てからはしゃぎ始めたように思えた。示し合わせたかのような饒舌を見せ始めたからだった。


「見てくださいよ鹿鳴館ですよ、鹿鳴館ろくめいかん。日本の西洋かぶれの歴史がここから始まるわけですね。私の家と同じです」

「日本史で覚えたよ、鹿鳴館。結局税金の無駄遣いってなって閉館したんだったか」

「今も昔も国民と国家の生態は変わらないわけですね」


「昔の浅草は映画館の街だったんだな」

「日本のアミューズメント施設の総本山だった時代があったようですからね。浅草十二階にはなやしき、浅草寺と来て映画館です」

「いまは見ないよな。シネコンとかあったっけ?」

「ああ、嘆かわしい。セキくんともあろうものが安易にシネコンを求めるだなんて!活動写真を見なさい、活動写真を」

「せめて名画座とか言ってほしいな。もはや弁士とかどこにもいないよ」


「知ってますか、この時代のミルクホールの意味」

「僕から語り掛けたらちょっとしたセクハラだな……いわゆるキャバクラとかそういう風俗的な意味合いがあったんだろ?谷崎の本とかで読んだ」

「なんだ、知ってたんですね。マウント取れなくて残念です」

「君な……」


 しかし戦後になると場違いな空気感へとシフトしていった。


 無味乾燥な集合住宅やテレビ、三種の神器と言われた家具家電、車と言ったものたちに囲まれるにつれて、僕たちはまた、どこか疎外されたような感覚を味わった。僕たちの生きる時間に限りなく近いものが現れていくにつれて、居場所もまた取られていくかのようだった。


「消費文化こそが現在の東京の代表ってわけですか」


 そして昭和伐期から平成にかけての展示のあたりで沙也加はいつも通りの物言いをした。最後の展示はバブル期のドラマのビデオやJPOPの曲が流れるマイク、そして平成末期を表したらしいメイドのコスプレで幕を下ろす。そう言いたくなる気持ちも分からないでは無い。だが、僕は帰ってきた安堵と名残惜しさを感じてもいた。


 確かに沙也加の言うとおりではある。あらゆるものが消費文化となっている。日本も世界のトレンドも、消費の繰り返しによって成り立っている。


 絶えず更新する営みが消費と言えるのかもしれない。消して費やす。歌とかドラマとか小説とかマンガ、食べ物、服装、言葉遣い、思想に至るまで。味わった端から捨てて、忘れていく。


「僕が小学生だったころとか、下手をすると数年前のものも、もう歴史の一部になっちゃうんだよな」

「はい?」

「沙也加さん風に言えば消費の速度が速すぎるってこと。味わう端から捨てて行くってことが消費ってことなのかな」

「まるでローマ人ですね。知ってますか?古代ローマでは食文化が先鋭化して、飽食と珍味の時代になっていたそうです。ローマ市民は色々な珍味を食べたいがために、食べる端から喉にガチョウの羽を入れて嘔吐したのだとか」

「選択で日本史だったから知らないけど。でもひどい話だ」


 でも、もしかしたら人間のいう文化とはそういう性質のものなのかもしれない。

 食べ物でも情報でも、溢れかえると消費したくなる。そういう生き物だから発展してこれて、今ここに僕と沙也加が立っていられるのかも知れなかった。

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