23.僕と彼女の準備期間
週初めは誰も彼もが落ち着かない様子で講義を受けているのが分かった。
浮ついた空気があちこちに漂っている。
月曜日だから、というわけではない。普段の月曜日ならば、むしろ気怠く、
自主祭が迫っているからだ。
明後日から三日間。本日の午後から明日全日にかけて学祭準備期間となる。
一部のサークルでは午前の時点でフライングで準備を始めるところもあるらしく、講義はあちこちで人がまばらになっていた。
僕は、と言えばそういうものに縁がない。どのサークルにも所属していなかったから、自主祭への参加は受け身なものになる。
「……いや、今年は違うか」
午前の講義が終わり、学祭準備期間が始まる。
去年はただの半休だったが、今年は違った。古代史研究会の発表に殴り込みをかける。以前、そんな計画を沙也加とふたりして建てた。あれは冗談では無く、お流れにもならなかった。メッセージアプリには『講義が終わったらオレンジカフェ集合です』『明後日の作戦会議をしましょう』という文面が届いている。
つまり、今年は文字通り僕も自主祭に向けての準備をすることになる。もっとも、その活動は他の人々とはかなり違うものになるだろうが。
ふと、指先をなぞった。
ぱっくりと割れていた指先はすっかりふさがりつつあった。出血もないし痛みもない。まるで何事も無かったかのようだった。しかし、確かに指先に亀裂は残っている。
一体、あれは何だったのだろう。解釈はうまくつかない。
あの日は多くの妙な出来事があった。
円藤沙也加の室内にあった県のような刃物。
銃刀法に違反しそうな刃渡りをしていたそれを僕が触ったこと。
それを触った後、僕が気絶をしたらしいこと。
その間、僕はなにやら奇妙な夢を見ていたこと。
目が覚めたら沙也加に膝枕をされていたこと。
どれをとっても不思議だし、どれとどれをとってもちぐはぐな印象があった。いずれも相関関係も因果関係も無いように思えた。だが、そのいずれもが僕の心をとらえて離さなかった。
ふと夢のことを思い出す。
すなわち僕が沙也加の部屋で気絶していた時に見たような気がする夢のことだった。
夢というものは思い出すことは難しい。どんなに素晴らしい夢を見たとしても、目が覚めた端から消えていく。だから普段は覚えていることなど無かったのだが、よほど強烈な感情と感慨にふけっていたのか、内容をそれなりに思い出すことができていた。
とは言え、その夢も
僕はどこかの囲いの中にいて、赤い空と太陽のたうち回るミミズのような糸を眺めている。僕はそれを熱心に―――ようやく見つけ出したオカルト体験だ、という心理が働いたようにも感じられる。
やがて巨大な円藤沙也加が囲いをのぞき込み、僕をつかんで持ち上げる。僕は彼女の手のひらの中にいることで充足感を覚える。
―――おおむね、このような内容だった。その合間には支離滅裂な思考の飛躍と脱線があった。それがなおさら、あの夢の意味を分かりづらくしていた。
「おはようございます」
沙也加はいつもどおりの笑みとを湛えてやってきた。カウンターへ行きホットコーヒーを頼むと、すぐさま僕の隣に座り込んだ。
「この間はありがとうございました。楽しかったです」
「それはこっちのセリフだよ。お母さんによろしく伝えておいてくれ。妹さんにも」
「ええ。ではそのように伝えておきます。ぜひまた来てください。母も喜びます」
こういうセリフはどこまで本気にしていいのだろうか。
とは言え、言われて悪い気はしなかったので素直に受け取ることにした。
「すごい人混みですね」
「うん」
僕らが座る席からは外の様子がよく見えた。2階のガラス張りのカウンター席で、そこからは色々なサークルのメンバーや自主祭の運営側のスタッフが忙しなく動き回っているのが見下ろせる。
鉄製の巨大なポール、コンパネ材、白いテント、スピーカー、照明器具、鍋……
ステージ、屋台、装飾などに使うのだろう様々な資材や設備が次々と運び込まれていく。
ふと、小さい頃にアリの巣の近くにラムネを落とした時のことを思い出した。
アリは自分の倍以上もあるそれをせっせと巣へと運んでいた。ガラス窓越しに見える様子はそれとよく似ている。
僕が何気なくそういう感想を述べると、沙也加も「そういえば」と話をつづけた。
「私にも似たような経験があります」
「へぇ」
「やはり私もアリたちの群れを見て、でもその時の持ち合わせは練乳しかありませんでした」
「……練乳?」
イチゴにかける甘いあれだろうか。外で持ち合わせるには奇妙な代物だと思う。
「はい。コンデンスミルクです。……ともかく、それしか無かったので地面に垂らしたのですよ」
「練乳を?」
「練乳を。そうしたらどうなったと思います?」
「どうなったって……」
よく考えるとどうなるのかよく分からなかった。固形物なら巣に運ぶことができる。どんなに大きなものであっても、彼らは協力して巣に運ぶことができるだろう。
しかし、練乳となると液体だ。おそらく運ぶことは出来ない。
「働きアリたちは夢中になって練乳を吸い始めました。それまで協調性を持って勤勉に餌を巣に運んでいた彼らは、哀れおサボりアリとなってしまったわけです。そう思うと我々も似たような部分がありますね」
「サボりアリの方と」
「はい。私たちはサークルにも入らず、こうして自分自身の楽しみのためだけに集まっているのです。社会性をどこかに置き忘れてしまったに違いありません」
いつもの自虐風の詭弁だった。
本当にそう思っているのならサークルにでもなんでも入ればいいのだ。だがそうはせずにこうして駄話のようなことを続けている。
「それで、どうしましょうか。コーヒーを飲んだら移動しますか?」
彼女の提案に僕は質問で返した。どうしても気になることがあった。
「あのさ、本当にやるの?」
「何をですか?」
「古代日本史研究会とやらへの殴り込みのこと」
僕は『ええー?干乃さんともあろうものが本気にしてたんですかぁ?』と小馬鹿にしたような物言いで返してくれることを期待していた。だが、そんなことは無く「もちろんです」と肯定の意を簡潔に伝えられた。
「そのための決起集会ですからね」
「二人しかいないけど」
「そう言えばあと一人呼ぶ予定があるんですがいいですよね?信頼できる先輩です。儲かる話があるんですよ」
「そういや注意喚起されてたなぁ、USB売りつけるヤツ」
彼女の物言いはマルチ商法の常套句として有名なものだった。
友人や知り合いなどを喫茶店に誘い、そこに儲かっている先輩なる人物を呼び出す。先輩は羽振りの良い様子を見せつけ、儲かっている秘訣をカモに教える。そこからセミナーに参加させたり、先物取引のマニュアルが入ったUSBを高額で売りつけたり……という流れだったはずだ。大学内で勧誘が流行しているらしく、ガイダンスで散々注意喚起を受けた。
「ひとまずこの場は私がお支払いしておきますので」
と、沙也加は羽振りの良さをアピールしするような物言いをした。惜しむらくはこの店は先払いであるためこれから支払いはしないというところだった。
「冗談は置いといてさ。実際のところどうするのさ」
「古史研ですか。そうですねぇ。基本的には私が強く行ってぶつかりますので、あとは流れで」
「相撲の
「真面目な話、私の傍にいてくれれば大丈夫です。―――ただ、私の言うことには同意すうようにしてください。私が何を言っても、何をしてもです」
「何をしてもって言われても。あまり過激な行為とかになると限度があるけど」
「失敬な。私は理性的な人間ですのでそこまで変なことはしませんよ」
沙也加なら何かをやらかしかねない、と思う。そういう心配と期待が入り混じった気持ちになる。
「せっかくです。今日もちょっとお出かけしましょうか。昼食は食べましたか?」
「いや。さっき講義も終わったばかりだし」
どうせ沙也加と食べることになるだろうと思っていたのでカフェで提供されている軽食の類も注文していない。
「じゃ、決まりですね。両国のあたりまでお出かけしましょう」
彼女はそういうとコーヒーカップを片手に立ち上がった。僕も同じスタイルになり、連れ立って外へと出る。祭りの前の喧噪を僕らは尻目にして、校舎を後にした。
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