19.僕と彼女の本棚

 その後は取り留めのない雑談と会話に終始した。つまらなさを隠せなくなった沙巫が僕と沙也加の関係を冷やかすような一幕があったり、世間話をしたりである。

 しばらくして会はお開きになった。


 食事を終え、食後のお茶を飲み干す。すき焼きはとてもおいしかった。銘柄までは分からなかったが恐らく和牛の類を使っているのだろう。噛むと口内に濃厚な脂が弾けていくような触感に舌鼓を打った。差し出された湯呑のお茶も甘露と言えるような素晴らしいものだった。

 

 その一方で僕は内心、警戒していた。何らかの勧誘をいつ仕掛けてくるのか、という疑心があったからだった。オカルトとカルトは切り離せない。宇宙人も幽霊も、都市伝説も陰謀論も、いずれもカルト勧誘の常套手段だ。そういうものに興味を持つ人間にカルトは狙いを付けているようにも思える。


 そういうこともあって、会が終わるまで油断がならなかった。だが、それは杞憂だった。


 絹葉女史は僕に妙な質問と話題を振ってきはしたがそれだけだったし、沙也加はいつもどおり妙な蘊蓄と世界へのパロディのようなスタンスを崩さなかった。沙巫に至ってはそういう話に興味すら示さなかった。

 僕が絹葉女史に対して抱いた違和感は何だったのだろう。

 それだけが妙に引っかかる。


「セキくん、この後もお暇ですよね」


 食器がてきぱきと片付けられていく中で沙也加は僕にそう訊いた。それは質問の体裁をした確認作業だった。僕は今日、何の予定も入れていない。昨日、沙也加にお呼ばれした時、すでに伝えてあった。

 沙也加は「私の部屋でもう少し雑談していきましょう」と言いながら立ち上がる。僕も彼女の後を付いていく。


 案内された円藤沙也加の部屋は独特の雰囲気を醸し出していた。


 意外にも女子らしい部屋、というわけでは無い。逆にものがあまりに無くて空虚な雰囲気がある、と言うのでもない。


 どちらかと言えば、色々なものがある、というような部屋た。

 2LDKほどの、ちょっとしたアパートの一室くらいはありそうな広い間取りに、ベッドと机とクローゼットといった基本的な家具が点在する。それだけならシンプルな内装だ。


 彼女の部屋の独特さというのは、それは本棚だった。


 図書館の一角を切り取ってそのまま移築したかのようだった。

 扉を開けてすぐ前方にそれはあった。本棚の淵は天井に届いている。部屋の隅から隅まで。長方形をした間取りの中で、長辺のひとつがずらりと書籍で埋まっている。


 本棚を見ればその人の人となりが分かる、というようなイディオムがある。もしその格言に従うのなら、彼女と言う人間をどう表現できるだろう。


 本棚を無作為に見てみる。古神道祝詞こしんとうのりとについての書籍が蔵されている。それも一冊では無く、八幡書店刊の新書サイズのもの、単行本サイズのもの、文庫サイズの解説書、CD付きの大判サイズのものと、何冊もある。


 祝詞のりと、というのはつまるところ神道の呪文のようなものか。

 はらえたまえー、きよめたまえー、というような言葉はマンガやアニメでパロディ的に使われることもある。だが、実際に自分たちがその原典に触れることはほとんどない。


 その隣にはヴィトゲンシュタインやプラグマティズム、ポストモダンがどうと書かれている書籍が並ぶ。さらにその先を追うと平家物語があり、エドガー・アラン・ポーがあり、実話怪談系があり、かと思えば急に手塚治虫のブッダが全巻現れてきたりする。


 捉えどころがない。あるいは底が見えない。泡立つ沼のような混沌を感じさせた。


「……すごい蔵書量だね」


 それにしてもとにかく量があった。読書好きにとってはたまらないと同時に、果てのない光景でもある。


「全部読んだの?」

「全部ではないですね。とりあえず買っただけというのもありますし、流し読みしただけのもありますし……」


 彼女はそう言いながら自身の蔵書たちを眺めた。口調からも表情からも、愛しいとか陶酔とかそういう感情は読み取れなかった。しかし嫌っているわけでもない。こうした多くの知識を、当たり前のものとして彼女は享受しているようだった。


「沙也加さんは集めるのに快楽を感じるタイプ?」


 読書家というのにも色々いる。とりあえず本棚を埋めるだけ埋めるのが好き、という人もいるし、本を読んでいる自分に酔っている、という特異な人物もいる。

 沙也加はどうなのだろう、と疑問に思った。自宅の本棚がこれだけ大きいという人も、それが満杯に埋まっているというのもあまり見たことが無かった。何か普通の人にはない感性や感情が働いているのでは、と聞いてみたくなる。

 僕の質問に沙也加はんー、と視線を動かさずに唸りながら答えた。


「別にそういうわけでもないんです。……集まってしまった、でしょうか」

「集まってしまった?」

「はい。見てもらえれば分かると思うんですけど、こと読書においてテーマとかは定まってないんですよね。なんでも読むし、気が向いたらなんでも買ってしまう」


 私は乱読家なのです、と自嘲じちょうとも自慢ともつかないような表現を使った。


「怪談とかオカルトとかは?」

「それはもちろんたくさんありますよ」


 待ってました、と言わんばかりの勢いで食いついてきた。


「最近のだと、日本現代怪異辞典にほんげんだいかいいじてんにはじまるシリーズでしょうか。これは本当、すごい業績だと思いますでしょう?」


 それは僕も持っていた。ネットや書籍、テレビなどで語られた名前のある「怪異」たちを辞典という形で一冊にまとめたものである。五十音順に並べられており、例えばカシマさん、という噂を聞くと夜に足を切りに来る、という怪異がいるのだが、それについてこの本では仮死魔殺子、カシマおばけ、カシマキイロ、化神魔かしまサマ、カシマさん、鹿島さん、カシマレイコ、カシマユウコ……と言う風に順々に並べてひとつひとつ解説を設けている。一見表記ゆれくらいにしか思えないものでも、語られる内容の細部や流行した地方、時期が違ったりしているのだと言う。著者による労力と執念の賜物としか言えない。


 沙也加は「私がこの本で特に意義深いと思うのは洒落恐などネットロア発祥の怪異が事細かにまとめられている部分ですね」と続けた。


「ネットロアというものは面白い立ち位置だと思うんです。小説など活字化されたものと、百物語などの場で語られるもの。その二つの中間点にあるような気がして。ネットロアは掲示板などが発祥ですので文字媒体もじばいたいとして残ってはいます。コピペすることによってある程度正確に同じ情報を伝達し続けることもできる。こういう部分は書き言葉的な部分だといます」


 沙也加はしかし、と続ける。


「コピペが繰り返される中で、内容が改変されたりすることもある。こちらの方が面白いとか、そういう形でですね」


 僕の脳内に寺生まれのTさん、という言葉が思い浮かんだ。

 くねくねや八尺様はっしゃくさま姦姦蛇螺かんかんだらと言ったネット出身の怪談、そのオチの部分に『寺生まれのTさん』なる霊能力者が急に登場し、『破ァ!』の一言でワンパン除霊してしまう……というパロディ的な性格を持ったネットロアだった。


「そうこうしているうちにオリジナルよりもパロディの方が有名になったり、初出のスレッドが消滅してまとめサイトでしか見られなくなったりしてしまう。こういう側面はまるで口語で語られるフォークロアのようでもある」


 バロールとエクリチュールの関係ですね、と沙也加は結んだ。


「えっと、話し言葉と書き言葉の関係ってこと?」


 確か哲学の用語だったはずだ。詳しいことまでは分からないのだが。


「はい。もっともこの対立は日本語だとあまり意味をなさない部分もあるのですが……とにかく、本来なら記憶や時間の中に消え去るしかなかったものたちについて、初出時期や掲示板の名前、さらにはどういう展開をしたかまで体系的にまとめた、というのはすごいことですよ」


 ふと、本棚に収まっていた平家物語の背表紙を見る。

 そういえばこれも琵琶法師びわほうしによる語りや写本によって内容が異なったり、先鋭化したり、二次創作を生んだりとした古典文学だった。


 原文には天台座主慈円てんだざすじえんの日記との語彙ごいや表現の類似から、慈円、あるいは彼に近い人物が書いたという説がある。


 そうした原文から当時の盲目の芸能者だった琵琶法師びわほうしが各地で琵琶を弾きながら語るという語りの文学、という側面もあった。


 写本も数多く存在して、そこから戦闘シーンや呪術関連の記述、巴御前ともえごぜんなど強烈なキャラクターの活躍を加筆した源平盛衰記げんぺいじょうすいきなどというバリエーションも生まれた。

 さらに木曽義仲きそよしなか巴御前ともえごぜん源頼政みなもとのよりまさぬえ退治と言った登場人物やワンシーンを取り出して能の演目にする、ということも流行した。

 それから900年近くたった現在、僕たちは同じようなことをしていることになる。


「古典文学と一緒だね。作者が分かんなくなったり、原文が失われたり、その後の二次創作の方が有名になったり。それでも無限に続いていく」

「一周回って古典文学に近い形質をネットが持っているのでは、というのはあります。そういえばインターネットの情報は消えない……なんて言われてた時代もありましたね。無限に残る夢のアーカイブだと。しかしふたを開けてみれば情報は埋もれ、消えていっている」


 それは寂しいことに思えるが、同時に人間の言葉の歴史から考えれば自然なものなのかもしれない。忘れられること、変わっていくこと。―――確かではないこと。

 絶対なものが何一つないということだけは、人間の言葉の歴史の中で確実なことだった。

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