18.僕と彼女の母親

 ぐつぐつ、と煮えたぎる浅い鍋を向こうにして沙也加の母親はにこやかにしている。やはり沙也加と同じように彼女も和服を纏っていた。


「始めまして。沙也加の母の、円藤絹葉えんどうきぬはと申します」


 彼女はそう名乗ると軽く頭を下げた。沙也加の物腰や慇懃さは母親譲りらしかった。


干乃赤冶ほしのせきやです。沙也加さんとは仲良くさせていただいてます。あの、今日はこのような歓迎をして頂いて……恐縮です」

「いえいえ。こちらこそ、沙也加とよくしてくださいね」


 円藤絹葉には丁寧な物腰と、同時に僕を値踏みするような雰囲気を纏ってもいた。同席している円藤妹、沙巫も妙な微笑みを浮かべていた。彼女は制服から着替えていた。彼女は母と姉とは違い、パーカーとスウェットという現代的な衣装だった。


 いずれにせよ、僕がアウェイであることに違いは無かった。こうなると僕もいたたまれない。沙也加の「他人の望む自分である必要はない」と言う言葉も意味を失ってしまうように思えた。


 汚れひとつない綺麗なガスコンロの上にまるでどこかの古刹にありそうな鐘みたいな質感のすき焼き鍋が乗っかっている。そこに鍋奉行役の女性がせっせと具材を並べた。彼女が鍋をつつくことは無い。聞けばこの家に努めている料理人なのだとか。


 先ほどとされた部屋と同じく和洋折衷の雰囲気である。だが先ほどは和洋が3:7くらいの雰囲気だったのに対して今度はその比率が逆転していた。まるで洒落た料亭のような雰囲気だった。


 同じ鍋をつつき合ってはいたが、とにかく気安い雰囲気はここには無い。


 円藤母子との会食―――緊張感から言えばそう形容しても大げさではないだろう―――は当たり障りのない、しかし何かを探られるような言葉を連ねていく形で進んでいった。


「学部は沙也加と同じなんでしょう。何をやっているの?」

「日本文学科です」

「日本文学科!それはいいわねぇ。上古とかお好きかしら?」

「いえ……文芸創作なので。上古とかは必修で少しやるくらいです。……その、お母さんも日本文学をやってらしたんですか?」

「あらどうして?」

「上古っていう時代区分を用いる人は珍しいですから」


 普通、日本文学というワードでイメージされるのは明治以降の近代文学か、さもなくば源氏物語などの平安時代といったところだろうか。

 興味のある事柄によってイメージされる時代は異なるが、興味が無ければおおむねこの二つについてまず聞かれる傾向がある。


 だが彼女は上古などというかなり特殊な時代区分を用いて聞いてきた。文学史においてこの時代区分は大和朝廷の時代や神武天皇の時代を指す言葉となる。具体的な書名で言えば古事記や日本書記、各地の風土記が該当する。


 これらの文学については必修である日本文学史の概論講義などで触れていたが、僕は大学で学ぶまでこの区分を知らなかった。


 高校までの日本史ではこの時代区分を取り入れることは無い。

 もっぱら縄文、弥生、古墳に続く飛鳥時代と記述しているからである。


「調べたりすることが多いの。職業柄ねぇ、古文書なんかに触れることも多いし」

「はぁ」


 意味が良く分からない。お悩み相談で古文書に触れる……とは。

 鑑定を生業にしているのだろうか。だとしたら沙也加も鑑定家とか古物商という言い方をするように思える。


「そうだ、この家はどうかしら?気に入ってくれた?」

「家、ですか」

「あ、建築のほうね」

「はぁ。和洋折衷って感じで。風情があると思います」

「ふうん、そう」


 円藤絹葉女史は何を考えているのか分からない曖昧な笑顔を浮かべた。これも沙也加がよくやる表情にそっくりだった。あの笑顔も母親譲りなのだろう。


「もともと武家屋敷があったような土地ですよね」

「そうなの。でも屋敷自体にそんな歴史はないのね。建てたのは明治初期からだからまだ150年建ってないくらい」


 やはり武家屋敷ではないようだった。

 おそらく明治以後、武士階級が士族として再編された際、金策のために売った土地を円藤家が買い取り、屋敷を建てた―――といったところだろうか。


「でも武家じゃなかったとなると、ご先祖の方は何か事業でもやられていたんですか?」

「一言にすれば成金ね。強いて言えば民間療法士と言ったところかしら。ところで」

「はぁ」


 女史は急に話題を変えた。

 家のことについて詮索されるのはいやだったのかもしれない。明治以後に財を成す、と聞いて僕が想像したのは海運や紡績といった実業関連、そうでなくてもなんらかの商売だった。


 しかし民間療法士、という持って回った言い方をするからには、そういったものとは違う家業だったのだろう。


 イメージされるのは巫、だろうか。それも神社仏閣を拠点とするのではなく、イタコや憑き物筋などをルーツとするような新興宗教のような――――


 僕は沙也加の方を一瞥した。彼女のあり方に、そういう巫女を当てはめてみる。

 あまり違和感がない。「実は私、巫女なんです」と急に言われたとしてもああ、そうだったんだ、と納得するような気がした。


「そういえば宗教とかってなにか信じてらっしゃる?」

「え」

「宗教よ。菩提寺ぼだいじがどこだとか、実はクリスチャンだとかイスラムだとかユダヤ教徒だとか。あ、無神論者っていうのもあるわね。どこだか分かる?」


 女史の質問に僕は面食らってしまった。随分と直球な聞き方をするものだ、と思った。


 欧米やらだとトラブルを避けるためにまずそういった情報交換をする、というようなことあると聞いたことはある。


 だが、現代日本でこのような質問をするのは変な話だった。

 宴席で政治と宗教の話はタブー、なんて言葉もある。

 現にこれまで初対面でそういうことを聞かれたことは無かった。

 とは言え、別に答えにくいことでも答えられないことでも無い。そしてそういった話をするのは嫌いでも無い。


「いえ、別に……宗教をどう定義するか、という問題もありますけど。一般的な日本人と同じく仏教ベースに神道とかが混ざった感じでしょうか。檀家はたしか天台宗でしたけど」

「そう。何か特別な信仰とか、そういうのはされてないのね?」

「まぁ。おそらく両親も祖父母も違うと思います」


 宗教意識という面で言えば僕の家族は無個性の一言に尽きる。


 正月に初詣、夏にはお盆、秋は人並み程度にハロウィンやらを楽しんで冬にはクリスマスを祝い……という日本人の宗教性を揶揄やゆするような、誇るような言説をよく聞く。

 僕の家もおおむねこれに当てはまった。


 両親は特定の信仰を持っている様子は無いし、僕に強制したことも無い。信仰と言う面で言えば極めて普通の一家の生まれだった。


 僕の答えを聞いて絹葉女史は「そう……」と微笑を続けている。

 なぜこんなことを聞くのだろう。先ほどから続く妙な質問の連続に僕は疑問を抱いていた。


「ごめんなさいね、妙な質問ばかりしちゃって……」


 流石に僕の疑惑の表情に気が付いたのか、絹葉女史はそう謝罪した。


「いえ。別に……何かの宗教に勧誘されているのか、それとも複雑な条件でなければ務まらない生贄を見定めているのか、みたいな気分にはなりましたが」

「心外ですよ、セキくん。我が家をサマーアイル島呼ばわりするなんて」

「『ウィッカーマン』かしら。赤冶くんも見たことあるの?」


 女史の声音から探るような様子が薄くなった。表情が同好の士を見つけたかのようなものに変わる。


 それ以降、じゃああれは?これとかは?としばらく映画や創作の話題へと移った。


 その中で女史が話題に出したのがとある映画のタイトルだった。

『ミッドサマー』という、新進気鋭の映画監督が撮ったホラー映画である。

 心中で両親と妹を失った女性が恋人とその友人に北欧のとある村への旅に誘われる。しかしその村は人間の生贄や儀式自殺を公然と行うカルト村だった……という内容だった。

 場面のほとんどは白く清潔で緑あふれる、いかにも『北欧』という綺麗な映像が連続する。

 そこに当たり前のように血腥い展開や要素が差し込まれるのが気持ち悪くもあり、同時に癖にもなる。

 僕はとても気に入っていた。


「ああ、それなら沙也加さんとこのあいだ見に行きました」


 その日は映画の後、食事に行く予定だった。

 僕は映画の内容には気に入りながらも食欲が減退していたのだが、沙也加はと言えば血腥いシーンについての感想を流暢に語りながらつまみと徳利をあっという間に開けていったことが印象的だった。


「人間の不安を煽るような演出が多くて凄いわよねぇ。あの監督、長編はあれで二本目なのにあれだけのものが撮れちゃうんだから……あ、一作目の方はご覧になった?」

「いえ、まだ」

「家にブルーレイディスクがあるから今度ご覧になったら?あ、それとも貸りていく?」


 先ほどとは打って変わって熱心に映画の話をしてくる。

 その内容はやはり物騒なものではあったが、沙也加の母というのならこんなものだろう、と受け入れられた。


 気が付くと話が絹葉女史によるペイガニズム映画への持論へと展開していった。

 ペイガニズム映画……つまりキリスト教徒が異教を信仰する村なり島なりに招待されるか迷い込むかするなりしてひどい目に合うという映画である。


「私たちが知らないことがある、という感情は恐れという感情のひとつの原点だと思うのね。キリスト文化圏においてその感情の矛先は異教徒に向けられるわけでしょう」

「確かに。アメリカでは伝統的に異教徒への恐怖心がパニックや事件を引き起こす例は枚挙に暇がない。プロテスタントとカトリックの対立、インディアンへの恐怖。セイレム魔女裁判は典型的だよね」

「そうなの?沙也加ったら最近はアメリカの話ばかりね。……まぁともかく、そういうキリスト文化圏の中での恐怖がペイガニズム映画の中核になってはいるけど、でもキリスト教圏じゃない日本で、しかも近年の間にああいう映画がヒットしたというのは興味深い話だと思うのよね。つまり――――」


 ふと、沙巫の方に視線をやる。

 彼女は興味のないことを隠そうともせず、せっせと肉を生卵に付けて頬張っていた。沙也加の言った通り、この手の映画やら怪談やらに興味は無いのだろう。


「ねぇ」

「うん?」


 僕の呼びかけに沙帆は意外そうに顔を上げた。


「本当に興味ないんだね、こういう話」

「なるべくシャットアウトしてるんで」


 彼女は姉が言うのと同じ言い回しで僕に返した。

 きっと日常的にこういう言い方をしているのだろう。

 沙巫は箸を止めず、横目で何やら話し合う姉と母親を見やってから、僕の方を見つめなおして言葉を継いだ。


「……なんというか、珍しいっすね」

「何が?」

「セキくん、オカルト好きなんすよね。恐いのも」

「まぁ、そうだね」


 彼女の言葉の意味を図りかねた。

 興味は小さいころから現在に至るまで持ち続けている。子供の頃は児童書やインターネットでそうした怪談や都市伝説をまとめたものを好んでみていた。現在も都市伝説や怪談、それについて検証した書籍などを手に取る機会が多かった。

 そういう趣味を持つ人間は確かにメジャーとは言えない。

 しかし、珍しいと言えるほど珍奇なものだとも思えない。


「その割に、なんか……」

「うん?」

「あー……いや、なんでも無いです。ほらサヤちゃん!セキくん寂しがってるよ」


 かなり語弊のある物言いだったが、沙也加はその発言を真に受けた。「あ、ごめんなさい」と謝ると僕にも話題を振ってきた。


「どう思いますか?ペイガニズムについて」

「またざっくりした質問だな……まぁ、ペイガニズムってキリスト教圏から見た時の他者ってことだろう?」

「そうですね。歴史的に定義されるとなると、ブリテン島やアイルランドのドルイドなどが当てはまるでしょうか」

「日本史に当てはめれば仏教が入ってくる前の神道ってことになるか」

「そうですね」

「結局のところ、僕たちはキリスト教徒じゃない」

「はい」

「となると、僕たちにとってすればキリスト教こそペイガンってことにならないかな」

「確かに。私たちの伝統的視点からすればそうなりますね。Paganは非キリスト教徒という意味ですが、語源は辺境に暮らす田舎者から来ていますし。日本から見れば辺境から来たのはあちらの方です」

「サマーアイル島で燃やされたあの刑事もスウェーデンの村で燃やされた学生たちも僕らからすれば異教徒だ。そうなるとさ、ああいう映画についての反応はキリスト教徒とはやはり別物になるっていうか。どちらかというと村の人たちに対して感情移入するような視点もあるんじゃないか」

「キリシタンは燃やせ!ってわけね」


 微妙に笑えない冗句を絹葉女史は楽しそうに言った。


「歴史的に見れば、そういう態度に対する共感があるんじゃないかと思いますね。ペイガニズムは常識としてのキリスト教への反感ですが、僕らからすれば後からやってきた異教徒への反感となる」


 日本はキリスト教との出会いを二回繰り返した歴史がある。


 戦国時代にフランシスコ・ザビエルが日本にやってきてから禁教令が出て、島原天草の乱で大きな戦が終わるまでの間のこと。


 そして明治以後にキリスト教が日本に輸入されて以後のこと。


 いずれの時代においても、日本人の態度はキリスト教と何らかの対立を持っていたように思える。

 例えば言葉や思想の面での影響は計り知れない。

 キリスト教という観念が日本を照らし出した時、Religionという観念を宗教と翻訳し、日本にあった信仰も宗教と言う言葉の元に集約された。

 三大宗教のGODを神と訳して以後、日本古来の神を表すために『八百万の』というような言葉を置くようになった。


 キリスト教と出会う前の神と、キリスト教と出会った後の神という言葉は違うものだ。


 出会う前の言葉の意味に戻すことは出来ない。

 戻そうとすれば、それは不自然にキリスト教的な思想を排除した、不自然な言葉になるだろう。


 僕たちの思考は対立する他者がある時、変容せざるを得ない。ある側面から言えば、他者が僕たちの形を規定する。


 だから僕たちにとってアンチキリスト教はこれまでの世界の反省とはならず、かつてあった世界への憧憬の反映となるのではないか。


「一応訂正しときますと、キリスト教への反感に基づくものはネオペイガニズムの方ですけどね」

「何が違うのさ?」

「本来のペイガニズムは異教徒への侮蔑後、ネオペイガニズムはキリスト教から離れることを目的とした、日本的に言えば新宗教でしょうか。後者の文脈ならセキくんの言いたいことはそこまで的外れではないと思います」


 沙也加はいつも通り、妙な博識ぶりを見せた。

 彼女の言葉が一応の締めとなったのか、しばし会話に間ができる。

 僕は妙にすっきりした心持ちだった。


 改めて思うが、彼女の会話はやはり奇妙である。

 彼女の母親である絹葉女史も今日初めて会話を交わしたが、話題の選択はやはり奇妙と言わざるを得ない。

 そして、その会話に嬉々として交わる僕もまた、やはり変な人間なのかもしれない。


「あ、そうそう。これも聞いておきたいんだけど」


 絹葉女史はその後もとりとめの無い、不思議な質問を繰り返した。

 幽霊を見たことはあるか、実話怪談と都市伝説だったらどちらが好きか、パワースポットについてどう思うか……


「残念ながらありませんね。怪語れば怪至る、とは言いますけど。これだけ調べたり人と話したりしても現れない、ということはよほど霊感が無いんでしょうね」


「僕は……そうだな、都市伝説の方が好きですね。都市伝説はどこか、無責任な感じがあるというか、それがかえってリアリティを感じさせるというか。噂と言う媒体の不確定さの方が怪異に関して言えばむしろ確からしい気がするというか」


「まぁ、行く人がいるということは、人間に何かを喚起する要素があるんだと思います。それが本当に霊気とかソルフェジオ波なるものによるものかはさて置いて」


 そういった質問に対して、やはりどこか楽しさを感じながら僕は答えていった。


 会話は勧誘か、さもなくば面接かと言ったペースで進んでいった。僕はそうした女史との会話を、楽しみと一種の警戒との緊張関係を保ちながら進めていった。


 会話の中で、ふと疑問を覚える。

 どうして僕は沙也加に対しては警戒を覚えていなかったのだろうか、と。

 語られていることは似たようなことだった。

 問われることも、僕が問うこと同じだった。


 そもそも、以前沙也加としたような内容も含まれている。

 こういうスピリチュアルや怪異についての会話は宗教団体の勧誘の常套手段だ。大学のホームページや掲示板でも何度となくそういうものについての注意喚起をしていた。つまり、大学と言う場では喚起しなくてはいけないほど勧誘がなされている。


 僕は沙也加に対して一切の警戒を抱かなかった。なんだかそういうものについて考える暇がないほどスムーズに会話が成立してしまったからだ。


 対して絹葉女史との会話は、なにかボタンがひとつ掛け違ったような感触があった。沙也加と同じ言葉を、別の文脈で僕に投げかけているように思える。

 映画の話をしているときはそんなことを思わなかったのだけど。

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