16.僕と彼女の家庭環境
沙也加の「麻布十番の仙台坂にある」という以前の彼女の発言はあまり当てになるものでは無かった。仙台坂を上り切り、そこから別の通り角を曲がってさらに少し先まで行く。
たどり着いたのは高い和風の塀に囲まれた建物だった。古めかしいマンションや会館の中にぽつり、と島のような断絶を持ってそこにある。
「ここが?」
僕は沙也加にそう尋ねた。しかし質問と言うより確認だった。門には円藤と記された表札と『円藤流事務所(有)』という看板がともに掲げられていたので、十中八九ここが円藤沙也加の住まいなのだろう。
「はい。私の家です」
沙也加は「どうですか」と尋ねてきた。何が、と問い返すと「大きいでしょう」と言う。確かに大きな門だった。家屋の容は見えないが高い塀がこちらを威圧するように続いている。家というより屋敷と言った方が良いかもしれない。
それ以上の情報は外からはうかがえない。高い塀と生い茂る木――おそらく橘だろうか―――が視線を遮っている。
「まさか本当に武家屋敷だったりする?」
「流石にそれはないですね。建てたのは明治以降なんで」
沙也加はこともなげに言った。
だとしても、人間の住居としては必要以上の時間を積み重ねている。
「入る前に言わなければならないことがいくつかあります」
「実は今日、両親がいないの……みたいな」
「逆です。実は今日、母と妹が家にいます」
むしろ当然の成り行きだろう、と思う。円藤沙也加の住む円藤沙也加の実家なのだから、円藤沙也加の家族がこの家にいることは必然だった。
「そして母と妹にセキくんが来ることは伝わってしまっています」
「お母さんと妹さんに伝わるのが悪いことみたいな言い方だけど」
「なんて言えばいいのかな。母も妹も物事を大事にしがちな性格なのです。私がセキくんを家に連れてくる、と言う話をしたらいそいそと饗応の準備を始めました。ちなみに今日の昼食はすき焼きなんですが」
確かにそれは妙に大事にしているかもしれない。すき焼きが無二のご馳走……などと言う時代でも無いが、しかし家にやってくる娘の友達をもてなすのに用意するにしてはへヴィなものがあった。
「まさか、と思って聞くけど。彼氏か何かと思われてる?」
「むしろ次の円藤家の婿候補と思われている節すらありますね」
想像の一段上を行く状況のようだった。僕の知らないところで勝手に事態が推移している。しかもそれは実態とズレた想像に基づいている。不安を煽る事柄と言えるだろう。
沙也加はそんな僕の表情を見て「身構える必要はありません」と言った。
「実態と違かろうがなんだろうが堂々としていればいいのです」
「そういうものかな」
「そういうものですよ。他人が望む姿を見せなくちゃいけない、なんてこと無いんですから」
沙也加はこともなげに言うと、懐から取り出した鍵で門の扉を開く。するり、と何の感慨も無さそうに中へと入っていった。当然のことだ。なにせ彼女の家なのだから。
僕も彼女にならって門をくぐる。
塀の中は東京都内にある民家としては奇妙な配置をしていた。到底一般的では無い。敷地内は左と右とで分かれている。左にあるのがコンクリート製の、直線的な建物だった。二階建てで一階にはガラス製の自動ドアが見える。外側からもこの建物自体は見えていたのだが、まさか敷地内に並立しているとは思わなかったために注意を払っていなかった。
対して右側対面にはいかにもな和風家屋、そして正面には和洋折衷の二階建ての洋館が屹立している。
間違っても左側が沙也加の言うところの「明治以後に建てられた」という建物ではないだろう。
僕の視線が左右に泳いでいるのに気がついたのか、沙也加が「あちらは事務所です」とコンクリート製の方を指さして言った。
「沙也加さんの家ってなんか事業でもやってるの?」
「ええ、まぁ」
彼女はしばし斜め上の虚空を見た。
「主にお悩み相談と土地管理ですね。地主なので別に事業なんてやらなくてもお金は入ってくるのですが」
彼女は僕から百円のコーヒーをおごられた時と同じような調子で言う。
僕は彼女が自信の出自を語ることについて、妙に言い淀んでいた理由が少しわかったような気がした。僕に色々と語ったとして、それが冗談なのか本気なのかが極めて捉えにくい環境に暮らしているからなのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます