15.僕と彼女の最寄り駅

 約束は正午から、ということだった。

 仙台坂を超えて少し行ったところです、と沙也加は語った。坂頂のポールの当たりで待ち合わせすることになった。


 僕はどこか落ち着かない心持ちで小杉駅から南北線に乗る。もっと後に来ると思っていたイベントが前倒しで開催されたような気分だった。


 麻布十番駅は通学と同じ路線であり、大学の最寄駅からさらに数駅先である。


 とは言え、路線はほとんど地下鉄なので風景が変わるということも無い。

 通り過ぎる窓の風景はひたすら黒色が続く。

 時おりライトがひゅん、と窓の外から光を照らしてくる。ただ味気ないもので、明るく照らされた車内に何か影響を与えるようなものでも無かった。


 麻布十番へとたどり着く。改札を抜けて外に出ると、洒落た店舗が立ち並ぶ街並みが出迎えてきた。


 立ち並ぶ店頭に出してあるほとんどのメニューボードは英語表記だった。日本語と併記されているものもあるが、英語だけというのも見かける。

 何故だろうと思ったが、答えは店のテラス席に掛けるや街行く人を見れば一目瞭然だった。それなりに歳を召した白人―――それもラフな格好をした―――が客や通行人の三分の一ほどを占めていたからだ。おそらく日本在住の富裕な外国人なのだろう。観光客にありがちな大きなバックパックが無かったことから見て、そのような感想を抱く。


 カフェ&バーという看板が掲げられた店をいくつか通りすぎていく。

 道はいつのまにかレンガ造りに舗装されるようになっていた。人の流れや店舗の傾向がまるでここが日本ではないかのような錯覚を与えてくる。

 だがある通りを境に、唐突に日常が戻ってきた。


 レンガ造りの終わりには童女のブロンズ像……『赤い靴の女の子』の銅像と募金箱が立っている。そこから先のは通りひとつを隔てて、味気ないセメントの道とコンクリート塀、茹ですぎたイカスミパスタのような電線が立ち並んだ。


 ふと、ここはどこなのだろう、と疑問に思った。


 前日に仙台坂の場所をインターネットで調べたが、景色以上に味気ない地図は記憶に残ってはいなかった。見上げると通りの向こう側に透明なポストに入れられた紙の束が見えた。恐らく地図だろう、と当たりを付けて紙の束を手に取る。するとやはりこの当たりの店や観光スポットを記した地図だった。


 僕が通ってきた道はパティオ通りという通りであるらしい。通りの最後を見れば、そこに『きみちゃんの像』という記載がある。

 そこから先は大黒坂であるという。仙台坂では無いようだった。仙台坂は、と調べるとここから左に進んだ先だった。通りを五つくらい過ぎた先をさらに右に行かなければならない。時計を見る。時間は11:20分を過ぎたあたりだった。待ち合わせには十分な時間がある。


 なんてことは無い風景、なんてことは無い雑感。そういうものに執着してしまうことが僕にはよくあった。本当は進む必要のない道や場所に、運命的なものを感じて行こうとすること。大抵の場合、それは運命なんてものにはならないのだが。

 僕はあの境界線にその癖を喚起された。商店街振興会発行の地図が言うところの雑式通りに隔てられたパティオ通りの向こう側の大黒坂―――その坂を遠回りして行くことに決めてしまった。


 少し歩いて頭を冷やしたい気持ちもあった。沙也加の家に行くというイベントに対して、どうにも現実感が無かった。そのリアリティの無さに所在なさを感じてもいて、僕は心を落ち着ける時間が欲しかった。


 しかし大黒坂をしばらく登った頃には、その選択を後悔しかけていた。坂の先は住宅街である。なので、店も観光地も無い。コンクリート塀が続くだけだった。途中途中に寺が見えたが、コンクリート製の堂や親鸞上人の像からは特に歴史を感じさせられはしなかった。


 面白かったものと言えば道から見えたタワーマンションの造形くらいである。育ち過ぎたパイナップルのようなアンバランスな形状の大きなマンションは坂の途中からでも良く見えた。さらに道を進んでいけばマンションに備え付けられているらしい庭園や半地下の駐車場も見ることができた。見る限りタワーマンションのようだったが、もはやホテルと言われた方が納得できる門構えをしていた。


 この当たりはいわゆる山の手―――つまり江戸藩邸の下屋敷があった当たりである。江戸時代には当然のことながらタワーマンションなどは無かった。ここが既に山の上で高い場所だった。


 山の上の高い場所にさらに育ち過ぎたパイナップルのような建物を建てている現実。僕はそれに妙な面白みを感じた。

 ここに住む人はパイナップルの上から山を行く人を見降ろして優越感に笑っていたりするのだろうか。そうなるとどちらが滑稽か分かったものでは無い。何が面白いのかはいまいち説明し辛い事柄なのだが。


 そういう、坂を上る身体への負担に対する対価としては妥当とは言えないようなささやかな報酬を手にして仙台坂の頂上までたどり着いた。

 仙台坂上と書かれたポールの前に沙也加が立っている。彼女は僕が仙台坂を上ってくることを想定しているようで、ここから見える朱色の鮮やかな鉄塔――東京タワーをぼんやりと眺めていた。


「やぁ」


 僕が声をかけると沙也加はやや驚いたような顔をしてから「なんだ」と拍子抜けした声をだした。


「てっきりあちらから来るものだと」

「ちょっと間違えちゃったんだ。大黒坂の方まで行っちゃった」


 彼女は僕の手にしていた商店街振興会の地図を手に取った。


「ああ、なるほど。暗闇坂や氷川神社の方のルートですか」

「暗闇坂?」

「知っていて寄り道したんじゃないんですか?駅の案内地図にも載ってる有名なスポットですよ」


 そういうと彼女は表情を歪ませた。今にも舌舐めずりをしそうな笑顔だった。


「見てもらえれば分かるんですがかなり急峻な坂なんです。なので登る時には見晴らしが悪い場所です」


 沙也加は僕の持つ地図でそのスポットを指さした。確かに暗闇坂という地名がある。僕が通り過ぎた大黒坂に途中から合流する形の坂のようだった。


「そんな雰囲気のある坂なんてなかったけど」

「かつての暗闇坂はうっそうと木々が生い茂って昼間でも暗かったそうですからね。それと坂の片側が崖になってもいたそうです。が、それも今はオーストラリア大使館になっています。往年の雰囲気は失われているわけです」


 彼女はそこでいったん言葉を区切った。視線が宙を泳ぐ。どこに向かっているのだろう、と視線を追うと、その先は六本木ヒルズだった。ただ、彼女は六本木ヒルズを見ているのではなく、何かを考えるために遠くを見ているだけのようだった。


「不思議なものとは思いませんか」

「不思議?」

「ええ。暗闇坂はかつては幽霊坂とも言われていたそうです。怪談や小説、楽曲のモチーフにも使われるくらいの場所でした」


 だが、いまはそういう面影はどこにも残していない。それが不思議だと言いたいようだった。


 そういうものだろう、と僕は思う。心霊スポットとか魔の何とかと呼ばれる悪所は結局のところ、人間に何かを想起させる場所でしかないケースが殆どなのだろう。


「人間の認知がオカルトを作り出しているわけです。……そういえば、前にもこんな話をしましたっけ」

「人間の脳内で展開するオカルトも現実も等価値だ。なぜなら原子の働きや電気信号に過ぎないから―――だったか」

「はい。なので『この世のには不思議なものなど何も無いのだよセキくん』、と言いたいところなのですが」


 沙也加はどこかで聞いたような台詞を引用した。何故だか得意げですらある。


「どんなにこの世界にオカルトなど無いと説いても、オカルトを作り出してしまうのが人間と言う生き物のようなのです。だから―――」


 僕は言葉の続きを待ったが、彼女は言葉を詰まらせたままだった。どうやら僕に何か観念的な物事を伝えたいようだったのだが、彼女自身の考えがまとまっていないように見えた。


「すみません。うまく言えませんね」

「いいよ」

「私の家の方まで案内します」


 沙也加はこっちです、と手招きした。僕がふと振り返ると、まだパイナップルのようなタワーマンションが見える。僕にはあの建物が妙に心に残っていた。


「どうしたんですか」

「あのマンション」

「ああ。松の木みたいなアレですね」

「僕にはパイナップルみたいに見えるよ」

「変なこと言いますね。松は英語でパイン、パインからなるリンゴみたいな果物だからパイナップルなんですよ」


 それらはほとんど同じものです、と沙也加は言った。

 確かにそうなのだが、松とパイナップルとではやはり喚起されるイメージが違うように思う。


「もし、だよ」

「はい」

「人間が滅びるか、さもなくば人が住めなくなるかして東京が滅びたとしてさ。そうしたらあのマンションもなんの建物だか分からなくなるかも知れないよね」


 東京のことを忘れた未来人か地球に調査に来た宇宙人か。ともかく『他者』がこの土地を訪れた時、あの巨大なパイナップルをなんだと思うのだろう。


 我ながらあまりに空想染みて唐突な想像だった。だが沙也加はその唐突な空想にまるで意味があるかのように答えた。


「そうですねぇ。古代人類の松の木への信仰が生み出した巨大神殿、とかですかね。あるいは巨大な松そのものと考えるかもしれません」

「太陽に近づこうとした人類の思い上がりの産物と思うかも」

「観測者が宇宙人だったら、憐れな地球人がコンタクトを取ろうとしてきた証拠と思うかもしれませんよ」


 いずれにせよ、あの塔から「人の住処」という真実は永遠に失われることになる。そうなったら随分痛快だろう、と僕は思った。

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