12.僕と彼女のナショナリズム

 僕らが講義を受けていたのは旧校舎五階にある505号室という小さな教室だった。定員30名あまり。こうした教室が一階につき10ほどある。


 僕らが教室からでると、狭い廊下がシンと出迎えた。冷たいコンクリートがひんやりとした空気を旧校舎中に伝えている。旧校舎は1950年代に作られた古いコンクリート製の建造物だった。したがって冷暖房設備は古い。夏は暑く、冬は寒いを地で行く。秋口に差し掛かった今は辛うじて暑くも寒くも無い。ただ、冷たいという感覚があるだけだった。


 講義が早く終わったため人の往来は少ない。備え付けのベンチやソファに座り込んでスマートフォンを眺める人がいるくらいだった。


「後一週間ですね」

「ん?」

「自主祭です」


 そのことか、と頭を掻いた。

 この大学においても多くの例に漏れず学園祭というものは開かれる。やや特殊なのは自主祭と呼ばれる点だが、これは主に学生が主催しているものだからだった。学生の委任によって決められた実行委員会がもっぱら取り仕切り、大学は主に場所を提供する……というカタチなのだという。


 もっとも、僕は実行委員には志願していないし、興味も無い。なので僕にとってすれば一般的な学祭との違いは無いに等しい。


「ビラ配りが解禁されたので、ほら。いたるところに貼られているでしょう」


 沙也加があたりを指さす。掲示板、通路の隙間、果ては窓にまで多くのビラが所狭しと並べたてられていた。

 演劇喫茶、ロシア文学研究会喫茶、軍事研究会射的大会と各サークルともモノクロながら趣向を凝らしたビラとなっている。


「ほらあそこ、平家うどん。楽しみですねぇ」

「そんな美味いの?」

「私は好きですよ」

「そうか」

「セキくんはどうです?去年良かったところとかありましたか?」

「あー……ロシア文学研究会とか?あそこのクッキーとジャム入り紅茶は美味しかった。会員おすすめロシア小説とかも読めるし」

「なんと。ハイソサエティかつハイコンテクストな出店もあったものですね」


 沙也加は空虚な言葉を上滑りさせながら答えた。


「……そうだ、セキくん。ちょっと階段で降りましょうよ」

「ええ?いいけど。五階分はちょっと疲れるよ」

「階段にあるんですよ、超古代史研究会の新たなビラが」


 そういうや否や彼女はトランクを持ち上げ、先頭を行った。


 階段を降り、五階と四階の境の階で立ち止まる。階段のビラはほとんど前と変わっていなかった。ほとんどが平素のサークル勧誘ビラである。

しかし沙也加が指し示した超古代史研究会のビラは自主祭についていの情報を併記したものになっていた。


 そのビラなのだが、他のサークルに比べて特に目を引くものだった。超古代史研究会のビラはカラー印刷されていたからだった。七色の模様……円形に配置された文字らしきものたちがA4用紙を駆け巡っている。この間彼女が示した古代文字カタカムナとよく似ていた。


「まるで色彩の暴力だ」

「ええ。しかもこの文字を見てください。いわゆるカタカムナ文字や秀真文字のちゃんぽんですね。節操がないというかなんというか」

「正直、そのカタカムナとホツマとやらの違いが分からないんだけど」

「基本的に違いはありませんが、強いて言いうなら提唱者と時代ですね。カタカムナは先日お話したとおり、戦後になって『発見』されたものです。ホツマ文字は歴史的にはそれより古く、江戸時代に『発見』されました」


 彼女は側頭部を指でトン、と弾く。おおむね、何か思い出すときの仕草だった。


「いわゆる江戸時代中期以降、国学者というものが多く現れました。荻生徂徠、本居宣長、平田篤胤とかですね」


 一応、日本文学科に所属する身としては馴染みのある名前が出てきた。

 国学とは日本固有のものを見つけ出そうとする学問だ。

 日本の江戸時代において主流だった思想は仏教や儒教。

 それぞれインド、中国から伝わったものだが、いずれも日本の神々や思想と混じり合って混然一体となっていた。そこで、これまで日本にあった歴史文献などから外国の影響を受ける前の、オリジナルのものを探し出そう……という試みが江戸時代になって行われるようになる。それが国学と呼ばれていたはずである。


「おおむね、日本オリジナルと海外の影響を分離する思想……てことだよね」

「はい。例えば日本神話と呼ばれるものには二通りのテキストがありますよね。日本書紀と古事記です。いわゆる記紀神話といわれるものですが、書紀の方は漢文で書かれ、古事記は上代の日本語を漢字で当て字して書かれています」


 書紀は漢文……当時の中国語で書かれている。当時の中国に国家として認められるために漢字で書かれた国史を作成した。今でいうと英語で公式文書を作るようなものだろうか。


 古事記の方も彼女の言う通り、当時の日本語を漢字で当て字した文章が使われていた。暴走族が夜露死苦と書いてよろしくと読ませる……などというのはひと昔前のヤンキー漫画でしか見たことが無いが、ああいう書き方をしている文章が多くみられる。ただ、すべてがそうでは無い。そうした当て字と漢文とが混ざって書かれているのだと言う。


「さて、ここで想像力をたくましくした人々が現れるわけです。古事記には日本古来の言葉が使われている。しかしこれは漢字で音を表していて、純に日本的なものでは無い。なら―――漢字伝来以前の日本語を表す、日本古来の文字というものがあるはずではないか、と」

「普通に考えればそんなこと無い。文字が無いから古事記は漢字で当て字なんかしてるんじゃないか」

「普通に考えればそうです。漢字伝来以前の日本……邪馬台国の時代の日本を記録した中国の魏志倭人伝でも倭は文字を持たないと書いてあるわけですし。ところが、国学を学問では無くナショナリズムと捕らえた人たちにとってはそれでは都合が悪かったわけです。日本には固有の思想がある。それは優れたものである。ならば日本固有の文字だって持っていたはずだ……と。飛躍してますけどね」

「……つまり、そういう日本固有の文字がこれってこと?」

「信望者たちが言うところでは神代文字と言うらしいですね。実際は道教や沖縄で使われていた呪い用の文字をそれらしい古文書に仕立て上げて、国学者に売りつける、という商売で生まれたものみたいですが」

「まるで笑い話だな」

「ええ。面白い冗談ですが、信じる人がここにいるわけです」


 沙也加は書かれている神代文字だという記号を指でつ、となぞった。

 僕は彼女の言葉に疑問を覚えていた。歴史的な解説は妥当なものなのだろうと思う。これらの神代文字と呼ばれるものたちが、語られる由緒に対して歴史が浅いものであることもそうなのだろう。


 だが、この集まり―――この大学で活動している超古代史研究会が本当に信望者たちの集まりなのか。それは分からないのではないか。


「でもさ、この研究会とやらが本当にビリーバーなのか、それとも文字通り研究対象として見ているのかは分からないんじゃないか。あるいはサークルにかこつけて駄弁ってるだけかもしれない」

「なるほど、貴重な意見ですね。しかし―――」


 沙也加は再びビラの方に視線を向けた。僕も彼女の視線に吊られ、再びビラを見る。


超古代史研究会 自主祭発表

 日本の歴史を塗り替える大発見・神代文字。学会では評価されない日本の真実を外部ゲストをお招きして皆さんに発表します。来てくれた方にはお菓子をプレゼント!

開催場所:S301教室

予定演目;サークル誌『ことのは 第三号』展示(希望者には100円で頒布します)

    御殿場合宿映像レポート『大久元神社例大フェスティバル体験記!』(30分)

    緊急来校!大久冥氏の神代文字特別講義(全日12;30開始予定)


「この予定されている演目はどうです。そこそこ広い講堂を借りての展示会、外部から人を呼んでの公演会、しかも合宿にまで行ってますよ。少なくとも入れ込んでいるのは間違い無いのでは?」

 

 サークルが壁掛け発表を行うのは珍しくは無い。だがサークル誌まで出すのは確かに珍しいかもしれない。外部ゲストを呼ぶのも大学ゆかりの声優やアイドル、政治家を呼ぶというケースはあるが、それも資金源があるサークルに限られる。


 このビラから読み取れるのは熱心なサークル参加者がそれなりにいて、サークル誌やゲストを呼ぶだけの資金集めが出来るということだった。しかも大教室を使う程度には人が集まる見込みがある。


 確かに飲みサーや有名無実のダミーサークルの類では無さそうだった。それどころか文面の端々からはビリーバーらしき雰囲気が感じ取れる。沙也加の言うとおり、割と本気のサークルなのかもしれない。色々な意味でそう思った。


 ではそうだとして、どうやって超古代史研究会に喧嘩を吹っ掛けるというのだろう。彼らがオカルト者だっとして、それをどうやって論破するのか。いや、そもそも論破する必要があるのか。


「あのさ、前から聞きたかったんだけど」

「はい」

「どうしてこの超古代史研究会とやらにこだわってるの?」


 沙也加の横顔を伺う。

 彼女の表情からは強い情動―――怒りとか、忌々しさとか―――そういうものが読み取れなかった。精々、面倒くさそうに半目を向けているだけである。まるで必修講義だからと興味の無い講義の試験に向けて準備しているかのような気怠さを湛えている。


「……別にこだわってるわけじゃありません」

「そうかな」

「ええ。私はただ……」


 彼女は何事か言い淀み、しばし考え込んだ。

 僕は次の言葉を待つ。だが、彼女は自身が持つ感情や思考について、僕にどう伝えていいか分からないようだった。


 やがて鐘の音を模した響きが校舎中を駆け巡る。時間切れの合図だった。

雑多な喧噪と人の群れがうごめく気配がそこかしこから感じられた。それらが濁流のようにやってきてこの当たりを埋め尽くすのも時間の問題だろう。


「場所、移しましょうか」


 先ほどまでの気怠げな表情をどこかへ消して、そう提案した。

 そうだね、と僕も同意する。

 僕らは上から来る学生たちの雪崩を避けるようにさっさと階段を降りていく。そうしながら、昼食をどこで取るか、この後の予定をどうするかという会話を交わしたが、先ほどの言葉の続きを語ることは無かった。

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