10.僕と彼女のペシミズム


「昨日はすみませんでした」


 翌日、待ち合わせた教室にやってきた沙也加は開口一番にそう切り出した。

僕は「別に謝ることじゃない」と手を振った。

沙也加は「そうですか?実は私もそう思ってたんです。奇遇ですね」と笑った。いつもの戯言のようだった。


「実のところを言えばちょっとしたバイトが入りまして」

「ああ、例の?」

「そう。例のです。そう大変な案件ではなさそうなのが救いと言えば救いでしょうか」


 そろそろ何のバイトなのか、秘密にされたままだと反応に困るような物言いになってきていた。バイトについて、彼女は僕に色々と語りたがるくせに肝心なことをもったいぶっている。


「そのバイトで今年も必修を落としたら、沙也加さんは晴れて僕の後輩になるというわけだな」

「なんと!後輩フェチでしたかセキ先輩は」

「そんなフェティシズムは無い。というか、落ちることを心配した方がいい」

「ま、心配には及びません。流石に今年は試験やレポートをすっぽかすことはしませんよ」

「当たり前だよ」


 僕の心配と呆れの参った視線もどこ吹く風と、彼女はいつも通り大仰なスーツケースを開くと中からレジュメを入れる用のファイルを取り出した。


「そういえば昨日の講義のレジュメは確保してくれましたか?」

「ああ、うん」


 僕が昨日のレジュメを渡すと「ありがとうございます」とまるで何か高名な賞でも受賞したかのような大仰な仕草でレジュメを受け取った。


「昨日は……先週に引き続いて構造主義ですか。今週はデリダ、と」

「正直、全然何を言ってるか分かんなかった」

「そりゃそうでしょうね。日本の大学生が興味を持つような話じゃないですし。というか半分くらい思い出話だったでしょう?」

「うん、まぁ」

「私も興味があるだけで詳しいわけじゃないんですけど。つまり、あれは西洋的な哲学が前提にあって、その上で展開してる話なんですよ。西洋哲学の二項対立的な視点。善と悪、真と偽、精神と肉体、神と人間……しかし、その規定された対立が真に正しいものなのか、という疑問が構造主義とかポストモダンとか言われる思想によって提示された。そういう諸々の前提が無いのに思想だけ紹介されたって、そりゃあ訳が分かりませんよ」

「なんというか、詳しいんだね」

「本当に詳しい人はもっと分かりやすく、かつ正確に説明すると思います。私は齧ってるだけです」

「哲学科とかにすればよかったのに」

「それも考えたんですけど。なんというか、人生の意味とか考えだすとキリが無い気がしてしまって」

「なんで?沙也加さん、人生の意味を考えるのとか好きそうじゃない」

「……残念ながら好きじゃありません。どちらかと言えば、人生の意味は諦めてる性質です」

 彼女はやたら意味深な、どこか空虚な瞳で明後日の方向を見た。

「諦めてる、か」

「ええ。ペシミストです。ロマンティストのセキくんとは違うのです」


 やはり僕がロマンティストに分類されるのは違和感がある。

 別に未来に希望を見出しているわけでは無い。ただ、未来に対してそこまでの感情を抱いても仕方がないと思っているだけなのだ。

 僕は未来に期待していない。

 沙也加は未来を諦めている。

 別の考え方を抱いているのは確かだろう。しかし、である。


「流石にロマンティスト呼ばわりは止めてほしい。というか、ロマンティストって言いたいだけでしょ」


 僕がそう指摘すると、「バレましたか」と舌を出した。

 白い肌に血色のいい舌が妙に映える。その鮮やかさと彼女の適当な発言の連続のギャップにおかしみを感じた。

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