9.僕と高津のカツカレー

 高津は必修英語2で僕の隣の席だった。

 一限目という大学生にしては早起きを強いられる必修講義を共に戦い抜いた戦友……と言えば大げさかもしれないが、そう間違った表現でも無いだろう。

 その割に名前を覚えていなかったのは、我ながら失礼だと感じる。


 高津は僕の無頓着さに気づいているのかいないのか「今日の昼飯とかどう?」と誘ってきた。沙也加がいない以上、断る意味も無い。

 僕らが向かったのは旧館にある食堂だった。二限目と同じ校舎なので、手っ取り早いという理由からだった。


 通称、職員食堂と呼ばれているのだが、別に職員しか入れないわけでは無い。元々は教職員用の食堂だったらしいのだが、僕らが入学した時点で学生も普通に利用できるようになっていた。


 二限目が終わって少したった時間帯の食堂というのは常に混雑している。

 職員食堂は食券を購入する人で長蛇の列をなしていた。


「この大学、食堂だけで4軒もあるくせしてどこも混んでるよなぁ」


 高津は苦笑しながら列を眺めていた。

 確かに、と僕も頷いた。

 この校舎だけで二軒、2000年代初頭に出来た校舎に一軒、40階建てのタワー棟に二軒。加えて先月完成した新校舎に一軒である。


「正確に言えば6軒だね。多すぎるのは確かだ。そしてその割に人は捌けてない」

「特にここなんかカツカレー注文されてから揚げ始めるんやで?そら列も並ぶわ」


 その分美味しいけど、と高津はいかにも腹を空かしたような表情でいった。

 職員食堂の最大の特徴がそれで、メニューは揚げ物だけである。とんかつ定食、ひれかつ定食、からあげ定食、ミックスフライ定食、そしてカツカレー。聞いているだけで胃がもたれてくる人もいるだろうが、全部注文を受けてから揚げ始めるので、学食の中ではトップクラスのおいしさと人気を誇っている。


 じり、じりと人が詰めていくペースは非常に遅い。ここで昼食を取って講義に遅刻することは珍しいことでは無かった。


「いつも一緒に講義とってるあの……着物の女の人、今日はおらんの?」

「ん、ああ。今日は休むって連絡きた」

「へぇ。付き合ってんの?」

「……いや、まだ違うと思う」

「まだか」

「うん。まだ」


 可能性が無い、と断定するには微妙である。そうだ、と言うのも違う。

 自分でも良く分かってないものを他人に説明できるとは思えない。


「高津くん、前から取ってたんでしょ?声かけてくれれば良かったのに」

「いやぁ。あんな二人だけの世界に突っ込んでいく勇気は無いわ」


 余人から見るとそう思うのだろうか。

 確かに二人だけの世界を―――話題が宇宙人とかUFOな内容で―――形作っているのは確かである。しかしながら内容は極めて胡乱で、そのわりに衒学者気取りな痛いもののように思える。


「この間なんか、映画見に行く話とかしてへんかった?」

「あ、あれか」


 そういえば先週は土曜日に見に行く映画の話を講義はじめと終わりにしていた気がする。内容は現代のモンド映画、デートで見に行くと別れること間違いなしと評されたものだった。

 しかし彼女は冗談めかして「土曜のデート楽しみですねー」なんて能天気に語っていたし、見終わった後も「面白かったですねー。特に最後の生贄に志願した男が炎に包まれながら絶叫するシーンは愁眉でした」などとまた能天気に語っていた。

 あれを余人に聞かれていたら、なんてことを思うと、なんだか二重の意味で恥ずかしくなってくる。


「恥ずかしがることないでしょ。むしろあんなテンポよくポンポンやれるなって感心するわ」

「あはは……そうかな」


 そうそう、と高津は屈託なく笑った。大学生にありがちな陰鬱さも喧躁もない。きわめて自然体な表情である。大学二年になっても、彼は常識的な人間性を失っていないようだった。


「というかその黒縁メガネ」

「ああ、これ?ええやろ、なんか流行りのお笑い芸人みたいで」

「そこらにいる大学生みたいなメガネとしか思えない」

「そらそこらにおる大学生なんやから仕方がないやろが」

「1年の頃はかけて無かったから一瞬誰だか気が付かなかったよ。眼鏡してなかったよね」

「ああ、東京デビューにかこつけてコンタクトしてたけど、なんか気合い入れるのもバカバカしくなってなぁ」


 会話をしているうちに、ようやく食券の自動販売機の前までたどり着く。

 高津はカツカレーのボタンをすぐさま押した。僕もカツカレーの気分だったので同じものを注文する。


 食券を厨房で慌ただしく注文を切り盛りするおばさんに渡すと、ぞんざいに注文を復唱してから、番号が書かれた赤いプラスチック製のタグを渡してきた。注文が完成するとここに書かれた番号が呼び出される仕組みだった。


職員食堂はここからが長い。特にカツカレーはカツとライスが盛り付けられた皿とカレーが分かれているので、なおさら手間がかかる。


 時刻は13;00を回っていた。注文した料理が来るまでにあと5分……僕たちと同じく注文した品が来るのを待っている学生たちが5人ほどいた。もしかすると10分を過ぎる可能性もあった。


「セキくん大丈夫か?このあと講義とか」

「次は4限だから大丈夫だよ。高津くんは?」

「三限とっとる。しかも新校舎」


 高津はうへぇ、と顔を顰めた。僕もつられて苦笑いを浮かべた。地理的に旧校舎から新校舎まで向かうのには5分以上はかかる。ここからカレーが予定通り運ばれてきても、完食して目的地まで向かう動きはタイトなものになりそうだった。


「っていうか、セキくん?名前セキやったっけ」

「あ、そっちは下の名前。赤冶を縮めてセキ」

「そうだよなぁ。確か干乃くんやったと思ってたけど、あの着物の人セキくんセキくん読んどったから」


 確かに考えてみればセキと言われれば苗字のように聞こえるかもしれない。

 思えば高校生の頃も後輩から「セキさんって苗字だと思ってました」なんて言われたこともあった。先輩も同学年も赤冶と呼ばずにセキ、もっと縮めてせっちゃんなどと呼ばれることもあった。


「ま、好きに呼んでよ」

「覚えやすそうでええな、セキくん」

「高津くんはなんだっけ、下の名前」


 僕が聞くと高津は詰まら無さそうに「正洋。でもマサもヒロもありがちやろ?」と答えた。


「……ま、そうか」


 確かにセキヤより人口は多そうだった。


「ま、それこそ好きに呼んでや」


 関西弁のイントネーションもあってか、彼の言葉はことごとくが軽妙で、それでいて耳に良くなじんだ。うん、と素直に頷ける心地よさがある。


「そういや高津くんはゼミってどこになった?」

「ん、ああ。オレは上古の方。古事記とか日本書記とか、あとは風土記とか」


 随分とタイムリーな話題だった。

 超古代日本史研究会に難癖を付けに行くという沙也加との計画を思い出したからである。高津の知恵を借りられればいいのに、とぼんやりと思った。


「セキくんは?」

「あ、僕は文芸創作」

「ほーん。凄いやん。てなるとなんか書くんか?」

「そう。ていっても、創作って広すぎて却って何をテーマにしていいか分かんないね」

「ま、その点オレらは大体範囲は決まっとるからな。でも同時に色々テーマとしては語りつくされてもおるからなぁ。教授からは『斬新な視点』を見つけろだのなんだの言われとるけど、新資料でも見つからん限り無理やろ……」


 高津は二年後の卒論のことを考えて頭を抱えているようだった。

 遠い先のことのように思えるが、そう思うことほど早く来てしまうのが未来である。本当なら僕も「どうしたもんか」と慌てるべきなのかもしれないが、現在を生きるので一杯一杯な性分からかそこまで慌てることが出来ない。それよりも、目下の自主祭に計画している超古代史研究会への殴り込みの方が心配だった。


「そういやさ」

「うん?」

「超古代史研究会って知ってる?」

「え?聞いたこと無いけど。サークル?入っとるん?」

「……いいや。ちょっとチラシが目に入ってさ。ほら、この校舎色々貼ってあるじゃん」

「あるよなぁ。怪しいのとか沢山」

「上古専門ならそういうのにも詳しいかと思って」

「んー。研究テーマにどっぷりつかっとる人なら分からんけど、オレは興味があるくらいのレベルでしかないし。今度のゼミで先輩とかに聞いてみるわ」


 高津がそういうと、カウンターから「39番、40番の人!」という声と共にトレーに載せられたカツカレーが差し出された。「やっと来たで」と高津はそれを受け取る。僕も彼の後に続いた。


 注文したメニューが届くと、高津はあっという間にカツカレーを平らげた。食べ終わったのは次の講義開始まで10分を切った時刻だった。「ごちそーさん」と彼が合掌した時、僕はまだ半分も平らげておらず、彼の食べる速さとそのくせ下品に見えなかった育ちの良さに目を丸くするのみだった。


「んじゃお先に。また来週、夫婦漫才を期待しとるから」

「見世物じゃないんだけど」

「あんなアツアツなんは見世物と一緒や。それじゃ」


 彼は言いたいことを言うとそのまま食器を下げ、あっという間に職員食堂を後にした。嵐が過ぎ去ったような気持ちだった。その割に爽やかなものを残していたのは、人徳がなせるものだろう。

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