8.僕と高津の現代思想


『講義欠席します。レジュメ確保よろしくです』


 ヘルメットをかぶったネコが「お願いします!」とお辞儀をするスタンプと共にこの文章が送られてきた。珍しいこともある物だ、と思った。


 もはや円藤沙也加と一緒にいることが当たり前の日常になりつつあった。思い返せば一年生の時は沙也加がいない大学生活を送っていたわけだが、それがどういうものだったのか、考えなければ思い出すことが出来なくなっていた。


 二限目のフランス思想史から沙也加とともに出ることになっていた。必修でも専門科目でも無い教養単位で、出ても出なくてもいい楽単ではあったのだが、沙也加がレジュメを欲しいというのだから出るべきだろう。


 教室に入ると、とりあえず単位が欲しいという学生でひしめき合っていた。ガヤガヤと話し声が教室中を充満している。やかましいな、と思ったが、僕も沙也加と話している時は大体こんなものかもしれない。


 僕は前の座席に陳列されているレジュメを2セット取って後ろの席へ向かい、そこに腰を下ろす。

 レジュメの内容を見る。デリダという哲学者についての解説文が滔々と書かれているが、どうにも要領を得ない。僕の頭が悪いからか、あるいはレジュメで解説出来ることが限られているからか。


 前回の講義の内容を何とか思い出そうと試みたが、講師の語っていたことは主に「ポスト構造主義が世に出た時、私は大学生で―――」というような思い出話が内容の半分を占めていたことしか思い出せなかった。

 これでは沙也加に何か聞かれてもまともに答えることは不可能だろう。


 なんなら、講義を休んだ彼女から却って「これはこういうことでですね」などという解説を受けてもおかしくない。


 沙也加は哲学史や思想史の講義を割と好んでいる。

 僕は付き合いで取っているようなもので、言われている内容を追うことだけで精いっぱいなことが多い。その追った内容も得てして前提となる知識や思想が分からず、自分のものになっていないことが殆どだった。


 ただ、ひとつだけ僕が感じ入っていることもある。講義で取り上げられるような人は、人間や世界、今と言う現実というものについて、かなり本気で考えていたんだな、ということである。

 世界の成り立ち、人間と人間の関係、人間と動物の関係、人とモノの関係、人間と社会の関係……そして人間と神の関係。

 それらは本当に、その時のその人たちにとっての問題だったのだ。

しかし、今の僕とは縁遠いものだった。


 講義はいつもの通り、講師の思い出話へと脱線を始めていた。僕はその話を頬杖をついて聞き流しながら、ふと周囲を見回す。誰も聞いていない。半分は寝ていて、半分は手元のスマートフォンに目を向けている。さて、沙也加に講義のことを聞かれたらどう答えたものか、と途方に暮れた。


 講義が終わり、人々が退出していく。

 人の群れが、堰を切ったように流れていくのをぼんやりと眺めていた。


 そういえば今日は沙也加がいないのだった、とふと気が付く、さて、今日はどこの食堂で昼食を取ろうかと頭をもたげた。普段は色の無い新校舎の食堂なのだが、今日は普段使わない場所にしてもいいかもしれない。


「……セキくん、だよな?」


 ふと、自分の名前を呼ばれた。なんだ、と思いながら背後を振り返る。話しかけてきたのは男子学生だった。Tシャツに丈の長い、ゆったりとした上着を羽織っている。髪は茶に染め、生白い肌に太い黒縁の眼鏡をかけていた。つまり、いかにも大学生という風貌だ。

 声色には関西弁のイントネーションが混ざっており、耳に残った。


 誰だったか、としばし思索する。

 大学と言うのは人と馴染むことはよほど馬が合わないと難しい。名前を覚えたり覚えられたりという関係を築くには出席率が高く、かつ積極的な参加が求められる講義を取る必要がある。さもなくばサークルに所属するかだが、僕はどこにも所属していなかった。


「……あ、英語2取ってた?」


 条件を絞り込んで、そういえば、と彼の顔を思い出した。

 一年生の時、必修英語2を取っていたメンツの中に彼の顔があった。名前は確か……


「そうそう!高津やけど、覚えてる?」


 彼は僕が思い出すよりも先に飄々と聞こえるイントネーションで名乗った。

「ああ、もちろん」と言いながら、僕は名前を思い出す必要が無くなったことに安堵した。

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