2.僕と彼女の古書店探索

 眠たい気分を押しのけながら僕と彼女は4限目を乗り切った。内容は西洋美術史である。フランスの美術家たちの名前の羅列されたレジュメをリュックにしまい込む。


「いつかルーヴル美術館にも行きたいですねぇ」


 円藤沙也加は開口一番、そう言った。


「僕はフランス語喋れないけど」

「ちなみに私はフランス語取ってますよ。去年は落としましたけど。再履してるのでタイムリーです」


 必修講義を落としたことをここまで自慢げに語る女もそうはいるまいと思った。底抜けに明るいのか、そう振る舞っているのかは分からないがどちらにせよ大した胆力である。


「おおよそ何に影響されたのか当ててもいい?ダヴィンチさんの暗号云々の映画だろ」

「失敬な。小説の方です、私の場合」

「どこが失敬なのか理解に苦しむけどね。まぁ、どっちにしろ陰謀論者のメッカにされてルーヴルも困ってるんじゃないかな」

「さてどうでしょう。これが切っ掛けで人が集まったのなら、ルーヴル的には無問題じゃないんですか?」

「さて、聖杯を目当てにルーヴルに行く人と、レオナルドダヴィンチはじめ著名な美術家たちの名作たちを目当てにルーヴルに行く人、どちらが多いのかはぜひとも検証してみたいところだけど」


 前者であれば客の新規開拓を行ってくれたダン・ブラウンに感謝だろうが、後者であれば変な客を呼び込みやがってと苦笑いすることになったはずだ。

 この件、気になりはするが恐らく検証するまでもないことだろう。


「ま、差し当たってルーヴルについては今度計画を詰めましょう。チケットを節約する方法が無いわけでもないですし」

「君、もしかして激安チケットマニア?」


 1年後のチケットを予約して定価の半分以下の値段で飛行機に乗るような人が世の中には居るらしい、ということは知っていた。彼女もそうなのだろうか。


「それも乙女の秘密です。私は秘密が多いことで名を馳せているのです」

「……さよけ」

「さよです。それで、今日はどうします?神保町まで歩いて行ってみますか?書泉グランデとか久々に行きたいんですけど」


 あそこは一般書店にしては参考文献がそろってるんですよね、などと意味が分からないことを呟く。ここで言う参考文献は『月刊ムー』とか『ムーの世界R』のことを差している。


 僕に異論は無かった。僕も彼女も文系学生であり、その中でも妙に真面目な方に分類されるだろう。ちなみに妙に、というのは読書やら知識やらに対する熱心さだけはある、という意味である。熱心さに対して成績は中以下、というのが『妙に真面目』の由縁である。


「そうしよっか。次のゼミの課題本も探したいし」


 そうしよう、と示し合わせた。

 校舎を出てすぐ裏手、靖国神社の就遊館脇出入り口から右に二回曲がり、境内の中を靖国通りまで通り抜ける。普段なら曲がるのは一回、能楽の舞台をわき目にまっすぐ進むところなのだが、先日ボヤ騒ぎがあったせいでその出入り口は閉鎖されていた。

 仕方なく、正門の鳥居の方へ二人連れでそぞろ歩く。


「……こう、靖国の中を着物来てる女と二人連れだと妙な気分だ」

「照れちゃいますか?」

「テロか何かに巻き込まれないか不安になる」


 歴史に対して妙に大きい鳥居をくぐりながら、聞く人が聞けば怒りそうな会話を交わし合う。


「まっさかぁ。ひと昔前のドキュメンタリー映画じゃあるまいし、靖国で騒ぎ立てる人なんて見たことありませんよ」


 沙也加の言うとおり、境内の空気は長閑そのものと言ってよかった。僕たちのような学生やスーツを着たサラリーマン、大きなリュックサックを背負った外国人観光客といった顔ぶれが呑気に歩いている。


 ただ、そのいずれからも僕たち……正確に言えば隣に歩く着物姿の沙也加の姿が目を引いているのは感じられた。


「良いことじゃないですか。あらゆるものは忘却によって意味を失い、忘却によって新たな価値を得ることが出来るようになる。キナ臭い過去を忘れて長閑で神秘的な歴史ある神社っていう新しくも平和なレッテルが貼られるのなら、それに越したことはありません」

「ちょうどこの間小火が起きたばかりだけど」


 皮肉気な僕の言葉に彼女はでへへ、と誤魔化すように笑った。

 そうこうするうちに、靖国神社を抜けて昭和館前までたどり着く。ここにある大きな交差点を抜けた先から神保町が始まる。いつも通りの古書探しの時間だった。



 これまたいつものことなのだが、古書店を巡ってピンポイントに課題図書を見つけられたためしは無い。それなのについ探し回ってしまうのはもはや宝箱よりも宝探し自体が目的になっているのかも知れない。


 ともかく、外に吹き曝しの一冊100円の書籍棚を一通り見つめて、必要なものが無い代わりに前々から読みたかった大江健三郎の著作を見つけることができた。


「本当は長江古義人が出てくる奴にしたいんだけどな。全然見つからない」

「そうなんですね」


 沙也加は生返事を返すとスマートフォンを取り出して何かを調べ始めた。まぁ僕の読書に対してそう興味は無いのだろう、と考えたのだが「文庫化はしてるみたいですよ。でも2004年」と言った。態々調べてくれたようである。


「2004年か……古本屋で探すにも一般書店で注文するにも微妙な年だな」

「ほう?2004年に何か出版界を揺るがす事態が?」

「いやそうじゃなく。出版社取次の在庫にも出版社在庫にも残ってるか微妙な古さってこと」

「そうですか。でもこの作家さんレベルなら再販くらいしてそうですよね」

「ま、そうなんだけど」


 僕はそう言いながら新書サイズの本を手に店内へと入っていった。「M/Tと森のフシギの物語」と題された本について、僕は一つとして情報を持っていなかった。大江健三郎が書いた作品に興味はあったが、読んだことは無かった。著名な作家であることしか知らない。それでも手に取ったのは、一種の直観からだった。


 会計を済ませ、ビニール袋を手にぶら下げて外に戻る。沙也加は店内に入らなかった。狭い店内にキャリーケースを持って入る気にならなかったのだろう。


「貧乏性なのか何なのか。新品の本ってあんまり好きじゃないんだよな。かといって嫌いでも無いんだけど。でも誰かが手に取った後がある方が、なんだか落ち着く」

「なるほど。他人の痕跡に運命を見出してしまうタイプですね。書き込みや付箋がわりのレシートなんかが好きなんでしょう?」


 試しに本をめくってみた。はらり、とレシートが一枚落ちてくる。拾ってみると神戸あたりの書店のレシートのようだった。僕には縁もゆかりもない。沙也加に見せると「やっぱり」と笑った。


「まぁ、一番大事なのは安いことだけど」

「確かに貧乏性ですね。でも経済性と環境問題を考えるのは大事です」


 無理やり褒めるような言葉を絞り出されてもうれしくもなんともなかった。



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