旅の始まり

 翌日の早朝、太陽が水平線から顔を覗かせるころ、エルマと両親は家の前に立ち、ゾフィーの到着を待っていた。追放処分という扱いではあるものの、新たな旅立ちと考えれば非常に清々しい朝である。


 遠くから小鳥のさえずりが響く中、両手を太い腰に当てながらハンナは少し不機嫌そうに呟く。


「しっかし遅いねぇ。寝坊助ねぼすけのエルマでさえも、ちゃんと支度できてるってのにさ。朝に来るって言ってたはずなんだけど」

「うーん……もしかしたら、シャルの方から先に迎えに行ってるのかも。先生、確か村の中央辺りに住んでるみたいだから」

「そうなのかい? それじゃあ、遅くなってもしょうがないね。……そうだ。せっかくだし、最後にミレリーでも見てきたらどうだい? エルマ、あそこが大好きなんだろう?」

「えっ?」


 突拍子もない提案に、エルマは驚きレオポルトの顔を見上げる。いつもならば、そのような意見など即座に却下するハンナでさえも、彼の発言に同意するように頷く。


「そうだねぇ。先生たちには、ミレリーに向かったって伝えとくからさ。アンタは気兼ねなく行ってきな。どうせ一年以上は見られないんだ、しっかりと目に焼き付けておくんだよ」

「え、ええ? ほ、本当にいいの?」

「こうして待ちぼうけしてるより、そっちの方が良いだろう? 行ってきなさい。、ね」

「う、うん。分かった……って、いつものように? し、知ってたの!? わたしが毎朝ミレリーを見に行ってたこと!」

「そりゃあそうさ、父さんはエルマのことなら何でも知ってるからね。だからほら、早く行っておいで」


 すると、にこやかにエルマへ微笑むレオポルトの横にいたハンナは、ゆっくりと彼へと顔を向け、静かに唇を開く。


「……あなた、それを私にずっと黙ってたの……?」

「え? ああいや、その……」

「父親が娘の遅刻を容認してたってのかい? ははは、なんて面白い話だ。是非とも詳しく聞いてみたいところだね!」


 徐々に怒りのボルテージを上げてゆくハンナに、思わず後ずさりをしたレオポルトは、凍り付いた表情のままエルマへと語り掛ける。


「うっ……エルマ。ほら、さっさと行きなさい。後悔しないようにね!」

「う、うん。じゃあ、いってきます!」

「いってらっしゃい。さぁて、あなた……どういうことなのか、納得のいく説明をお願いしますね……」

「ひ、ひいいっ!!」


 大噴火から逃げるように、二人へ背を向けたエルマは顔を引きらせながら走る。早朝であるが故に、大声で怒鳴りこそしなかったものの、それも時間の問題だ。妙なとばっちりを受けないためにも、エルマは全速力でミレリーへと向かった。


「はあっ、はあっ!」


 中途半端に舗装された海岸線を、ひたすら走り抜ける。通い慣れたこの道も、景色も、当分の間は見ることも踏むことすらも出来ない。不意に訪れた物悲しさに唇を噛み締め、エルマは大きなリュックを揺らし、杖をバトン代わりにして駆ける。


 そして、いつもの場所へと辿り着いたエルマは、大きく深呼吸をして朝日を受けて輝くミレリーを眺める。神秘的でありながらも退廃的な双子の塔は、その姿かたちを変えることなくそびえ続けていた。


 昨日、あれだけの事件がその足元で起きたというのに、まるで何もなかったかのように平然と雄大な姿を見せるミレリーを見て、エルマはほっと安堵しつつ、その場へと腰かけた。


「良かった。これならきっと、一年後でも大丈夫だよね……」


 しかし、一つ安心したのも束の間、この村を追放されることとなったという事実が、彼女の心を猛毒の如く蝕み始める。温かな両親、厳しくも優しい先生たち、そして大好きな双子の塔の風景。それぞれに対する記憶が鮮明によみがえり、エルマの目からは涙が零れ出す。


「あ、あれ?」


 突如として流れ出た塩辛い雫に驚き、慌てて拭うエルマであったが、涙は拭けども拭けども流れ落ちる。それだけ彼女はこの村が好きであったし、罪を受け入れたつもりであっても、心の中では現実として許容できなかったのだ。


 もちろん、たった一年間だけの追放処分だ。今後、二度とここシュード・アレシェリアへと戻れない訳ではない。ただ、戻れるという確証もない。それだけに、不安や寂しさなどが一挙に押し寄せ、自然と涙したのである。


「ど、どうして……涙が、止まらない……止まらないよぅ……」


 必死になって涙を止めようと悪戦苦闘を続ける中、エルマの傍へ小さな影が近寄る。そしてその影は、泣き止まないエルマに軽い調子で問いかける。


「どうした、嬢ちゃん。なに泣いてやがるんだ?」

「分かんない。分かんないけど、涙が止まらなくって……え?」


 馴染みのある声であったため一旦は普通に返答したものの、違和感を覚えたエルマは一瞬だけ固まり、顔を上げてその声の主へと視線を向ける。


「……クルちゃん!?」

「よう。どうやら、体の方は元気そうで何よりだぜ」


 そう、泣いていたエルマに声を掛けたのはドラクンクルスであった。彼の出現に戸惑い、涙を拭う事すらも忘れて問いかける。


「え、どうしてここに……じゃなくって、クルちゃんもあの魔物と戦って吹き飛ばされてたよね! 大丈夫だったの? 怪我は無い?」

「あん? なに言ってんだ、俺様は竜種だぜ? あの程度の衝撃、どうってことはねぇよ。頑丈なウロコに守られてるからな、ちょっとやそっとじゃ傷なんか付かねぇぜ!」

「へぇー、そうなんだ……すっごく体が硬いんだねぇ」

「……おい、その言い方は止めろ。柔軟性がないみたいじゃねぇか。……っと、それはともかくだ」


 そう言うと、ドラクンクルスはエルマの前へと降り立ち、一枚の紙を差し出した。この世界では非常に珍しい、薄くて丈夫な白紙である。


「ほいよ。あの魔女から、これを渡せって頼まれたんだよ。嬢ちゃんが追放されたって知ってから、珍しく慌ててこれを造ったみたいだぜ?」

「え、ええ? ど、どうして師匠、わたしが追放されたって……」

「そりゃあ、アイツはいつも村の様子を魔鏡で見てたからな。あそこから出られない分、外の状況を知るにはそうするしかねぇからな」

「そ、そうなんだ……それで、これって何?」

「さぁ? 俺様は、とりあえずそれを渡せって言われただけだからな。中身なんか知ったこっちゃねぇよ」

「もう、適当だなぁ……」


 あまりにも他人事という雰囲気をかもし出すドラクンクルスに呆れながらも、エルマは素直にアンネリーゼお手製だという紙を手に取る。手に取っただけでは何の変哲もない、まっさらな紙が海風に揺られるだけで、何か変わったことは起きない。


「なんだろう、これ。でも、師匠がわざわざ渡すってことは、きっと大事な————」


 だが、その紙を仕舞おうと背負っていたリュックを下ろす際、エルマの握っていた杖の一部が紙へと触れた、その時であった。


「ん? うわわっ!」

「おお?」


 突如として杖先から眩く細い光が放たれ、アンネリーゼの紙へと吸い込まれていった。そして一瞬だけ紙全体が輝いた後、少しずつ無地であった紙に文字が浮かび始める。


「な、なにこれ、すごい! ただの紙に、文字が勝手に書かれていく!」

「ははぁ、なるほどな。多分、これは嬢ちゃんに宛てた手紙だろうな」

「て、手紙!? これが、あの手紙なの?」

「ああ。しっかし、あの魔女め……随分といきな演出しやがって。こういう無駄なことは嫌いだ、って言ってたはずなのによ。こりゃあ嬢ちゃん、よっぽど気に入られたんだな」


 ミレリーの深部にいるであろうアンネリーゼへ向け、ドラクンクルスは嘲るように鼻で笑う。その一方で、アンネリーゼ直筆の手紙を受け取ったエルマは大はしゃぎしながら、その手紙を声に出して読み始める。


「手紙かぁ……わたし、手紙を貰うの初めてなの! えっと、なになに!? ……『バカ弟子に命令する。そこのアホ竜を連れて、この世界のどこかにあるという最果ての楽園を目指せ。そこには、錬金術のための重要な素材が眠っている。時間が無い、頼めるのはお前だけだ。よろしく頼むよ』……え、どういうこと……?」

「は、はぁっ!?」


 二人とも、その手紙の内容に驚き目を見開く。エルマはもちろんのこと、紙を渡すだけのつもりであったドラクンクルスにとっては青天の霹靂へきれきであり、完全に意表を突かれた彼は慌ててエルマに問いかける。


「ちょ、ちょっと待て、なんで俺様まで行かなきゃならねぇんだ! おい嬢ちゃん、それ以外には何も書いてないのか!?」

「う、うん。それだけで、後は何も……あ、ちょっと待って、裏にも何か書いてある。なになに……?」

「よ、よこせ! 俺様が読む! ……『そこには、お前の仲間の住処があると聞く。群れからはぐれたお前には、大きなチャンスだと思うけどねぇ? どうしても行かないつもりなら、さっさと私のところへ戻って手伝いな』……なんだ、これ。あの魔女、どうして裏面は俺様が読むって分かったんだ……?」


 まるで、リアルタイムで会話しているとも思える文面に放心するドラクンクルスへ、エルマは追い打ちをかけるように純粋な質問をぶつける。


「え、えっと……クルちゃんって迷子だったの?」

「ば、バカ言うんじゃねぇ! 俺様は、ただ、その……あれだ、なんていうか……」

「うーん、そうだなぁ。気ままな旅人って感じ?」

「そう、それだよそれ! 良く分かってんじゃ……って、あん?」

「シャル! それに先生も!」


 その声のする方へと勢いよく振り返ったドラクンクルスは、表情を固まらせる。それというのも、彼の背後にはいつの間にか、ゾフィーとシャルロッテがいたのであった。彼がエルマにしたのと同じように、気配を消しつつ会話に割り込んだシャルロッテは、ポカンと口を開けるドラクンクルスとエルマに小さく手を振り、笑顔で話しかける。


「えっと、クルちゃん、だっけ? 昨日は助けてくれてありがとうね! しかも一緒に旅してくれるんでしょ? 助かるよ、女三人の旅になるから不安もあったんだ!」

「お、おい。お前ら、いつの間に……」

「いつって、さっきからいたんだけど? そこの岩の後ろ辺りに、だけど」

「隠れてんじゃねぇか! い、いや、ちょっと待ってくれ。俺様は一度も外に出るなんて言ってねぇぞ!」

「え、そうなの? なんで?」

「な、なんでって……」


 きょとんとするシャルロッテに、ドラクンクルスは完全に言葉を失い閉口する。彼はそもそも舌戦が苦手であったし、完全に同行者として認識され、その上歓迎されているともなれば、その想いを無下にできないのであった。


 妙な沈黙が流れる中、ずっと押し黙っていたゾフィーはドラクンクルスの元へと近づき、じっくりと彼の姿を見つめ始める。


「ほう……」

「な、なんだよ。なんか文句あるのか?」

「……なるほど、確かにあなたは竜種のようですね。そうでしたら、確かに最果ての楽園を目指すのは理に適っていると言えましょう。私も話でしか聞いたことはありませんが、彼の地は多くの竜が住み豊かな自然を育む、生物にとって理想の場所であるそうですからね。私たちと共に州都へ向かい、多くの情報を得るべきでしょう。どうですか? これは互いに利益のあるものだと思いますが」

「……」


 完全に理攻めをされ、反論の余地がなくなったドラクンクルスは大きく溜息を吐くと、小さな翼をパタパタと羽搏はばたかせ、力強く答える。


「……仕方がねぇな。そこまで言われちゃあ、俺様も腹を決めるしかねぇ。分かったよ」

「じゃ、じゃあ!」

「ああ。でも、その楽園とやらが存在しなかったら、容赦しねぇからな。それは覚えとけよ」

「うん! ありがとうね、クルちゃん!」

「だから、俺様の名前は……はぁ、まあいいや」


 また溜息を吐いた彼は、微笑むゾフィーへと視線を送り、怪訝けげんな表情でこっそり問いかける。


「しっかし、先生よぉ。これが追放初日ってのはおかしくねぇか? もっとほら、追放ってのは重苦しいもんだろ?」

「ふふ、確かにそうですけど……明るい方が良いではありませんか。それとも、重苦しい方がお好みですか?」

「いや、そうじゃねぇけどさ。なんつーか、気が狂うっていうかさ」

「まぁ、お気持ちは分かりますが。でも、これがこの子たちの空気ですからね。私たちは、彼女たちを正しく導いてあげること。ただそれだけです。……さて!」


 ドラクンクルスとの密談を切り上げたゾフィーは軽く手を叩き、気合を入れ直すかのように三人へと声を掛ける。


「では、早速行きましょうか。ここでグダグダとしていては、いずれ村人に見つかってしまいますからね。まずは、近くの街を目指して進みましょう。州都は遠いですから、気を引き締めてくださいね」

「はい!」


 こうして、エルマたちは不幸な境遇でありながらも、笑顔を浮かべて村から旅立った。海風に背中を押され、軽くなった足取りでずんずんと前へ進む。華やかな州都、そして幻の地へ向かって。

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