忌避するもの

「ただいま……」


 ゾフィーの姿が闇に溶けた頃、ようやくエルマは自宅の扉を開ける。片手では抱えきれないほどの重量感を持つ本を胸に、中の様子を窺いながらゆっくりと足を踏み入れる。


 予定よりもかなり帰りが遅くなったため、ハンナの怒声が響き渡るものだと確信していたエルマだったが、意外なことにハンナはまだ鍋とにらめっこを続けていた。そんな彼女の代わりに、父であるレオポルトはエルマへ優しく声を掛ける。


「ああ、遅かったね。水はちゃんと汲めたのかい?」

「あ、うん。ちょっと零しちゃったけど」

「いいさ、エルマにはちょっと重たかっただろうからね」


 そう言って、レオポルトは顔を歪ませながら立ち上がろうとする。レオポルトの姿に慌てたエルマは、手にしていた本を床に置いてすぐに彼の元へと駆け寄る。


「お父さん! まだ無理しちゃダメだって、お医者さまにも言われたでしょう?」

「はは、いやいや……このくらい、どうってことないよ。早く仕事に戻らないと、二人に迷惑かけちゃうだろ」

「迷惑だなんて、そんな……」

「良いんだよ。お父さんだって、じっと座ってばかりなんて辛いんだからさ……って、あれ? あの本は何だい?」

「え?」


 エルマに体を支えられつつ、草臥くたびれた表情のレオポルトは玄関の脇へと指をさす。そこには、先ほどエルマが無造作に床へと置いた古い本があった。錬金術の扱い方が書かれているという、ゾフィーから貰った古書である。


 少しだけエルマは言葉を選びながら、じっと本を見つめているレオポルトへと答える。


「あ、えっとね。さっき、学校の先生があの本をくれたんだ」

「へぇ? それはまた珍しいじゃないか。エルマが本を欲しがった……ってことは無いか。勉強嫌いなエルマが、本をねだるとは思えないし。……それにしても、随分と古い本だね?」

「う、うん。えっと……錬金術が書かれた本、だって言ってた」

、だって?」


 エルマの話を受け、柔らかかったレオポルトの表情は一変した。まるで仇を見つけたような、憎悪にも等しい嫌な視線を本へと送る。その雰囲気を察したように、鍋を見つめていたはずのハンナは古書へと近づき、眉をひそめながら手にした御玉杓子レードルで汚らしいものを弄るように本を捲り始める。


「お、お母さん! そんなもので触ったら、本がダメになっちゃう!」

「……こんなもの、受け取っちゃダメじゃないか」

「え?」


 ハンナは大きく溜息を吐き、呆然とするエルマへと視線を送る。その目は、いつになく感情を殺したものであった。


「これは後で先生に返しておくから、エルマはさっさと学校の荷物を片付けなさい。まったく、こんなものを渡して……学校の先生も一体何を考えているのやら」

「ちょ、ちょっと待ってお母さん! わたし、その本読みたい!」

「ダメだ。ただでさえ落ちこぼれのアンタが、こんな難しい本を読んだところで意味ないさ。どうせ数ページも読まないうちに、本棚の肥やしになるに決まってるよ」

「落ちこぼれなんかじゃない! わたしは、ゾフィー先生に認められたんだもん!」


 半ば叫ぶように声を上げたエルマは、学校で貰ったばかりの杖を鞄から取り出した。この地域ではランケバウムと呼ばれる、特殊な木材で作られた黒褐色の短杖だ。


「わたし、魔法が使えたんだよ! それも、みんなが使えないような魔法を!」

「魔法、だって……?」

「ゾフィー先生、わたしには錬金術師の才能がある、って言ってくれたんだ。いつも学校では何も出来ないわたしが、初めて褒められたんだよ。……嬉しいに決まってるじゃない。勉強したいって思うに決まってるじゃない!」


 そう言って強引にハンナから本を奪い取ると、じっと彼女を睨む。普段は滅多に反抗しないエルマが、こうして感情を表に出してハンナに食い下がることは、十五年の歳月の中でも初めてのことであった。


 しかし、エルマの強い意志にも負けないほど、ハンナはより一層感情を殺し、抑揚のない声色で語り出す。


「そうかい。アンタがそこまで言うなら、本は返さないでおくよ。でも、その代わりにだ」

「えっ……?」


 突然の宣告に言葉を失い、エルマはただ目を丸くしてハンナを見つめる。一方のハンナは、それだけ告げるとまた鍋の元へと戻っていった。まるで何事も無かったかのような振る舞いに、ようやく我に返ったエルマはハンナを問い質す。


「ちょ、ちょっとお母さん……嘘、だよね?」

「……」


 しかし、エルマの問いに対しハンナが反応を示すことは無かった。黙々と、すでに出来上がっているはずの料理を御玉杓子レードルでかき回し続けている。あまりにも不可思議な行動に少し困惑しつつも、相手にならないと考えたエルマは代わりにレオポルトへと話を振る。


「お、お父さん、何か言ってよ! わたし、どうして学校に行っちゃいけないの?」

「……」

「お父さん!」

「はぁ、仕方がないね。お前に伝えるのはまだ早いかと思っていたけど、話すしかないか」

「え?」


 大きく息を吐くと、すがり寄ってきたエルマの目へと視線を移し、レオポルトは声のトーンを一つ落として語り始める。


「エルマ……カルラお姉ちゃんのことは覚えているかい?」

「カルラお姉ちゃん……う、うん。ぼんやりとだけど」

「まあ、そうだろうね。カルラは、お前が小さいころに死んでしまったからな」


 カルラ・エドワードシエラは、エルマより十二も歳上の姉であり、エルマが三歳の頃に不慮の事故で命を落としていた。そのため、エルマにはカルラに対する記憶があまり無く、写真なども存在しないことから彼女の顔すらも思い出すことは困難であった。


 ぼんやりとしか記憶していないという返答に、少し寂しげにうつむくとレオポルトは話を続ける。


「カルラは事故で死んだって、聞いているね?」

「う、うん。ミレリーの調査に同行した時、落盤事故に巻き込まれたって。その影響で、ミレリーの中は立ち入りが禁止されてるってことも」

「そうだね。でも、真実は違う」

「え?」


 顔を上げたエルマの視線を避けるように、レオポルトは天井を仰ぐ。そして少しの静寂の後、彼は唇をギュッと噛みしめ、負の言葉をつむぐ。


「エドワードシエラ一族には魔法を使う力が人一倍あるんだ。でも、その代わりに強い力を制御できないことがあってね。特に、感情が不安定な思春期では魔法を暴発させてしまうことがあるんだよ」

「それって……」

「そう。あの時、カルラは使おうとした魔法がコントロールできなくなって、塔の一部を壊してしまって、そして……」


 それ以上レオポルトは口に出来ず、自然と涙を零す。遠巻きに彼の話を聞いていたハンナも、顔は見せないものの肩を震わせていた。


 不慮の事故には変わりない。ただ、老朽化したミレリーでは無く、エドワードシエラという血に問題があったのだ。それ故に、レオポルトとハンナは魔法、そして魔法を行使する錬金術という言葉に過剰反応したのである。


 しかし、レオポルトの話を聞いてもエルマには理解できなかった。彼女がいとも簡単に使用できた魔法が、身に危険を及ぼすという話を実感することが出来ないのである。


「でも、だからと言って学校に行っちゃいけない理由にはならないじゃない。わたし、ようやく自分でも出来そうなことが見つかったんだよ? それなのに……」

「エルマ……お前の気持ちも分かるよ。でも、魔法だけはダメだ。言っただろう? エドワードシエラ一族の血筋が問題なんだって。犠牲になってきたのは、カルラだけじゃないんだよ」

「お姉ちゃんだけじゃ、ない?」

「そうさ。俺の兄弟姉妹。それに親戚たち。みんな魔法による事故で、二十歳を迎える前に死んでいるんだ。俺は運よく、魔法の才能があまり無かったから生きているけど……それでも、危ないと感じたことは一度や二度じゃない」

「……」


 一族郎党が、エルマと同じくらいの年齢で不幸な目に遭っている。それを嫌というほど目にしてきたレオポルトは、大切な娘を決して、魔法を教えるような学校には通わせられないのだ。その気持ちは、ハンナも同じであった。


「だから、お願いだ。学校には、きちんと話を通しておく。魔法学を履修しなくても卒業できないかどうか、先生たちに聞いてみるよ。それまでは、悪いけど家に居てくれないか?」

「で、でも……」

「お願いだ、エルマ。俺たちはもう、家族を失いたくないんだ」

「……」


 必死の懇願を受け、エルマは泣きそうになりながら小さく頷く。決してすぐに理解のできる話ではない。だが、彼らの様子を目にして、心の優しいエルマには拒絶できない。もちろん、拒絶したところで家を追い出されれば、結果は同じだ。家事も何も出来ないエルマには、行く当てなどないのだから。


 不承不承ふしょうぶしょうながら話を受け入れたエルマに、レオポルトは弱々しく微笑みかける。


「ありがとう、エルマ。なるべく早く話をつけて、来週には学校に通えるようにするからね」

「うん……」

「あと、杖が無くても魔法を発動させられるから、そこも気を付けて。今日学校で習った呪文も、軽々しく口にしてはいけないよ?」

「え、そ、そうなの?」

「ああ。杖はあくまでも、魔法を行使しやすくするための媒体でしかないんだ。普通の人たちは杖が無いと出来ないけど、エドワードシエラ一族は傍に小石でもあれば魔法が使えちゃうから」

「そう、なんだ……」


 そういう特殊な体質が故に、魔法学を履修することすら彼らは禁じているのだ。学校に通えば、嫌でも呪文が耳に届く。それを口ずさんでしまう可能性は、まったくのゼロではない。


 ふとしたきっかけで魔法が暴発し学校が崩壊すれば、当然のことながら被害は甚大だ。エルマだけでなく、周囲の生徒も守るための措置と言える。エルマの大切な友人であるシャルロッテすらも危機に陥れてしまうかも知れない。


 それを聞いて、ようやく彼女は自分の危険性を理解した。自分のせいでシャルロッテを傷つけることなど、決してあってはならないことだから。


「分かった。大人しくしてる……」

「ありがとう、エルマ」


 こうして、エルマは数日の間だけ自宅に留まることとなった。自分のためだけではなく、家族や友人を守るため、そして自分の心を落ち着けるために。





「はぁ……」


 夕食終わり、無言のまま食器を片付けたエルマは一つ溜息を吐き、暖炉へと視線を移す。レオポルトとハンナは、学校の教師たちに説明するための協議を始めていた。その邪魔とならないようエルマは気を遣って、彼らの視線に入らない場所に身を隠しているのだ。


 自分のことであるのに、どこか疎外感を覚えたエルマはモヤモヤとした気持ちをぶつけるように、傍にあった薪を適当に暖炉へと放る。パチパチとぜる薪を見て心を落ち着けていた矢先、彼女の脳裏に一つの疑問が浮かび上がった。


「あれ……? わたし、使ような……?」


 何度思い返してみても、魔法学の講義の際……隣にいたシャルロッテとは正反対に、エルマの杖はうんともすんとも言わなかった。『光よ、灯れsicul xul』、と適切に発音したにも拘わらず、そしてエドワードシエラという血筋を受け継いでいるにも拘わらず、である。


「本当にわたし、魔法が使えるの、かな……」


 一度は受け入れたはずが、彼女の頭で疑問がぐるぐると駆け回る。どうしても解決できない矛盾に頭を痛めたエルマは、そのまま暖炉の前で横になった。胸に抱えたままの分厚い本を、抱き枕代わりにして。

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