エルマと家族

 家に入るや否や、エルマの耳に飛び込んで来たのは彼女の母親、ハンナの野太い怒声だった。


「遅いっ!」

「ひっ!」


 ビクッと体を硬直させるエルマに、ハンナは怒り心頭な様子で詰め寄る。だいぶ年季の入ったエプロンが彼女の顔に近づくと共に、キッチンから立ち込める夕餉ゆうげのいい匂いが鼻を刺激する。


「またアンタ、どこかで道草食ってたんじゃないだろうね! 最近は父さんの腰の調子も悪いんだから、すぐに帰って来なくちゃダメじゃないか!」

「う、ご、ごめんなさい……」

「それと、また学校に遅刻しかけたそうね! 朝早くから起こしてるのに、どうしていつもいつも遅れるんだか! まったく、嫌になるよ!」

「うう……」


 プリプリとしながら、大きな体を揺らしてハンナは鍋の前へと戻ってゆく。すると、玄関で怒鳴られ続けていたエルマに向けて、彼女の父であるレオポルトは優しく微笑みながら手招きする。


「おかえり、エルマ。帰ってきて早々に悪いんだけど、ちょっと水を汲んできて貰えるかな」

「ただいま、お父さん。いいけど、お水足りなかったの?」

「いいや、まだ足りるけどね……ほら」


 キョトンとしながら見つめるエルマに、レオポルトは黒い口髭を少しだけ震わせ、チラ、とハンナの方へと視線を移す。鍋の蒸気がちょうど彼女の頭の位置から立ち込めており、その怒りを表しているように見えた。


「まずは、母さんの機嫌を直す努力をしないとね。料理の手伝いは苦手だろう?」

「う、うん……刃物はまだ、怖くて」

「だったら、そういう気が利くところを見せなくちゃね。なに、一杯だけでもいいさ。完全に暗くならないうちに、早く行ってきなさい」

「う、うん。分かった」


 レオポルトに促されたエルマは、少しだけ表情に元気を取り戻し、ハンナに気付かれないよう、そっと家を出ていく。扉が閉まり、エルマが出ていったことを横目で確認したハンナは、小さく息を吐くとレオポルトに向けて苦笑する。


「やっぱり、考えが甘いのよね。そんなことで私の機嫌が直るとでも思ってるのかしら」

「おや、母さん。気付いていたのか」

「そりゃあ気付くに決まってるでしょう。あなたやエルマの考えることなんて、全部お見通しよ。何年一緒にいると思ってるの」


 フフン、と得意げに笑みを浮かべるハンナへ、レオポルトは嬉しそうに口を開く。


「機嫌、直ったじゃないか」

「……別に、元から機嫌を損ねてた訳じゃないもの。ただ私は、あの子のことが心配なだけ」


 そう言うと、ハンナは手に持っていた御玉杓子レードルを置き、神妙な面持ちで視線を床に落とす。そして、一転して活気のない声量で呟く。


「あの子には、少しでも長く生きて欲しいわ。、ね」

「そう、だね……」


 グラグラとゆだる鍋、パチパチとぜる薪、外を跳ね回る鈴虫の声。沈黙した二人の代わりに、家の中はそれらの音が支配していた。




 ———— ★ ———— ☆ ————




 家からほど近い井戸へ向かう途中のエルマは、燃える水平線を眺めていた。ここシュードアレシェリアの東側は大きな山々の連なる大陸に阻まれ、陽の昇る様子を目にすることは出来ない。その一方で西側は小さな島が一つあるだけなので、このように命の灯火が消えゆくような光景を、毎日でも見ることが出来る。


 エルマは、この少し寂しさの漂う瞬間すらも好み、しばしば足を止めて見つめていた。それ故に、ハンナにはよく帰りが遅い、と叱られていたのであった。決して、今日は特別遅かったという訳では無い。


「おっと、いけない!」


 ふと、ハンナの姿を思い浮かべたのか、我に返ったエルマは手にしていた桶をしっかりと握り直し、また歩みを進める。道中には家が二、三軒しかなく、万が一魔物や獣に襲われたとしても、助けを呼ぶことは出来ない。特に、夜間であればなおさらだ。早く仕事を終えねば、この件でまたハンナに叱られてしまうだろう。


 歩き続けて、ものの数分もかからぬうちに井戸へと辿り着いたエルマは、手にした桶を井戸の淵へ置き、慣れた手つきで釣瓶つるべを操作する。海が非常に近いため、ただ掘るだけでは海水しか出てこない。そのため、特殊な処理魔法を施した井戸からでしか、真水は採取できないのであった。


「よいしょ、っと。お水、このくらいでいいかな」


 ザバッと豪快に水を桶に移し、少し満足げに小さな水面へと顔を映す。ゆらめく水鏡の世界には、覗き込んだエルマの顔と一等星の光だけが映り込む。


「ちょっと多かったかも。まあ、少ないより良いよね」


 軽くそう呟くと、重くなった桶を両手で持ち上げきびすを返す。しかし、彼女が振り返った先には、いつの間にかその場に佇んでいた一人の大柄な人間の姿があった。


「うわわっ!」


 驚いたエルマは、滑り落としそうになった桶を慌てて持ち直し、パシャパシャと跳ねる飛沫を浴びつつ体勢を立て直す。不意に現れた目の前の人間は、エルマの様子を目にて申し訳なさそうに話しかける。


「ごめんなさいね、驚かせちゃって。大丈夫かしら?」

「え、あ、はい……大丈夫、です。でも、こんな時間にどうしたんですか? 

「あなたに用があってね。少し良いかしら?」

「私に?」


 戸惑い、数回瞬きをするエルマに柔らかく微笑みかけると、ゾフィーはやや強引にエルマから桶を奪い取る。


「驚かせたお詫びに、これは家まで持っていってあげる」

「そ、そんな……」

「気にしないで。それより、空に打ち上げられた救難信号……あれ、あなたの魔法?」

「え……!」


 ゾフィーの問いに、エルマの顔色はみるみるうちに白く染まってゆく。実際に魔物が現れたことでヴィルヘルムには何の疑問も抱かれなかったが、今日の午前中の出来事を良く知っているゾフィーならば、エルマの仕業だと疑って当然であった。


「あ、あの……!」


 誤魔化そうと必死に頭を回転させるエルマであったが、そんな彼女の様子にまたゾフィーは目を細める、優しく語り掛ける。


「大丈夫、フォウレリが出現したという話はヴィルヘルム先生から聞いているわ。大変だったわね」

「ヴィル先生から、ですか? いつの間に……」

「この村であの魔法の意味を知ってるのは、学校の先生とか私たち、あとはごく一部の人間くらいなの。だからその人たちに伝達魔法を使えば、何が起きたのか、どうなったのか。全部分かるって訳。実際に会って話すとなると、やっぱり手間だから」

「そうだったんですか……」


 納得し、空を見上げたエルマに向け、ゾフィーは話を続ける。


「それで、あれはあなたが使った魔法、なのよね?」

「あ、えっと……使ったのは、シャルです」

「シャルロッテ? あの子、あの魔法を知ってたの?」

「い、いえ。ちょうど午前中に起きたことの話をしてて、それで……」

「なるほど……さすが、マールブルグ一族の末裔ね。話を聞いただけで呪文を正しく発音し、正確に発動させるなんて。なかなか出来ることじゃないわ」

「……」


 その言葉を受け、エルマの脳内ではシャルロッテの悲しい顔が過ぎる。一族の血筋ばかりを褒められ、自身の努力が正しく評価されない彼女の苦痛を、エルマはよく知っているのだ。しかし反論したくとも、エルマには彼女の想いを言葉に出来ない。どれだけ共感しようとも、それはシャルロッテ本人が口にすべきことだから。


 複雑な表情を浮かべるエルマに、ゾフィーは真剣な眼差しを向け、強調するように声を大きくする。


「もちろん、あなたもですよ。エルマ・エドワードシエラ」

「え?」

「あなたも、誰かの声を聞いただけで呪文を唱えられたのでしょう? だったら、あなたもシャルロッテと同じで、特別な才能があると言えるわ。ただ、あなたの場合は魔法使いというより、もっと別の才でしょうけど」


 そう言うと、いつの間にか辿り着いていたエルマの家の前にある樽の上へと水桶を置き、ゾフィーはまっすぐに彼女の目を見つめる。


「興味があったら、で良いわ。もし、今の話をもっと聞きたければ、そうね……次の講義の後にでも、話してあげるわ。それと、これ」


 呆然とするエルマに、ゾフィーはおもむろにバッグから古びた本を取り出し、彼女へと差し出す。


「これは、渡しておくわ。どうせ私には扱えない代物だし、あなたが持っていた方が有益でしょうから」

「これ、本ですか?」

「ええ。古の魔女が書いたという、錬金術に関する本よ。古くて読めないページの方が多いけど、ただの読み物としても面白いから、ぜひ受け取って」

「は、はあ……」

「素直でよろしい。では、また学校で会いましょうね」


 そして、立ち尽くしたままのエルマに背を向け、ゾフィーは学校のある丘の方へと去っていった。残されたエルマは、手渡されたボロボロの本を眺め、ポツリと言葉を零す。


……」


 夜風に掻き消され、誰の元へも届かなかったその声は、エルマの頭の中だけに反響する。ただし、その音はやがて大きさを増し、彼女の心に好奇心という大きな爪痕を残すのであった。

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