1st recipe

エルマ・エドワードシエラ

 その出会いから遡ること、数日————


 晴れた日の朝、なだらかな斜面を登る一人の少女がいた。学生服に身を包み、背負った皮のリュックサックと同じくらいの色をした髪を揺らしながら、この丘の頂上にある学校へ目指し歩を進める。


 彼女の名は、エルマ・エドワードシエラ。ここ、ケルニッヒ州シュード・アレシェリア村に住む、小さな可愛らしい女の子である。ただ、自分の容貌ようぼうに自信がないのか、それとも身の内をさらけ出すのが苦手なのか……エルマはいつも、その綺麗な顔を長い前髪で隠している。


「ふぅ……」


 そんな彼女が、前髪をかき上げてでも見つめたい風景がここにあった。青い空、青い海、白い砂浜に、そびえる。これがエルマのいつも目にする、そして彼女が好む村の風景だった。


「今日も晴れ、か……気持ちいいなぁ」


 潮風に吹かれ、エルマはいつものように全身でそれを受け止めると、小さく呟く。誰もいない、未舗装の道路でここまで気にする必要は無いのに、それでも彼女は決して声を大きくしない。


 みゃあ、みゃあ、と鳴く海鳥の声に頬を緩ませつつ、エルマは自然に身を任せるように、そっと目を閉じる。潮風の独特な香りと温かな日差しに包まれる……これが彼女の至福のひと時であった。


 だが、そんな彼女のささやかな幸福を妨げるように、一人の女の子がエルマの背中へと飛びついた。


「おっはよー、エルマ!」

「ひゃああっ! ……な、なんだ、シャルじゃない。びっくりさせないでよ、もう……」


 エルマの驚き戸惑う様子を目の当たりにし、とても満足げに微笑む短い茶髪の少女。

 彼女はシャルロッテ・マールブルグ。エルマの数少ない同級生にして、その中でもごく僅かな友人と呼べる人物である。


「にひひ、ごめんごめん。今日もエルマが可愛いから、ついつい。……しかしだねぇ、独りぼっちは感心しないなぁ。エルマ一人じゃ、野盗に襲われたりしたら大変じゃない」

「こんな田舎、誰も襲ってこないよ……それに、シャルがいたところで太刀打ちできないでしょ?」

「まぁね。こーんな岩と塩と魚しかない村、誰が襲うかっての。あーあ、早く州都に行きたいなぁ」


 ツンと唇を尖らせ、シャルロッテは小高い丘の上から村全体を見渡す。エルマとは違い、彼女にとってこの村は刺激のない退屈なもの、であるらしい。


 そんな彼女に向け、エルマは少し苦笑を浮かべつつ語り掛ける。


「昨日からそればっかりだね、シャルったら」

「しょうがないでしょ、州都から新しい先生が来たんだもの。色んな話を聞けて、もうずっとドキドキしっぱなしだったわ。私はこんな村、早く出たくて仕方がないの。魚クサいわ、日差しは強いわ、海風で髪はいつもベタベタだわ……もう最悪」

「そう? とっても気持ちがいいじゃない」

「そんな風に感じられるの、エルマくらいよ。さてと、早く学校に行かなくちゃ。また遅れたりしたら大変だもの」

「あ、そうだね。急ごう」


 二人は顔を見合わせ、坂を一気に駆け上がってゆく。お世辞にも大きいとは言えない、木造の古びた建物を目指して。


 坂を駆け上がった彼女たちを待っていたのは、大柄で筋肉質の、少し頭部が寂しい男性であった。男性は息を切らせて来た二人に向け、鋭い言葉を言い放つ。


「遅刻ギリギリだぞ、エルマ! それにシャルロッテも!」

「す、すみません、ヴィル先生」


 息を整える間もなく、二人は腕組みをする彼に向けて頭を下げる。

 彼の名は、ヴィルヘルム・ハンタヴィラス。この学校の教師であり、筋骨隆々にも拘わらず生物学を担当している。


 ヴィルヘルムは、謝罪する二人を見下ろし小さく溜息を吐くと、彼女たちに背を向け校舎に向けて歩み出す。


「ま、今日は間に合ったから許すけどな。ほら、早く中へ入れ」

「はーい……」


 つい先ほどまで笑顔だった二人はすっかり元気を失い、大人しくヴィルヘルムの後へ続く。みゃあ、みゃあと、どこか遠くで鳴く海鳥は、どこか彼女たちを笑っているようであった。


 エルマたちの通う学校は、シュード・アレシェリア村では最も標高の高い場所に存在している。高波などの影響を受けないよう充分に配慮された設計だったが、肝心の生徒たちからの評判は悪い。毎日山登りさせられるのだから、たまったものではないのだ。


 そういう地形的な理由もあり、遅刻する生徒は数多い。エルマやシャルロッテも例外ではなく、特にエルマは遅刻の常習犯でもあった。


 ただし、エルマの住む家はこの学校のすぐ傍であり、早起きしてまっすぐに向かえば、まず遅刻することなど有り得ない。だからこそ、彼女が遅れてくるたびに教師たちは頭を悩ませるのであった。彼女たちを先導するヴィルヘルムも、その中の一人である。


「シャルロッテは家が遠いし、家の都合もあるだろうから分かるんだが……なあ、エルマ。お前はどうしてこう、いつも時間ギリギリなんだ?」


 木造校舎の床板を踏み鳴らし、ヴィルヘルムはエルマへと問いただす。


「体育の成績は悪いし、体力不足なんだろうとは思う。まあ、お前の場合は体育だけじゃないけどな。しかし、ならばもっと早く起きればいいだけの話だろう?」

「え、えっと……」


 エルマは視線を床に落とし、口をもごもごと動かすだけで答えようとしない。そんな彼女の様子を横目に、シャルロッテはヴィルヘルムの質問を遮るように口を開く。


「女の子には色々とあるんです! 友達と会うだけでも、私なら準備に一時間はかけちゃいますもん。特にエルマは私と違って長い綺麗な髪なので、その手入れだけでもすっごく時間がかかるんです! その必要ない先生とは違うんですよ!」

「ちょ、お前っ! 人が気にしてることを!」

「ふーんだ。行こう、エルマ」

「え、う、うん」


 ショックを受け呆然とたたずむヴィルヘルムを置き去りにし、二人は一限目の教室へと駆け込んでいった。古い木の扉をピシャリと閉め、不機嫌そうに頬を掻くシャルロッテへ、エルマはおずおずと話しかける。


「あの、シャル? わたし、そんな……」

「分かってるって。、なんでしょ?」

「え、な、なんで知ってるの? わたし、喋ったことあったっけ?」

「ううん。でも、何となく分かるんだ。友達だからね」


 そう言って微笑み、シャルロッテは席へと着く。彼女の言葉に驚き戸惑いながら、エルマもゆっくりと彼女の隣へと腰かけた。


 エルマが遅刻する最大の原因。それはシャルロッテの話通り、この村に存在する二つの高い塔を見に行っているから、である。


 村の中心部から少し外れた位置にある、天をくほどの双子の塔。大昔に建立されたというこの不思議な塔は、少しずつ老朽化はしているものの未だに崩れる気配はない。高波に晒されようとも、人が飛ぶような強風を受けようとも、まるでびくともしない。


 村の人々はこの塔を『』と名付け、シュード・アレシェリア村のシンボルとして厳重に管理していた。大嵐でも倒れず、遠くからでもはっきりと見えるほど高くそびえるミレリーは、漁業を中心とするこの村にとって非常に大切な存在なのである。


 このミレリーを見に、エルマは毎日通っていたのである。だからこそ、彼女はいつも時間ギリギリ、もしくは遅刻をしてしまうのだった。朝の日差しを受け、荘厳そうごんに輝く双子の塔。それを近くで見るのが彼女の日課であり、最も好きな時間でもあった。


 実は、そんなエルマの姿をシャルロッテは目撃したことがあったのだ。だからこそ、彼女はエルマが遅刻してしまう原因を知っていた、という訳なのである。


 このミレリーについては、未だ多くの謎に包まれている。なぜこのような辺境の地に造られたのか、そしてその意図とは何か。それを解き明かすため、時折州都から学者が派遣されるのだが、そのついでに彼らはこの学校で授業を受け持つこととなっていた。


 一限目、『』の講師である、ゾフィー・メガロサイトもこのうちの一人である。

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