【余談】花菜咲く思い出

「なんじゃ、こんなところで泣きよって。辛気臭いのう」


 一面の黄色と緑。吹く風すら清浄しい菜の花の楽園で。

 小さな人の子が蹲り泣いていた。


 天弧てんこはその児の頭を乱暴に撫で、尊大な態で傍らに佇む。

し。早よう泣き止め。そんな顔をしてはこの景観も霞むと言うもの。ここはわしのお気に入りの場所でな。今この時、わが為に咲く花どもを共に愛でさせてやろうぞ」

 子供は顔を上げて天弧を見る。人ならざるその妖艶さに、見惚れた柔らかい頬に朱がさした。それを見た天弧は笑みを深め、また児の髪を掻き混ぜる。

 児の頬を滑る涙は、灯った頬の熱に蒸発し温かな春の陽に融けた。


「珍しい児じゃな。常世とこよの外れまで平然と迷い込みよる。幾度と繰り返しておるな?げに大きな力じゃ。その背を丸めるでない。ぬしの力の無駄遣いではないか」

 天弧はご機嫌にいくつもの尻尾を揺らす。陽光の中でその毛の一本一本が銀糸のように輝いて透明な光を反射させた。

「して、ぬしの名は?」

 尋ねた天弧を陶然と見つめたまま、児は小さな勇気を奮い立たせて声を張り上げた。

きよ!」



 人の世は移ろう。

 天山で生まれ育ち、人の世を知ったのは幾千年も前。

 それからどれくらいの時が経過したのか。人の世に精通していないアコには分からない。

 天弧は神にも近い奇跡の力を持つ。昔はそれを崇められまつられていた。

 しかし人間は知恵を得て独自の文化を栄えさせ、人の世を築いた。

 人知を超えるものは、神であり怪異。

 人に富をもたらすのかわざわいを為すのか。それだけで区別される。

 天弧はそのどちらも併せ持つ。そもそも神格を得た自然とはそういうものだ。


 児は立派な祈祷師として育ち、その名を響かせた。

 そして、アコを祓う為に立ちはだかった。



かなし子よ。泣くな。人の世は移ろう。わしも長く生きすぎた。そろそろしまえても良い頃じゃ」

 満開の桜の花びらが視界を柔らかに染める。

 春は出会いと別れの季節となったか。

 アコは笑う。


「人の子は、人の子の世界に生きねばなるまい。ならばわしという物の怪を祓うのはぬしの道理。わしはな、ぬしに祓われてやろう」

 天弧よりもずっと背の伸びた青年の頭を、幼い頃と変わらずに乱暴に撫でて。

「浄、わしはぬしを愛した。ぬしは妖しのものを愛してはならぬ。それが人の世の道理」

 止めどない涙にくれた青年に美しい笑みを向ける。


 青年は天弧を抱きしめる。揺れる衣からは瑞々しい花の香り。

 美しい、美しい、神に近いあやかし

「ぬしがわしを求めようと、この現世うつしよではならぬ。かといって常世に連れるにはそのみたまは若く脆い」

 天弧は青年の背をあやして、歌うように連ねる。

「わしはいつか人の世に交ろう。その時はただ人としてぬしを愛そうぞ」



春の日に天弧は滅す。

愛する者の手によって。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る