晴れと常世

ちえ。

春の日に

「どうしたんだ?」

 学校の中庭。ほうきを片手に菜の花の葉っぱに話しかけている学ラン姿。

 その視線は空を漂って、時に頷き、時に意味の分からない言葉を放つ。

 彼の奇妙な行いはもう周知の事実。

 その様子を見ている学友たちは、少し眉を潜めただけでそそくさと掃除の続きへと戻って行った。

 私はその姿を見て小さく苦笑した。


 本当に要領が悪いなぁ。


 彼は、花盛かもり 快晴かいせい。私、中村なかむら 茜璃あかりと同じ中学一年生で同じクラス。

 私たちは同じ小学校だったから、ずっと前から彼を知っている。

 彼は昔からいつも同じで。初めて会った人には怖がられたり笑われたり。

 それを気にしないのもまた彼で。

 風変り。変人。妄想癖だなんて言われたりもしてるけど。

 それは、普通は彼が見ている世界が見えないからに他ならない。


 ほうきを片胸に抱えて、菜の花に差し出した指先には淡く白い光が灯って。

 力なく明滅する小さな光にその力を分け与えている。


 彼の家は浄威きよい神社という古くて小さな神社で、時々神通力を持つ者が生まれるらしい。

 だけど、長い歴史の中で由来もその存在の理由も忘れてしまった古い神社では、その力の扱い方もまた遠く過去に置いてきてしまっている。

 彼の行いは独学で、本質だけでこうやって、この世のものではない者たちと通じている。

 彼は、自分のしている事を語らない。語っても理解されない事を知っているから。

 彼の事情がわかるのは、きっと見えている私だけだろう。

 聡明で優しいのに、ひどく不器用な人間なのだ。花盛快晴という男は。


 彼に見つからないように、そっと渡り廊下から校舎の影へと移動する。

 菜の花のほうとは少し目が合ったかもしれない。

 私は彼ほど不器用な人間ではないから。今も何食わぬ顔をして『普通』の人間でいる。



 満開の桜の下。吹き抜ける風に踊る淡い紅色の花びら。

 もの悲しいくらいに綺麗な学校の前の並木道。


 悲愴に鳴く声につられて、思わず脇道へと足が向いた。

 住宅地へと抜ける細い道は、ほんの一握りの人にだけ便利な道で人通りは少ない。

 遠く風に乗って揺れる花びらに誘導され、鳴き声の方へ引き寄せられるように進んでいく。

 古いアスファルトの両脇に生命力に溢れた草花が佇み、所々で小さな光が響く鳴き声に心配そうに漂っている。

「ありがとう」

 ごく小さい声で伝えると、ほのかな光は身体を揺すった。



 辿り着いた道の片隅には、小さな細長い狐の姿。

 私は膝をついてその狐を拾い上げた。

 今にでも消滅しそうな姿で細い声をあげているのは、いわゆる管狐というものだった。

 銀色の毛並みはもう半ばまで透き通っていて、その中に真っ黒なものが覗いている。

「ぬしに忘れられてしまったのね」

 かわいそうに、と一撫ですると、狐は僅かに耳を揺らした。

「おいで」

 薄れていた毛並みが線を描き直すように輝いて、輪郭を取り戻していく。


 使い魔は主従を結んだまま主に忘れられると摩耗してゆく。どこからもエネルギーを得られないからだ。

 そうやって、昔は多く人と共存していた人ならざるものたちも今は少なくなった。管狐なんかは家に憑くと言われているから、恐らく主となり得る人をなくして長くの時間が経過したのだろう。


「キャーン…」

 青みを帯びた銀の毛並みが光を帯びて、狐はぴょんと立ち上がる。

 それから、猫のような犬のような声をあげながら私の周りで空中をくるくると回った。


「すっげぇ」


 呆然とした声に振り返る。

 ざあっと強い風が吹いて、遠く離れているはずの桜から花びらが漂ってきた。

 そこには、今までろくろく会話もしてこなかった、花盛くんの姿。


「中村は、見えてるんだ?」

 彼に見つかってしまった。今まで平然と見えないふりをしてきたというのに。

 私は苦い気持ちを表情に浮かべて曖昧に笑った。バレてしまったからには仕方ない。

「うん、見えてるよ。ずっとね」

 ずっと陰からあなたを見てきた、なんて事は言えない。




 それから、花盛くんは私に懐くようになった。

「本当は、皆が見えてないだけなのか、俺が見えてるのがおかしいのかわかんなかったんだ」

 照れくさそうに語る彼の表情には、安堵が満ちている。

 誰にも教わらない。誰にも指摘されない。そんな中でただ、『普通』の人が見えない世界が見えて、理解できて、触れられる。

 きっと不安だったんだろう。


 私の周囲に纏わりつく管狐を指先で追いながら、心の内を明かしてくれる彼はとても可愛い。


「中村はなんであんなことできんの?」

 私が管狐に力を与えていた事を思い出したようで、顔だけこちらに向けて尋ねる。

 これは非常に答えにくい質問だ。

「さあ、なんとなく?なぜかわからないけど、使い魔は契約によって力を得るってわかったから、新たな主従契約をした感じかな」

 返した言葉はおおむね嘘ではない。

 この管狐はもう私の眷属だ。

「そっかぁ。よくわかんねーことばっかだよなー」

 彼は真っ直ぐな顔で私に笑いかける。春の陽差しよりも眩しい笑顔だった。



 週末。

 彼と一緒に出掛ける約束をした。出掛ける場所は秘密らしい。

 花盛くんは学校では気をつかったように話しかけてこない。変人扱いされている自分と一緒にいると目立ってしまうと、眉尻を下げて話す。

 その代わりと、下校の時と休日はよくお誘いがかかった。


 いつもの待ち合わせと違い、今日は彼の家…古い神社の裏側に住居があるらしいから、その入口の前で落ち合う予定だった。

 少し早く家を出た私には時間が余り、神社の中を歩いてみようと思い立って足を踏み入れる。


 数歩、石畳を歩く。小道には花吹雪。狭いながらも鮮やかな並木道。

 一際大きな桜を見上げると、ざあっと強い風に煽られて、視界に空に浮かぶ女性が現れた。


「若様に何用だ」

 暗く冷たい声音が、光を落とした灰色の空から降り注ぐ。

「ここはお前のごとき妖しの者が来る場所ではない。早々に立ち去れ」

 桜の花びらのように、白にほんのりと朱の射した着物姿の美女が凄んで、花びらを舞い上げた。

 風を切るような、超常的な暴風。

 私は強く目を閉じたが、その風は私には届かない。


さくら風情ふぜいが、全く身の程をしらぬものよ」

 私の肩口から凛とした声音が響く。銀色の毛並みとたわわな尻尾が目の端でふさりと揺れた。

「アコ、喧嘩売らないで」

 肩の上に浮かんだ狐の耳と尻尾を生やした小さな女性へと、私は疲れた思いで声をかけた。


 彼女、アコは尊大な態度で私を振り返る。

「喧嘩など売ってはおらぬ。わしは身の程を知れと忠告してやったのじゃ。かような若造に劣るようなぬしと思っておらぬからの」

 美しい顔を妖艶に笑ませてアコは桜に向き直った。

「桜よ。わしは貴様が生まれるよりもずっと昔に、きよと約束したのじゃ。貴様が若様と慕おうと、浄は既にわしのものと決まっておる」


 どう見ても喧嘩を売っている図に、私は額を覆って溜息をついた。桜の顔色は、薄紅から真紅へと変わりつつある。ここで揉めたり問題を起こしたりするのは言語道断。なにしろ約束の時間はもうすぐだ。


「アコ、花盛くんに聞かれたら面倒よ。ごめんなさい、桜の精よ。あなたの主に害意はないの」

 私は桜に向かって簡単に礼を示す。練り上げた生命力に、ほんの少し植物の好む色を乗せて。その香りに気づいて、桜の顔色は薄紅に戻った。

 人ならざるものたちは悪意に染まりやすいのだ。純粋であるが故に。

「アコの存在は許してくれるとありがたいわ。これでも私の一部なのだから。早く混じりあってくれればいいんだけど」

 苦笑を浮かべてアコを見つめると、アコはマイペースに胸を張って桜に指を突き立てた。

「そうじゃ。わしはもう妖しの者ではない。こうやって人の子に生まれ変わったんじゃからな」



 桜の花が舞い散る美しい小道。

「待たせたかな。ゴメン」

 私を見つけて駆けてきた花盛くんに、心底早くこられなくて良かったと安堵しつつ笑いかける。

「いい桜だね」

 桜の精に視線を向けると彼女はふいと顔を逸らした。敵意はあるがもう害意はないみたいだ。

「桜もだけど。向こうにさ、絶景の場所があるんだ」

 弾むように彼が急ぎ向かう。その背を追いかけると、界を渡っているのに気がついた。

 彼はきっと気づいていないのだろう。



 一面の菜の花畑。

 アコと前世の彼が出会った花畑を見渡しながら、私は胸に宿る懐かしさに胸を震わせた。

 アコと分離している私が持ちえない、記憶の中と同じ顔で彼は笑っていた。

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