第14話 分かってるのに


 まあ、こんなとこでモヤモヤしてたって仕方ない。

 

 俺は雑念を掻き消すように頭をわしゃわしゃとやりガバっと立ち上がると、空のコーヒーカップをひょいと手に取る。


 台所には思いのほか、洗い物が溜まっていた。

 ほとんど自炊もしねぇくせに、自分の無精ぶしょうさにはとくと呆れるばかりだ。


 と、食器洗いを始めふと宙を見つめる。


 そういえばあいつ……明日はどうするつもりなんだろ。

 さすがに帰るとは思うが、でも帰ったとてあいつの悩みが解決するわけでもなくて。


 まあだからといって、ここにいろなんて言えるわけもねぇんだけど……。


 そんなことを考えていると、水場の音に掻き消されながらも一瞬悲鳴のような声が聞こえたような気がして? 俺は蛇口の水を止める。


 気のせいか? 

 そう思いつつ洗剤まみれの手をさっと水で流すと急ぎ洗面所へと向かった。


 さすがにさっきの今で出てくるには早過ぎるはず。なのに中ではなにやらドタバタと慌ただしく動いているような音が聞こえている。


 気になった俺は洗面所のドアに横顔を張り付け声を掛けようとした、のだが……なぜかその瞬間開き戸が引かれ!? 気付いたら前のめりに洗面所へ突入してしまっていた。


 直後、俺はブッと吹き出すことになる。


 なぜならそこには……バスタオル一枚に包まれた野上が立っていたからだ。

 しかもそのタオルの幅がやけに狭いため、露出率が異常に高いおまけ付きで。


 俺が中学ん時なら絶対鼻血が吹き出てたと思う。いやマジで。


「わりぃっ!」


 言うや急ぎドアを閉め出て行こうとする俺。なのになぜか野上に腕をガシッと掴まれてしまい後ろ側によろりとよろける。


「待って生田君っ。出たのっ!」


 なにやら必死に訴えかけてくる野上の顔には明らかに悲壮感が漂っており、どうやらただごとではなさそうなのだが……。

 俺にとっては今のお前の恰好のほうがただごとじゃないんだと強く言いたい。


「な、なにが出たんだよ」


「ゴキ、ゴキブリが出たのっ……。扉、閉めてあるからまだ中にいると思うんだけど……」


 よほど苦手なのだろう、両腕を巻き付けぶるるっと身震いをする野上。


「分かった。ちょっと待ってろ」


 言うや、俺は居間で虫取り網を手に取り早足で洗面所へ戻ると、素早く浴室へ侵入する。

 幸いはまだタイル壁の高い位置にピタリと貼りつきひっそりと息を潜めていた。


 そしてドアを閉めた退路を断った俺は慎重に……。

 タイミングを図りつつ虫取り網をファサッと被せる。すると奴は網の中でカサカサと忙しなく動き始め逃げよう逃げようと網の奥深くへ進んでいった。それこそが俺の術中だとも知らずに。


 本来ならここで殺虫剤の出番だがさすがに今は使えまい。そう思い、俺は逃げ道を完全に塞ぐため網の口元をきゅっと手で絞ると、ガラと風呂場の小窓を開けて手早く外へと放り出す。

 

 どうせまたすぐ会うんだろうけど、今日だけはもう来んなよ。

 そう心のなかで呟きながら。


 浴室を出て成功した旨を伝えると、野上は心からほっとしたかのように、へにゃと顔を綻ばせた。


「ごめんね。わたし、ゴキブリがほんとに苦手で……」


「まあ、逆に得意って言われてもな。とりあえずもう大丈夫だから、シャワーの続きどうぞ」


「うん……、ありがとう」


 時間と共に水分を吸い込んだのだろう、体にぴたりと張り付くバスタオルが目に毒だ。 

 そんななか、視線を彷徨わせる俺を横目にゆっくりと浴室へ歩を進める野上。


 しかしその時だ。

 床が少し濡れていたのだろう、彼女は片足をつるっと滑らせてしまった。

 同時に「きゃっ」と小さな声が漏れる。


「大丈夫かっ」

 

 言うより先に体が動いていた。

 俺は咄嗟に膝を折ると、野上の背中から腕を回しガバっと抱き支える。


 両手にしっかりと収まる彼女の体は想像以上に柔らかくて、想像以上に華奢で、想像以上に軽かった。


 そして、想像以上に顔が近くて……。


 互いの視線が交わるなか、だけど野上はあの時みたいに目を瞑ることはなくて。ただその大きな瞳を揺らしながら俺を見つめている。


 そんな彼女を見て俺は……。

 

 ダメだって分かってるのに……。


 なのに、


「悪いっっ」


 やっぱダメだ!

 ぐっと目を瞑り抱き起こすと、俺は野上からゆっくりと手を離し半歩後ろへ下がる。

 

「どうして……謝るの?」

 

 野上の瞳は相変わらず揺れていて。

 俺のごめんをどう受け取ったのかも分からなければ、野上の言葉の意味も分からなかった。


 だけど、その声音に、もしかしたら……、もしかしたら野上もキスをしたかったんじゃないかと一瞬だけ思ってしまう自分がいて。


 直後、野上は俺からふっと視線を外し俯きがちにパタンとドアを閉めた。


 一方の俺は閉じられたドアの前で。

 手にはまだ野上の柔らかな感触が残っていて、そして、心臓もまだとくとくと音を立てていて。 


 ただ……、しなくて良かったと。心からそう思っていた。


 だってもししてたら、多分止まらなかったと思うから。

 今だって頭の中はそれ以上の想像で溢れかえってる。


 ああくそっ。


 俺は気持ちを切り替えようと首をぶんぶんと振り、両手で頬をパンと弾いた。



    *



「お風呂、ありがとう。すごく気持ちよかった」


 風呂あがりの野上は当たり前だが服を着ており、可愛らしくモコモコしたフード付きの白いパジャマ姿だった。


 俺がほいと水の入ったグラスを手渡すと、野上は笑顔で受け取りひと口だけクピッと喉を鳴らす。

 その姿からはもうさっきのぎこちなさは感じられなかった。


 壁掛けの時計をちらと見る。

 なんだかんだでもう日が変わろうかという時間だ。


 明日は俺も朝が早いし、そろそろ寝ないとだな。


 そう思いこっちのタイミングで悪いが、俺が普段寝ている二階の寝室へと彼女を案内することにする。




「ここで寝ていいから」


 客用の布団を1セット敷きながら声を掛けると、野上は丁寧に腰を折った。


「ほんとに……ありがとう。なにからなにまでごめんね」


「別になんもしてねぇし。気にすんなよ」


 きっと今日複雑な気持ちで家を出てきたでろう彼女にとって、少しくらいは力になれたのだろうか。


 そんなことを考えふすまを閉めようとすると、野上が「あっ」と小さな声で呼び止めてくる。


「なんだよ。何か心配ごとでもあんのか?」


「そうじゃないけど……。生田君はどこで寝るのかなと思って」


 野上は俯いてて、その表情はよく見えない。


 深く考える必要はねぇだろ。

 きっとその質問はただの質問であって、他意はない。

 そう分かってるのに勝手に間違った解釈をしそうになる自分がいた。


「下だよ。もういいから、疲れただろうしゆっくり休めよ」


 きっとその時の俺は自分でもよく分からない表情をしてたと思う。


 だからそんな顔を見られたくなくて、俺は野上から背を向けたままふすまをゆっくりと閉めた。








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