第3話 まさかね

 

 何秒くらいそうしていたんだろう。

 いや、実際の時間に直せばほんの一瞬だったのかもしれない。


 感触を確認するように柔らかな弾力からそっと唇を離すと、また小さな顔が視界に入ってくる。


 野上の大きな瞳は俺に定まっているようでもあるが、同時に状況が理解できず放心しているようにも映った。


 そして無言のまま数秒間視線を合わせていると、野上がはっと表情を戻す。


「あ、あのっ。君、いつまでこう……してるのよ」


 最初の勢いはどこへやらだ。最後のほうは尻つぼみになりふいと顔を逸らす野上。


「え? あ、あぁっ、だよなっ。わるい」


 未だ状況が整理できぬものの、とり急ぎばっと体を離すと、傍らであぐらをかくことにする。

 すると、追いかけるように野上もすくっと上体を起こし、スカートの裾を手早く伸ばしつつ斜め座りで俺の方へ向き直した。


 色々とっ散らかっちまってるし、一旦話し合い、だな。


    *


「マジで!? じゃ、じゃあ、飛び降りようとしてなかったって……こと?」


 自分の中ではまあまあの確信があっただけに、只々目をぱちくりとさせるばかりである。


 でも本人がそう言ってるんだからそれ以上でもそれ以下でも無いわけで。でも、へーまさか勘違いだった……とはねぇ……。


「逆に生田君はどうして飛び降りるだなんて思ったのよ。わたしはただ風が気持良さそうだなって……それだけで」


「いや……でもよっ、そもそもここは立ち入り禁止だし。それに、もし足を滑らせたりでもしたらヤバいってことくらい誰にだって分かんだろ?」


 俺がフェンス外に向けクイと顎をやると野上も同じ方へ視線を移す。


「確かに……危ない、よね。そっか、ごめん。勘違いされてもおかしくない、かも」


 どうやら理解してくれたらしく、彼女は申し訳なさそうにこうべを垂れた。同時に仄かに茶色がかった長い髪が肩越しにするりと滑り落ちる。


「でも、どうして」


 と、そこで何かを思い出したかのように俺に顔を向けた。


「なんだよ急に。なんか付いてる?」


「そ、そうじゃなくて。君、生田君だよね? 同じクラスの」


 そう言うとまじまじと俺を見つめ直す。


「え? あ、ああ、そうだよ。お前は野上だよな? って、今まで散々名前呼んどいてなんだけどさ」


「うん……。でも、よくよく考えてみるとこうやって面と向かって話すの、初めてだよね」


「ああ。そうだな……」


 この異様な空気感のなか、今更自己紹介も無いだろうに。


 お互いそう思っているからだろう、次の言葉を紡げずにいると、野上が意を決したかのようにうんと一つ頷きを挟み、先程言いかかけたであろう続きを話し始める。


「生田君。どうしてわたしのこと、助けようとしてくれたの? それに……」


 そこまで言うと、後は想像しろとばかりに俯き加減にちらと視線だけを放り投げてくる野上。つまり次はこっちのターンってわけだろう。


 でも、なんでって言われてもなぁ。

 俺も不鮮明ながら先程の記憶を辿り一連の流れを脳内で再生してみることにする。


 「あのさ、気を悪くしないでくれよ」そう前置きを挟み俺は続ける。


「正直言うとあの告白はお前を元気づけたかった一心で咄嗟に出ちまっただけなんだ。あと、助けたのは別に理由なんかなくて。ほら、目の前で困ってる人がいたら普通助けるだろ? それと同じだよ」


「そっか……やっぱりそうだよね。今までほとんど話したこともないし逆にホッとしたとこある。でも、じゃあ……だったら、だったらあれは?」 


 あれ……つまりキスのことか。


「あ、あれは……なんだろ、俺にも分かんねぇよ。なんか……そんな雰囲気だったし」


「だったし?」


 また真意を見極めるかのような視線を向けてくる野上。

 そんななか悪いが、今の彼女からさっきみたいに悲壮めいたものが一切感じられないことに安堵している自分がいた。


「だったしはだったしだよ。でも、だよな、悪かった。嫌がってたんならマジで謝る。ただ野上が目を瞑ったし合意かなって思ったんだ。それだけは分かってくれよ」


「目って、そんなわけないでしょっ。でも……そっか、うん……分かった」


 何を分かったのか分かんねぇが、嫌だったのなら申し訳無さが勝つというもの。

 ひたすら謝れば許してくれそうではあるものの、このまま済ませるのもどうなんだろう……。


「普通はやっぱ、警察……だよな」


「べ、別にそこまでは思ってないよっ。だって勘違いとはいえ、生田君はわたしを助けてくれようとしたわけだもの……」


 だけど……このままじゃ気が収まらないってわけか。


「だったら……そうだな。俺がなにか一つ野上のお願いを聞くってのはどうだ? あんま無茶なのは勘弁して欲しいけど」


「お願いって……生田君が聞いてくれるの? わたしのお願いを?」


「そうだよ、それ以外何があんだよ」


 と、その時予鈴が鳴り、ちょうど頃合いかと思いすくと立ち上がる。


 ベストかどうかはともかく謝罪も案も出したは出したわけだし、一旦この場は解散でも問題ないだろ。


「ま、とりあえず戻ろうぜ。今のはまたゆっくりでいいし考えといてくれよ」


 どうやらこいつはかなりいい奴っぽいし、もしかしたら「もう何もなくていいよ」とか言ってくれるかも? などと少し期待しつつ返答を待っていると、


「分かった。じゃあまた明日のお昼休みにここで集合ってことでいいかな?」


 思いの外はっきりそう言うと野上は陽の光を浴び、より琥珀がかった瞳を真っすぐに俺へと向けた。


 もしかしてこいつ、意外としたたかな奴だったりして……。


    *


 翌日、俺は重たい脚を引きずり、屋上へ到着する。

 と、いうのも万一野上に限ってあり得ない、そう思いつつも、一晩明けて冷静になった彼女に「やっぱり警察に行くことにしたの」なんて言われやしないかと内心ヒヤヒヤしていたからだ。


 対する野上は先に着いていたようで、表情を見れば分かる。


「おそぉーい!」


 と、両手をか細い腰にやり少々ご立腹の様子で頬を膨らませている。


「違うって、野上が早過ぎんだよ」


「嘘。だって生田君ってば、植草君たちとなかなか話し終えようとしてなかったもの」


「しっかり見てんじゃねぇかよ! だったら声掛けてくれれば良かったろ」


「それは……すごく楽しそうにしてたし悪いかなぁと思って」


 ほんと調子の狂う奴だなぁ。

 そう内心嘆息しつつも、どうやら昨日よりはかなり前向きな感じだし、少し付き合ってやったほうがいいのかもな。などと思案する。


 昨日冷静になってもう一度考えてみたが、やっぱあの時の野上は普通に見えなかったから。


「で? 考えてきてくれたのか」


 俺の問いかけに対し、野上はこくりと頷く。


「考えてはみたんだけどね。どうしても一つのお願いっていうのが思いつかなくて……」


「そっか。だったらもう何もなしでいいってことか?」


「違うの、そうじゃなくてね。ほら、一つはって言ったでしょ? だから、その……」


 言いにくそうに口籠る野上。


「なんだよ、大丈夫だからはっきり言えよ。ある程度覚悟は出来てんだからさ」


 なんにしたって警察に突き出されるよりかはマシに決まってるからな。


「分かった、だったら言うよ。えとね、生田君が1日1回まで、その、わたしのお願いを聞いてくれるっていうのは……どうかなぁ、なんて」


「は?」


「違うのっ、そんな無茶なことは言わないから安心して。ほら、ちょっと放課後寄りたい場所に付き合ってもらうとか、あと、ノート見せて、とか? 今思いつくのはそういうのだし、それに生田君の都合が悪い時とかは全然断ってくれていいの」


 いや、簡単に断れるならお詫びになんねぇだろ。

 っていうか、そもそもそんなことなら普通に言ってくればいいことじゃねぇか?


 とはいえ……、1日1回ってのが解せないとこではあるものの、どうやら真剣に考えた結果みたいだしなぁ。


「ちなみに期間はいつまでだよ」


「それは生田君が提案してくれたことでしょ? 生田君の気が済むまでっていうのが普通じゃないかな」


「まあ、言われてみれば確かにそうか」


 実は一晩寝て既に申し訳無さが半減してる、なんて言ったら流石のこいつでも怒るんだろうな。

 どんな風に怒るのか興味深いところではあるが今はやめておこう。


「分かった、その案でいいよ。その代わりあとでやっぱ変更、とかは無しな」


「分かった。でも良かったぁ、実は断られるんじゃないかって思ってたんだ」


 そう言うと、嬉しそうに頬を緩める野上。


 ほんとこいつは……。


 いったいどっちが謝る立場なんだか……。

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