第37話 巨狼メガロ・リーコス

 分厚い唸り声が一帯を震わせる。粘り気のある唾液が、大きく裂けた口から垂れ落ちた。


「案ずることはありません。あの程度の魔物、メローネなら朝飯前です」


 確信に満ちた声は信頼の証だろう。獰猛を形にしたような巨躯を前にして、リーベルデは眉一つ動かさない。


「それより周囲の警戒を。一体だけなら問題ありませんが、囲まれると厄介です」


 その通りだ。この場所に潜む魔物がメガロ・リーコス一体だけとは限らない。

 俺は剣を抜き、神経を研ぎ澄ませる。今のところ魔物の気配はないようだが、油断は禁物だ。俺は周囲に気を配りつつ、メガロ・リーコスからも意識を離さないよう心がける。何かの拍子にこちらに向かってきた時、リーベルデを守らなければならないからだ。


「始めるわ」


 短い言葉を合図に、メローネの背後に七振りの剣が浮かび上がった。青白い光で形成された魔力の刃が、背中から生える一対の翼のように並び立つ。

 先手は敵だった。大きな体からは想像もつかない俊敏さで、メローネの側背に回り込む。木々の間を縫うように接近したメガロ・リーコスは、振りかぶった爪撃を猛然と繰り出した。


「のろまね」


 常人なら回避して然るべきところを、メローネはハルバードの一振りをもって迎え撃つ。長大なハルバードの先端が消えるほどの速度。甲高い風切り音が空を薙ぎ、メガロ・リーコスの右前足を斬り飛ばした。

 強靭な肉と骨を両断する威力は見事と言う他ない。

 主を失った前足は、地面にぶつかる前に瘴気となって霧散した。

 魔物にも痛覚はある。さぞ痛かろう。暴れ回る巨狼の咆哮が、びりびりと大気を震わせる。

 栗色の髪をなびかせるメローネは、にっこりと微笑を浮かべていた。


「生まれたばかりで悪いけど、邪魔者には消えてもらわないと」


 ハルバードをくるくると回転させる。重量を感じさせない技量はさすが神聖騎士といったところか。石突を靴底で受け止めると、今度は水平に武器を構えた。


「はっ」


 短い呼吸音の後、彼女が立っていた地点で土煙が爆発した。踏み込みの圧力が地面を砕いたのだ。舞い上がる砂塵よりも速く、メローネはメガロ・リーコスに肉薄する。ハルバードの穂先が、巨大な頭部に突き立った。

 だが浅い。穂先は分厚い頭蓋を貫くには至っていない。


「ごめんなさいね」


 ハルバードに魔力の輝きが収束する。

 次の瞬間。メガロ・リーコスの頭部が弾け飛んだ。

 周囲に肉片が撒き散らされる。眼球、舌、牙や頭蓋骨の破片、そして脳。それらは辺りの草木や土にへばりつく。

 メガロ・リーコスの胴体が力なく崩れ落ちた。先程まで首がくっついていた部分から、魔物の血とも言える瘴気が濛々と立ち上っている。


「ふぅ」


 メローネは一息を吐く。


「調子は上々、かしら?」


 彼女の身体に付着した巨狼の残骸は、瘴気と化して虚空へと溶けていく。


「すごいな……」


 思わず感嘆の声が漏れた。楽に処理してしまったが、普通はあんな簡単に倒せる魔物じゃない。

 どうやら俺は、聖女付きの騎士の凄まじさを目の当たりにしてしまったようだ。


 メガロ・リーコスの機敏な動きから放たれた攻撃に、正確にカウンターを入れる技量と胆力は、潜ってきた修羅場の数を物語っている。加えて、一振りで脚を切り落とす神業を難なくやってのける技量は並みではない。最後に見せた一撃は、彼女が魔法にも精通していることの証左だろう。

 単純に計算して、メローネの戦力は一個騎士団にも匹敵するということになる。たった一人で数十人の軍団に相当する強さが、戦士として如何に秀でているか、改めて考えるまでもない。


 ひとまず、脅威は去った。周囲にも危険がないところを見るに、このまま探索に移れそうだ。


「待って。あれ」


 ところが、リーベルデの口から漏れたのは焦った声だった。

 彼女の視線の先では、色濃い瘴気の煙がメガロ・リーコスの死骸に集まっていた。


「いけないっ。メローネ!」


 首と右前脚を失った巨狼が、ゆっくりとその骸を起こしていた。

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