俺と義妹と恋人と

第37話 *初恋、破れて


 昼下がりから急速に発達した低気圧は、夕方にもなればザァザァと雨を降らせた。

 雨雲が陽の光を遮り、随分と薄暗くなっている。


 この悪天候の中、都市部にほど近い住宅街にある公園では、1人の少女がブランコに腰掛け佇んでいた。


「あーあ、フラれちゃったかぁ……」


 そう独り言ちる彼女は、降りしきる雨に傘も差さず濡れるがまま。

 こんな場所で振袖姿というだけでよく目立つというのに、ぬかるんだ地面に袖を汚している姿は異様とも言える。

 空がまるで彼女の代わりに泣いているようだった。


 幸いと言うべきか、そこは生垣などで外からは死角になっており、またこの天気で公園に訪れる者は居ない。


 だけどその少女――凜にそのことを気に掛ける余裕なんて無かった。


 その唇に手を当てて、何度も頭の中で繰り返すのは、つい数時間前の出来事。



『ごめん』



 迷わず平折の手を取り引き寄せた昴は、短くその言葉を凜に告げた。

 昴の顔は苦々しく、決して軽い気持ちで選んだという事じゃないということはわかる。

 それを凜は、遠くの出来事のように冷静に見ている自分に気付く。


(そう、だよね……)


 どこかわかっていた部分もあった。

 もとよりこの想いは横恋慕。

 いずれくっつく2人の間を掻きまわしただけの邪魔者で、だからきっと、この結末と胸の痛みは罰なのだろう。


 前を見れば平折の、自分が選ばれたというのに動揺して慌てふためく親友の姿が、微笑ましくも少し憎らしい。


 だからちょっとした、悪戯心が湧いてしまった。


「昴、んっ」

「凜、俺は――っ?!」

「えぇぇっ?!」


 平折との手を離した凜は、呼吸を合わせて一気に昴へと詰め寄り、そして強引に唇を奪う。

 それはキスというにはあまりに拙く、むしろ勢いもあって壮大な歯のぶつかり合いとも言えたものだった。


 昴も平折もまさかの凛の行動に、驚き呆気に取られている。

 これ以上はもう何も無いとばかりに、凜は素早く身を離した。


「昴はさ、色々と隙があり過ぎなのよ。今みたいにね」

「いや、その……凜?」

「平折ちゃん、昴を他の人にとられないように、しっかり捕まえとかなきゃだめだよ。あたしのファーストキスの授業料、決して安くはないんだからね」

「凜、さん……」


 だから思い出に、これくらいは良いよね、と――凜は精一杯の笑顔を作る。


「だからね、もう行って。あたしの事はもういいから……ね?」

「……行こう、平折」

「昴さん、でもっ……ぁ……」


 凜へと向き直った平折が、何とも言えない声を漏らした。

 それだけひどい顔をしているのだろうか?

 だけど凜は、意地でも笑顔を崩すまいと、精一杯の見栄を張り続ける。


 ……


 2人の姿が見えなくなって、周囲から誰の気配もしなくなるのを確認して、そして――


「今までありがとね、昴」


 生まれて初めて好きになった人の名前を、小さく呟いた。


 その言葉が引き金になったのか、全身から力が抜けていくのを感じる。

 立っていられなくなった凜は、手近にあったブランコへと足を運び、ずるずるといった様子で腰を下ろす。


 そして、そのまま時が流れた。


 凜も好きでこのままで居たわけではない。どうしたって身体が動くことを拒否していた。

 胸は空虚でぽっかり穴が出来ており、大切な何かが欠けてしまった喪失感で、指先すら動かすのすら億劫だ。

 そのくせ得体のしれない激情が胸で暴れまわっており、いつまで経っても収まる気配は無い。


 頭ではわかっていても、心が現実を受け入れられていなかった。


 自分への絶望感に支配され、これからどうして良いかわからない。

 完全に目標を見失ってしまっていた。


 そんな雨に打たれたままの凜に、ふと頭上に影が差す。


「ひどい顔ですね」

「陽乃、さん……」


 それは平折の異母妹の陽乃だった。

 傘を差すもう片方の手にも余分な傘を持っている。


「いつまでそこにいるつもりですか? 風邪をひきますよ?」

「あたしの勝手よ」

「お姉ちゃんをけしかけたのは私です。陰ながら見てました。だから、恨むなら私を恨――」

「――バカにしないでっ!」

「……」

「……」

「ごめん、なさい……」

「うぅん、あたしこそ怒鳴ってごめん……あはは、ダメだなぁ、あたし。随分弱っちゃってるみたい」

「……当然ですよ」


 おもむろに陽乃は傘をたたみだし、雨に濡れるのを厭わず隣のブランコに乗って軽く漕ぎ出す。


「私たち、昴君にフラれた者同士になっちゃいましたねー」

「え……ぁ……何よそれ。昴ってば天下の有瀬陽乃もフッたの? あーもう、とんでもないやつね、ほんと」

「あはは、そうですね」

「……」

「……」

「陽乃さんは……陽乃さんは、強いのね。あたし、ちょっと無理かな」

「別に強くなんかありませんよ。ただ、私にはお姉ちゃんが居たから……弱音を吐き出して、受け止めてくれる家族が居たから……だから、もしお姉ちゃんが居なかったらと思うと、ゾッとしますけどね」

「そっか」

「そうなんです。じゃ、私はこれでもう行きます。傘、ここに置いておきますね」

「ぁ……うん、ありがと」


 そして陽乃は、自分の出番はこれで終わりとばかりに去っていく。

 凜は陽乃の背中を、少し寂しい気持ちで見送る。

 それは陽乃の、『傷の舐め合いなんてしませんよ』という、明確な意思表示でもあった。


(陽乃さんは、もう自分の足で歩いているんだ……)


 このままだと陽乃だけでなく、昴や平折に笑われるかもしれない。心配されるかもしれない。そんな自分は友人として、親友として認められない。


 だから凜は無理をしてでも立ち上がり、陽乃が置いていった傘を杖代わりにして歩き出した。




◇◇◇




 どれだけ歩いただろうか?

 辺りはすっかり暗くなり、雨がアスファルトを打つ音ばかりが耳に入る。


 閑静な住宅街とはいえ、汚れた振袖姿で雨に濡れた少女というのは、随分と奇異に映ったはずだ。


「……ぁ」


 思わず声を上げてしまった。

 あても無く歩いていた筈だった。とにかく歩くことが目的だった。

 だというのに自然と足が向かっていたのは、2年前に飛び出したかつての我が家である。


 部屋からの灯かりが漏れており、両親も既に戻っているのか人の気配らしきものを感じ取れる。


「…………」


 凜はこの家を意図的に避けていた。

 ここに戻ると南條凛・・・であることを、ひどく意識させられるからだ。

 当時はそれが嫌で仕方がなかったというのに、最後にたどり着いたのがここだというのは皮肉でしかない。


 ――結局お前は南條凛・・・でしかないんだと、運命のようなものに嘲笑われている気がして、それでも我が家のチャイムを鳴らさずにはいられないほど、凜の心は自覚無く弱り切っていた。


 そして2年ぶりの実家の扉は、重そうと感じていた心とは裏腹に、いともあっさりと開く。


「凜っ?! ど、どうしたんだ、その恰好は?!」

「あなた、何が……凜?! 一体何があったの?!」

「お父さん、お母さん、あたし……あたし……」


 出迎えた両親は、不意の娘の訪問とそのあまりな格好に、驚き慌てふためく。

 犯罪に巻き込まれたと言っても否定できない凜の姿に、心配で仕方がないという目を向けてくる。


(…………あ)


 それは無条件で娘の事を案じる親としての姿で――そして凜が初めて見る両親の姿でもあった。


「……あのね、あたしね、フラれちゃった」


 つとめて明るい声で、笑顔で言おうとしたけれど、それも一瞬にして瓦解してしまう。

 凜が今まで知らなかった、知ろうともしなかった、親が自分に向けて注ぐ愛情に晒され、堪えるというほうが無理だった。


「あたしっ、本気で好きでっ! 頑張ったんだよ、本当に頑張ったんだよ? でもダメでっ! 初めてだったの、誰かを好きになるって! でも悪いのはあたしで! 横入りで! 初めての親友の好きな人で! だからフラれてもしょうがなくて、だけど胸が痛くて……痛いよ……どうしたらいいの、ねぇ……痛いよ……うぅぅ、うぁぁ、あぁあああぁあぁぁあぁっ!!」


「り、凜っ?! 倉井昴君は、ああ、いや、その、だな……っ」

「ど、どうしましょう、凜が……あ、あなた! 豊和さん!」


 感情を爆発させた凜は、玄関でわき目もふらず泣き出した。号泣だった。

 口から飛び出す言葉は単語ばかりでロクに意味もなさず、だけど叫ばずにはいられない。


「あたし、もっと可愛く生まれたかった! 性格もこんなだし、可愛げもないし! 変に意地っ張りでどうしようもなくて! 好きになって欲しかった! でも、もう無理なの! やだよ、こんなのやだよぅ……それでも昴の事が好きなあたしが、一番どうしようもなくて、やだよぉおぉおうぁあぁああぁああぁっ」

「……凜」

「あ、あなた……」


 南條夫妻にとって凜は、赤子の頃から夜泣きも少なく、手の掛からない子供だった。

 物心がついてからは聞きわけも良く優秀で、神童ともてはやされる自慢の娘だった。


 どこか特別な存在だと思っていた節もある。


 だからこそ、感情もあらわに慟哭する凜に対し、どう接していいかわからない。

 しかし南條豊和は、それでもとっさに叫ばずにはいられなかった。


「そんなことを言うんじゃない! 凜、お前は大切な娘だ、私の、私たちの宝物だ! だからそんな悲しい事、言うんじゃない!」

「お、おどう゛ざん゛ん゛ーっ」


 彼の目にもはや、神童、才媛と持て囃される自慢の娘なんて映っていなかった。

 そこにいるのは、全身全霊をかけて恋をして、想いが敗れて、傷付いて、そして初めて親に甘えてくる、やはり自分にとって自慢の、どこにでもいるただの17歳の女の子だった。


「そうだ、凜。旅行に行こう。家族みんなでどこか遠くに行こう。温泉でも入ってゆっくりして、そして今まであったことを話そう、色んな話をしよう……私に、お父さんに聞かせてくれるか?」

「うん……うん……っ!」


 今までズレて交わらなかった親娘の心が、そっと重なる。

 その能力ゆえに周囲と距離を置いてしまい、孤独になってしまった少女は、初恋に破れ傷付き、だけど本物の家族の絆を手に入れる。


 この日、凜は本当の意味で、南條凛・・・になるのだった。

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