第21話 *凛と__


 意識が一瞬真っ暗になる。


 しかしその一方で、凜はその婚姻話を聞き、まるで夢から覚めたような気分になった。


「その話、受けさせていただきます」

「り、凜っ?!」

「おぉ、そうかそうか!」


 その言葉は反射的に飛び出したものだった。

 元より自分は特殊な生まれなのだ。


 一般と比べれば並外れた裕福な環境で育てられ、習い事などによって才覚を伸ばす機会にも、十二分に恵まれた。

 そして周囲からは南條家に相応しい娘であることを求められ、それに応えて来た。

 幼い凜にとって、頑張る事は苦ではなかった。


 結果を出せば出すほど、父も母も周囲も、喜んでくれたからだ。


『児童絵画の入賞、さすが南條家のお嬢様ね』

『バイオリンコンクールも、やはり南條のお嬢様が圧巻か』

『小学生なのに英検準1級合格……南條のお嬢様なら、これくらい当然か』


 賞賛の声はしかし、南條家の令嬢ならば勉強も運動も芸術さえも、出来て当然という声へと変質していく。


 いつからだろうか?

 どれだけ良い結果を出そうとも、両親も同じような反応をするようになったのは……


 ただただ両親に喜ばせるためにしていた努力はしかし、いつしか凜の期待に答えることはなくなっていく。


 ――出来て当然、優秀なのは当たり前、誰もが羨む南條家のお嬢様。


 それが自分に求められる役割なのだと、幼い子供が悟るほど、あまりに凜は聡明過ぎた。


 今まで恵まれた環境を与えられてきた。

 従業員数万人、その家族含め数十万人の生活を守る責任ある立場にいる。

 だからその役割通り、この婚姻を受け入れるべきなのだ。


(あぁ、あたし勘違いしちゃってたんだね)


 この数か月が異常だったのだ。

 ふとしたきっかけで仮面を脱いだ姿を見られ、いっそ幻滅させられればと己も家の事も曝け出すも、馬鹿にされたり羨まれることも無く、ありのままのを受け入れてくれた。

 親友も出来、友達と一緒に遊び、喧嘩もして、そして――――恋もした。……してしまった。


 それはまるで、普通の女の子のとして笑って泣いて怒ったりした、掛け替えのない日々だった。

 彼とはこれからもずっと一緒に居たい――そんな叶わぬ思いを抱いてしまった。


(……楽しかったなぁ)


 夢のような時間はもうおしまいだ。


 アカツキとそれにかかわる人々を守るため、南條家の娘としての責任・・を果たす義務がある。

 この役目は、他の誰かが出来る事ではない。

 覚悟を決めて、しかしせめてものと、この輝かしい思い出を、今まで散々かぶってきた仮面で蓋をしようとした時の事だった。



「ダメだ!」



 突如父が反対の声を上げる。


 一体この期に及んで何を言っているのだろう?

 思わず心に蓋をしそびれた形になった凜は、恨みがましそうに父を睨みつけた。




◇◇◇




 その日は、いつのまにか家に戻っていた。

 気が付けば朝日が部屋に差し込むまで、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。


 ぼんやりとした意識の中で、ただただ結婚の事を考えてしまい――胸に痛みが走る。


 頭では理解をしていても、感情がいまだ追いついていない。

 いくら大人びていても、凜はまだ17歳の少女でしかない。


(あ……昴のことで平折ちゃんに謝らないと……)


 ふと、有瀬直樹の一件で有耶無耶になってしまったが、依然として親友の平折とは距離があるままで、それが気にかかった。

 その原因となった、彼女を叩く自分の右手を眺める。


 だけど今はまだ、誰に会いたくない――いや、会わす顔がない気分だった。


 凜はこの日、生まれて初めて学校をサボった。


 ぼんやりとしたまま無為な時間を過ごす。


 4LDKの一人暮らしには広すぎるこの家は、どこもかしこも寒々としていた。

 ここは高校に通うため、一人暮らしをして自立心を養うため、様々な理由をつけて親にねだったものであり、その実、凜が1人になりたくてねだった――女子高生の1人暮らしには分不相応な、アカツキの財力の恩恵に与ったものだ。


 そう思うと、この部屋に居たくなくなってくる。


 手早く私服に着替え、そして机の上に置かれたバレッタが目に飛び込む。

 昴にもらったそれを見て、一瞬迷ったものの、今日だけはという思いで身に付ける。


 とにかくアカツキを連想させられる、この場所を離れたかった。

 何も考えず電車に飛び乗り、無意識のうちに足を進める。


(……ここは)


 たどり着いたのは、いつだったかガラの悪い連中に絡まれ、平折や昴と一緒に服を選んだ繁華街だった。

 奇しくもコートの下に着ているのは、そのとき平折に選んでもらった服である。

 そこは初めて、友達・・と遊びに出掛けた場所だった。


 平日の午前中で人通りは少なく、しかしその時の思い出は溢れかえってきてしまい、胸を締め付ける。


 その想いを置き去りにするかのようにこの場を立ち去り、頭を振って他の場所へと向かう。


(……どうしてこんなところに)


 続いて足が向かったのは図書館だった。

 平日の昼間ともなればガラガラである。

 ここで初めて誰かと一緒にテスト勉強したことを思い出す。

 それもこれも、平折と昴が凜と関わってくれたからこそ実現したことだった。


(新鮮で楽しかったな……帰りに平折ちゃんそっくりに変装した陽乃さんに出会ったんだっけ……)


 かつての事を思い出しながら、当時座っていた椅子と机を撫でて、図書館を後にする。


 その後も当てもなく、さ迷い歩いた。

 だけどどこを歩いても、平折や昴達と居た記憶がよみがえってきてしまう。


 他愛のない話、下らない話、何気ない日常が、南條家の娘でなくただの凜・であった思い出が胸を巡り締め付ける。


 決心が鈍りそうになる凜は、それを振り払うかのようにひたすら歩き続けた。


 ……


 最後にたどり着いたのは、カラオケセロリだった。

 いつだったか約束して、そして4人で来た場所だ。


 1人でカラオケに入るのにはさすがに気後れしたが、無理を言って、空いていたあの時と同じ部屋へと案内してもらう。

 そしてあの時と同じ、ゲームとコラボした料理とドリンクを頼み――自虐気味に「乾杯」といってグラスを掲げる。


 いったいどうして、そんな事をしたのかわからない。

 きっと何か未練のようなものがそうさせたのだと思い、凜はマイクを取る。


(ゲームか……色々あったよね)


 凜は昔からゲームが好きだった。

 自分とは違う誰かになって冒険する――その事に心を奪われることが多かったのだ。


 最近ログインもしていないな、と思いながら唄う。




 君の隣には 誰がいる?

 きっと一人じゃないハズさ

 笑顔でかたりかけてごらん?

 さぁ共に手をとり 飛び出そう!


 差し出した手は、小さく頼りないかもしれない

 楽しい事も 悲しい事も

 この手を通じて わかちあうことが出来る

 だから一緒に どこまでも行こう!




 それは、皆と一緒にやっていたネトゲのOPテーマだった。

 かつてここで、親友と一緒に唄った曲でもあった。

 その歌詞が、心の柔らかい所に突き刺さる。


「うぁ……ぅ……あぁぁああぁぁぁ……」


 凜は1人、声を上げて泣き、バレッタを握りしめる。


 それはどこか神聖な儀式じみていて、物悲しい泣き声だった。




◇◇◇




「明日からしっかりしなきゃね……」


 自分に言い聞かすように、そんな事を独り言ちながら、家路を歩く。

 随分と長い間泣いていてしまったので、陽はすっかりと暮れてしまっていた。

 メイクも崩れ、目もかなり腫れぼったくなってしまっている。


 南條凛・・・としては誰にも見せられないような姿だが、泣いたおかげか、少しだけ心は軽くなっていた。


(帰るまではいいよね?)


 そっと、付け直したバレッタに手を添える。


 ただのでいられるのはここまでだろう。

 家に戻ったら、南條凜・・・に戻らなければならない。

 決心も付けたつもりだ。


 もう少しだけ弱いままでいてもいいよねと、顔を俯かせたまま、自分の足だけを見る。


「凜、さん……」

「平折、ちゃん……?」


 しかし、その家の前では、いま最も顔を合わせづらい女の子が待ち構えていた。

 学校帰りなのか制服姿のままの様で、随分長い時間を待っていたのか、顔色や指先は寒さで白くなっている。

 気まずさを感じた凜は、そっと視線をずらす。


「話は陽乃さんから聞きました……その、本当ですか?」

「結婚の事? あはは……うん、そっかぁ……」

「凜さん?」

「あたしはね、南條家の娘だからね……ごめん、そのことすっかり忘れちゃってたよ」

「凜、さん……」

「平折ちゃん、あの時・・・泣いて叩いてごめんね。元からあたしに誰かを好きになる権利なんて――」

「凜さん!」


 いつの間にか、平折は凜の目前にまで迫っていた。

 最初はどこか不安げに凜を見つめていた顔はしかし、何かに気付いたかのように声を荒げ、強引に彼女の方へと向き直らせる。


 その顔は怒りに塗れていたが、確かに泣いていたのだった。


「平折ちゃ――」

「凜さん、鈍くてごめんなさい――私、凜さんの顔を見てようやく、あの時の凜さんの気持ちと自分の気持ちが分かりました」

「――え?」


 パァン! と乾いた音がタワーマンションの廊下に響く。


 目の前には怒りながらも涙を流す平折。

 凜は自分の頬が叩かれたのだと気づくのに、多くの時間を必要とした。

 それでもただただ、この状況に困惑するばかり。


「私、昴さんの事が……好きですっ!」

「……っ!」


 その慟哭は。


 今の凜にとって、どんな鋭利な刃物より胸を突きさす言葉だった。


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