第18話 *取引


 凜は楽屋裏のスタッフルームで、突如訪れた青年と机越しに向かい合う。


「こうして直接言葉を交わすのは初めてかしら、灰電グループの前廣裕史さん?」

「そうですね、アカツキグループの南條凛さん。初めまして」


 そう言って彼――前廣裕史は、その端正な困った表情へと歪ませ微笑んだ。


 お互い顔を合わせたことはある間柄だった。


 前廣裕史は、灰原電気鉄道グループ経営者一族の御曹司である。

 アカツキグループと灰電グループと言えば、どちらも明治末~大正初期にかけて設立された私鉄を母体とする巨大企業だ。

 共に駅を作り、事前に安値で買った土地を開発して売り出し、また路線を活かした物流でもって財を成してきた。


 アカツキが各地方を結びつけ生活用品を流すことによって大きくなったのに対し、灰電は都市部に歌劇場を作り人を誘致することで大きくなっていった。

 つまり、アカツキは地方で強く、灰電は都心部で強い。

 同業他社であり、ライバルと言えるかもしれないが、それぞれ強みが違うので、競合相手という間柄とは言いづらい。


 そんな彼がどうしてここに来ているのか、凜は分からないでいた。

 不躾ながら、ジロジロと彼を観察してしまう。


(身長は昴より少し高いかしら? 見た目は……昴も負けていないと思うけれど、育ちから来る気品さは彼の方が上ね。学歴は大学院生だっけ? 昴は成績も結構いいし、頑張れば……って、何考えてんのよ、あたしは!)


 知らず昴と比べてしまった凜は、はぁと自分に呆れたようなため息が出て、前廣裕史と向かい合う。

 そんな凜を見た彼は、辺りを見渡したかと思えば、困った顔のまま口を開く。


「噂では聞いていましたが、本当に貴方が仕切ってらっしゃるんですね。まだ高校生だというのに凄い」

「……どこでそれを?」


 写真集を出すというのは、結構な規模を誇るプロジェクトだ。

 現に数十人というスタッフに、数億というお金が動いている。

 たしかに帝王学を叩きこまれた経営者一族とはいえ、凜は正式に社員でもない一介の女子高生だ。彼女が陣頭指揮を執っているというのは、なるほど世間には問題にする人もいるだろう。


 しかしそれは、あくまで内部でしかわからない情報のはずだ。

 凜は自らの顔が険しくなるのを自覚する。

 それを見た前廣裕史は、困った顔のまま慌てて言う。


「おっと、待ってください。僕は別に貴女たちの事をどうこう言うつもりはない……有瀬直樹、といえばわかりますか?」

「……彼が何か?」


 此度の色々な諸悪の根源の名前が飛び出し、凜は身構える。


「先程、有瀬陽乃さんと平折さんに質問した娘がいたでしょう?」

「いましたね……彼女は有瀬直樹と共に営業に回っていたデビュー予定のタレントモデルの1人ですが……それが何か?」

「実はうちへ……灰電グループにも営業に来ていましてね。その、主に上層部の男性に対し、彼女自身が夜通し接待するという形で」

「…………は? な、そ、それって……あのっ、外道ーっ!」


 思わず凛は、はしたないとは思いつつも、ドンッと机に強く拳を叩きつける。

 彼の言葉を理解するにつれ、どんどんと怒りにも似た感情が胸の内に募っていく。


「もしや、あなたも……っ!」

「まさか! 立場的にもしそんな事が露呈しようものなら、とんでもない騒ぎになってしまう。それに1つ付け加えるなら、彼女は別に有瀬直樹に脅されてやったわけじゃない」

「……………………え?」

「貴女には信じられないかもしれないが、目的の為には平気で自分の身体を差し出す人もいる。しかもそれを分かっていて受け入れる人もいる」

「そん、な……」


 凜にはにわかにも信じられないことだった。

 知らぬ相手に抱かれる……少し想像しただけでも嫌悪感が走り、ぎゅっと自分の身を抱きしめてしまう。

 その様子を、どこかホッとしたような顔で彼は見ていた。


 そして幾分か頭も冷えた。

 彼がここに顔を出した理由も、おぼろげながら見えてくる。


 灰電からしてみれば、ハニートラップを仕掛けられたという構図になるかもしれない。

 だが一方で、向こうにもそれと理解しつつ、嬉々として受け入れ――自社を裏切った人がいたということだ。


 互いに置かれた状況は芳しくない。


「……」

「……」


 凜がため息と共に、強い視線で前廣裕史を見据えると、肩をすかして困った笑みを浮かべる。

 それは、凜の考えを肯定するものだった。


「……今日はわざわざ忠告しに来てくれた、ということかしら?」

「そうですね、灰電にも色々あってね……先程の事もそうだけど、世の中には僕たちが考えるルールとは異なったものに従って生きている人もいる。死なばもろとも……そんな言葉もある」

「肝に銘じておくわ」


 そういって彼は、相変わらず困った顔をしたまま去っていく。


 何か、嫌な予感がした。


 有瀬直樹は20年に渡り、アカツキでその権力の基盤を築いてきた。

 いくつかのやましい事も、数字を叩きだす彼だからと、黙認してきたところもある。それは父である南條豊和も言っていた。

 しかし一方で派閥とも言えるものを形成しており、役員入りも目されていた人物でもある。

 彼がクビになって1か月、これまで大人しくしていたことが、逆に不気味になってくる。


「ごめん、あたし先に本社に戻ります! 皆にも言っといてください!」

「凜様?!」


 気付けば、走り出していた。




◇◇◇




 有瀬直樹は人として問題はあれど、それでも優秀な男だった。

 彼がアカツキを去って1か月、数字という目に見える形で業績は悪化しているものの、その程度でアカツキの屋台骨が揺らぐほどのものではない……はずだった。


 急いで本社に戻った凜は、その足で経理へと飛び込む。


「広報が少しでも絡んだお金の流れを精査して! 早く!」


 経理の社員たちとて、しっかりとした仕事をしているという自負がある。

 凜の言葉に驚いたものの、訝し気な表情で彼女を睨む。


「広報担当をしていた人は今いなくて……彼じゃないとわからないことも多く……」

「ッ! その人はいつからいない?! もしかして年始から顔を出していないとか?!」

「それは……いえ、その、どちらにせよ彼は外部の監査――」

「いいから調べて! 責任はあたしが持つから!」

「は、はい」


 しかし相手は経営者一族の一人娘。

 そこまで言われてしまうと、急かされるまま、凜の顔を立てようと眉をひそめつつもデータを今一度洗い直し――そしてみるみるうちに表情を変えていく。


「うそ、これは……?!」

「おい、誰か他にも応援を! 洒落にならんぞ……専務や社長にも報告だ!」


 それは有瀬直樹と関係の深い経理が、結託して巧みに隠していたものだった。

 いわば遅効性の毒であり、時限式の爆弾であり、有瀬直樹がばらまいた負の遺産でもあった。


「……やられた!」


 見つかったのは、10年以上に渡って隠蔽されていた粉飾決算とも言うべきもの。

 当然彼一人でどうこうできる額ではなく、協力した者がいるのは火を見るより明らかだ。

 しかもそれだけでなく、明らかにデータとして出力された跡も見つかる。

 質が悪いのは、これを誰がやったかというのが明確にできないところだ。

 もしこれが世に出されれば、アカツキが糾弾されるに十分な資料となる。


 この事は半時も経たずに経営者一族に知れ渡る事となり、衝撃が走った。

 経理に訪れた南條豊和は、もはや怒りを出すのも困難なほど思い詰めた顔をしており、こめかみに手を当て唸るだけである。


「悪い膿を出し切る、と割り切りたいところだが……その為にも見つけた以上、これを見過ごすことは出来ん。おそらく奴は、これらのネタで我々を揺さぶるつもりなのだろうよ」


 専務の声により、置かれた状況を理解した皆は、沸々と怒りを募らせていく。


「そんなバカな事が!」

「自分のしでかしたことなのに、こんなの出鱈目だ!」

「どうしてあんなやつの尻拭いを!」


 もしこれらの事が公になれば、アカツキの信用やイメージ低下は免れない。

 場合によっては極端な業績悪化によるリストラ、経営規模縮小、資産の売却といった、厳しい判断をせざるを得ない

 それは責任のある経営陣のみならず、グループへと奉仕してくれている社員の身を切らねばならない仕打ちだ。


 たった一人にこれだけ翻弄され、打撃を受ける――その事に腹立たしさと共に歯がゆさ、悔しさが胸に溢れてくる。

 それは凜だけなく、数字の意味がよくわかる経理の人たちも同じようで、行き場のない怒りをぶつけられずに拳を握りしめていた。


「かかっ!」


 だというのに、呵々大笑する和服姿の老人――凜の祖父でありアカツキの社長兼会長、南條明彦は機嫌良さげに現れる。


 この場の空気にそぐわない彼の様子に、周囲はただただ困惑しかない。

 そんな事は知った事かと、この老人はえびす顔のまま、凛のもとへとやってくる。


「凜、お前に良い結婚相手が見つかったぞ」

「…………………………は?」

「と、父さん! どういう?!」


 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 有瀬直樹が残した会社ぐるみの粉飾決算から、どうして自身の結婚の話へと飛ぶのか、理解を超えている。


「あぁ、奴には腹立たしい想いがある。現に奴が外資を通じで株を買い占めアカツキを乗っ取ろうとしておる。それでも灰電がそれをさせまいと、有事の際に関して合併話を持ち出してきた! しかもあやつのところの息子がうちの婿に来るというではないか!」


 老人は、灰電に提示された詳細を語っていく。

 有瀬直樹が外資を通じて敵対的買収を掛ける時に対し、灰電が友好的M&A――いわゆるホワイトナイトになるということだった。

 しかも条件は向こうの御曹司がアカツキへの婿入りという、姻戚関係を結ぼうというもの。


 なるほど、一人娘しかいないアカツキ――南條家にとって、これは好条件だ。


 凜は突然の事で呆然としたまま立ち尽くし、先程の前廣裕史の困った顔を思い出すのであった。

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