第8話 *有瀬陽乃 前編


 有瀬直樹による、倉井昴への傷害罪起訴ないし、取り下げ示談金1690万円の要求。


 それを知らされた時、陽乃は目の前が真っ暗になってしまった。


 陽乃にとって1690万円という額は大騒ぎするほどの額ではないが、傷害罪となれば話は別だ。

 前科が付くとなれば、今後の昴の人生において大きな影を落とすことになる。

 それは一生付きまとい、様々な局面で彼個人に対する信用を左右しかねない。


(私の父のせいで、すぅくんの経歴が傷物になっちゃう……っ!)


 確かに、その書類の内容自体は突拍子もない要求で現実味が無いと言える。

 しかし陽乃は、父ならばそれでも有罪に持っていきかねない強引さと力があることを知っていた。


 だというのに当事者である昴本人は、さほど慌てる様子もなく、むしろ陽乃を気遣う始末。


「……気になりますね」

「さすがにね」


 一緒に撮影している平折が呟く。

 そこにギクシャクした空気はなく、まるで先日のことなど無かったかのような口調だ。

 事実この昴の件の前では、それは些細な問題になり下がり、ただただ2人で彼の動向を心配する。


 なにより、凛の父である南條豊和と、何を話すか気になっていた。


 言うまでもなく巨大企業アカツキグループの専務である南條豊和は、絶大な権力と資本、そして影響力を持っている。一介の高校生がおいそれと話が出来る相手じゃない。

 それだけでなく海千山千の強者を相手取ってきているだけに、目の前にすればその気迫に飲み込まれるのが普通だ。


 そんな人物に娘である凜のコネを使ってまで、一体何を話そうというのだろうか?


『ちょっと頼みごとをな。借金とかそんな変な事をするつもりはないから安心してくれ』


 聞いてもはぐらかされるだけだった。

 もしもの時は自分がお金を出すと言っても、聞く耳をもってくれやしない。


『それよりも撮影も佳境だろ? そっちのほう、しっかり頑張ってくれよ』


 心配するなと笑顔を浮かべてそう言われると、何も言えなくなってしまう。


(ずるいなぁ)


 陽乃にとって、昴のこの顔は特別な意味を持っていた。

 幼い頃崖下に転落した時、再会して異母姉との事を相談した時、有瀬直樹の謀反によって自分の立場が揺らいだ時――その全てにおいて昴はこのしょうがない、でもなんとかすると、その意志の強さが垣間見える顔を見せていたのだ。そして、その全ての事態を好転させている。

 だからこの表情を見せられたとき、信頼して甘えるしかないと思うようになっていた。


 そんな事を思っていた時の事だった。


「ちょっと! 昴がお父様とどこかに出かけたみたいなんだけど?!」

「「えっ?!」」


 慌てた様子の凜が、撮影現場にやってきた。


 何かを頼むと言っていたが、すぐさま財界の重鎮の1人である南條豊和を伴って、いきなりどこかへ出かけるというのは流石に予想外である。

 そもそも忙しい人であるし、おいそれと動かす事が出来る人物じゃない。


「り、凜さん、どこへ出掛けたの?!」

「急な事で何も……逆に陽乃さんはどこに向かったかわかる?!」


 今度は一体何をやらかすのか? 今より悪い状況にならないだろうか?

 陽乃と凜は心配で、ああでもないこうでもないと意見を交わす。


 そんな中、平折だけはどこか落ち着いた様子で、だけど困った笑みを浮かべて2人を宥める。


「昴さんならきっと大丈夫です。きっと悪い事にはならないはず。でもきっと無茶をすると思いますので、帰ってきたら心配かけるなと怒ってあげましょう?」


 その通りだと思った。

 3人、顔を見合わせて笑う。

 皆の昴に対する気持ちが同じなのが、嬉しく思う。


 ……異母姉の瞳には、それほど義兄を信頼しているのだという、絆にも似たものがあった。それがちょっと、羨ましかった。









 暫くして、南條豊和専務が一足先に戻ってきた。

 それだけでなく、急遽重大な話があると言って広報部の人間全てに召集が掛かる。


「広報を束ねていた有瀬直樹本部長だが、解雇処分となることになった。理由は刑事事件に発展しそうな不祥事が多数見つかり、これは企業としても重く受け止めざるを得ない結果であり、措置だ。今後彼が居なくなることで様々な業務上の支障が出ると思うが、諸君らには動揺する事無く職務に当たって欲しい――以上だ」


 当然ながら広報部だけでなく、本社ビルそのものを揺るがす大騒ぎとなった。

 社員たちにとっては寝耳に水の事だろう。


 何せ有瀬直樹と言えば、近いうちに役員入りを確実視されていた人物であり、グループに多大な利益をもたらしていた。それこそ一つの派閥が出来つつあったという。

 彼の解任劇は、文字通り激震が走る出来事と言える。


 昴と南條豊和が共に出掛けたタイミングでの、この事件。

 どう考えても昴が関与しているというのを、否定するのは難しい。


「昴、いったい何をしたの……?!」


 驚きを隠せない凜は、今にも南條豊和に掴み掛からんばかりの勢いだ。


 一方陽乃は、どういう状況なのか理解できないでいた。

 ただ自分の父、有瀬直樹が追い詰められた状況にいるということだけはわかった。


 困惑を隠せないでいる彼女達のもとに、南條豊和専務がやってくる。


「お父様、これはどうい――」

「凛、落ち着きなさい。彼の事を気にしていると思うが、有瀬直樹のクビは私の独断だ。倉井昴君に頼まれたわけじゃない。ただ――彼ら父子に影響されたのは否定しないけどね」


 どこかすっきりとした顔を見せる南條豊和は、まるで憑き物が落ちたかのような、爽やかな笑顔を見せていた。


 凜の言葉じゃないけれど、一体何があればこうまで人を変えてしまうというのだろうか?


「ああいう人材こそ、我が社に欲しいな」

「昴はまだ高校生ですよ、お父様」

「彼の成績はどうなのかね? 今日少なくない額の出費があったが、進学ならアカツキのキャリア指定奨学金で援助も出来るのだが」

「成績はそれなりに上位を……って、少なくない額ってどういうことですか?! 聞き捨てならないんだけど!」


 そんなやり取りをする南條父娘を、平折が少し誇らしげに眺めているのが印象的だった。


(――あぁ、そうか。が褒められて嬉しいんだ)


 そんな、妹の顔だった。


 何だか胸がズキリとした。




◇◇◇




 有瀬直樹の懲戒免職は、各所に様々な影響を与えた。


 これから取引先や引継ぎという面でも、大忙しになることだろう。

 特にアカツキの広報部では、その要が急に穴を空けることになり、てんてこ舞いになっているのを目撃している。


 それだけ彼の影響力は強かった。

 だがこういった事態になり、彼の今までの不義理や道徳的に目を顰めるような事が各所から噴出し、この忙しさに対するストレスのはけ口にされるかのように、色々と言われている。


 いくら娘である陽乃も、有瀬直樹に思う事があるとしても、実父であることには変わりはない。

 さすがの事態に、意を決して実家に顔を出すことにする。


 当然ながら、有瀬家にも解雇の影響は出ていたのだった。


「え……離婚、するの……?」

「そうです、有瀬家の泥は振り払わねば。まったく、多少の事には目をつぶってきましたが、バレてクビになるということは、それまでだったという事。あの面汚しを有瀬家に置いておくと、陽乃さんの仕事に影響が出るでしょう?」


 実家に父は居なかった。

 待ち構えていた母に、離婚するという決定事項だけを告げられる。


「ど、どうして?」

「どうしてもなにも、有瀬家の不利益になる人物を抱え込んでなんていられないでしょう?」


 何故そんな分かり切ったことを確認するのかと、怪訝な顔で見つめられる。


 それは随分とあっさりとしていて、結婚という重大な関係を、まるで契約を打ち切るかのような言い草だった。


 真実、母にとっての父との結婚は、有瀬家を建て直すための契約だったのだろう。

 ふと、様々な利権の名義は、全て母の名義になっていたなと思い出す。

 だからこそ、不必要・・・となった有瀬直樹を、いとも簡単に切り捨てる。


 これが、有瀬という名門の家だった。


(これが、私の家族……)


 陽乃は何か薄ら寒いものを感じる。

 どこまでも、有瀬という家の為にと言う事を、母に言い含まれる。

 それと同時に、家族の為に奔走する昴の事を思い出す。


 なんだか、とても、嫌だと感じた。


 どんどんと、心が、魂が、冷たくなっていくのが分かる。


 有瀬家にとって陽乃は、存続させていくためだけの歯車でしかないということを、理解させられた。

 きっとこのままここに居れば、自分は有瀬という家に有益かどうかだけを判断された男をあてがわれ、そして抱かれ、子を為し、自分の意志の介在しない人生を送る――それを、嫌でも理解させられた。


 背筋が凍るとはこの事か。

 正しく、ここは地獄に思えた。


「あの男も居なくなったし、そろそろ我儘は止めて家に戻って――」

「――嫌」

「陽乃さん……?」

「わたしは、絶対、嫌……っ!」

「陽乃さん!」


 一時たりとも、この家に居たくなかった。

 さりとて、頼る者はいない。

 引き留める母の声を背で聞きながら、マンションへとひた走る。


「……あれ、陽乃さん。聞いた、昴だけど――」

「――っ!」


 途中、一階のロビーで同じマンションに住む凜を見かけたが、今の顔を見られたくなくて、馬鹿みたいに階段を駆け上がる。


 やっとの事でたどり着いた一人暮らしに住むにはやたらと広い2LDKは、いつもより必要以上に広く、そして冷ややかに感じた。


「寂しいよ……誰か……」


 頼る者が居ない陽乃は、人知れず涙をこぼした。

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