第7話 *母と家族と幸せと


 平折の母、吉田弥詠子は施設の育ちだった。


 両親は交通事故で即死、彼らが身を呈して庇ってくれたおかげで奇跡的に命を拾う。

 彼女が言葉を覚える以前の話である。


 故に家族というモノに、深く、そして複雑な思い入れがあった。


(家族を知らない私に、家族を作れるのだろうか?)


 そうした漠然とした思いを抱えて育ち、いつしか色恋沙汰とは積極的に遠のく。それが吉田弥詠子という女性だった。


 だが、思いもよらない事故・・に巻き込まれる。

 それだけでなく、娘も授かってしまう。

 経緯を考えれば最悪だ。


 覚悟も、金も、決心も……後ろ盾も何もない中での妊娠。

 執拗に相手からは堕胎を迫られ、どうすればいいのかと何度も思い悩む。


 だが、両親がその命をもって自分を救ってくれた――その事を考えると、お腹の中にいる子を殺めるという選択肢は、どうしたって選ぶことが出来なかった。


「わぁ……っ!」


 そしてそれは、初めて生まれた我が子と対面した時に、全てを理解してしまう。


 理屈何てなかった。

 これからどうやって生活しよう? 憎い相手の子だけど育てられるのだろうか? そんな悩みなんてすぐさま霧散する。


(この子の為なら、何だってしてやるわ……!)


 この弱々しく泣く小さな存在が、ただただ愛おしかった。

 母としての本能だった。

 あぁ、自分が死ぬとわかっていても身を呈すはずだ。


 しかし状況は良いものじゃなかった。


 気迫や想いだけでは、現実的なお金などの問題には、どうにもならないものがある。


 出産前後の働けぬ間に、有瀬家からは支援という名目で、借金というものによって縛られてしまう。

 それを盾にされ、子供を手放せ、こちらによこせ、それが無理ならどこか遠くの施設に追いやれと圧力をかけられる。

 働こうとするにも裏から手を回されて上手くいかない。


 それでも弥詠子は、娘を手放す事は出来なかった。

 彼女にとっては唯一の家族であり、自分の生きる意味にもなっていたからだ。


 されど、この母娘に対する締め付けは続いていく。


 干からびぬ程度に仕事も与え、借金も返済させ、さりとて行政に頼れないギリギリのラインのお金を渡すという狡猾さ。

 逃げられなかった。完全に経済的なDVとも、飼い殺しとも言えた。


 明らかに弥詠子が根を上げるのを待っている状況である。


 さすがの彼女も心が摩耗していく。

 平折の幸せを考えると自分と同じ施設へ……そんなことも脳裏に過ぎるが、親が居ないという気持ちを味合わせたくなかったのと共に、目の届かないところで何をされるかという不安もあって、その選択肢を取ることは出来ない。


 そんな懸念を抱えている時のことだった。


「平折?! 平折は大丈夫なんですか?!」


 娘が小学生にも慣れてきた頃、ある日夜半になっても帰ってこない時があった。

 もちろんほうぼうへと探し回る。

 その所在を聞いたのは有瀬家からの連絡であり、有瀬家の娘と一緒に神社の崖から落ちたという知らせだった。


(もし平折に何かあれば……っ!)


 目の前が真っ暗になってしまった。


 幸いにして2人とも怪我は無かったという。しかし放心状態のままの彼女に、ここぞとばかりに責め立てられる。


 フラフラになった彼女は、決定的なものを目撃してしまう。

 いくつかある、有瀬家の人目に付かない客間でのことだ。



『お前さえ居なければ……っ! このせいでまたも俺の立場が……どこまでも邪魔をする……っ!』

『…………ぁ………ぉぇ』



 それは実父のハズの存在が、我が娘の首に手を掛けている姿だった。


 消耗しきっていたはずの心は一瞬にして燃え上がり、どこにこんな力があるのかと、有瀬直樹に突進する。


『やめてーーーっ! 平折が! 娘が死んじゃう!』


 ほとんど半狂乱になっていた。

 体面も何も考えず、娘を奪い取った弥詠子は我が子を抱き――そして決心する。


(なりふりなんて構っていられない……っ!)


 まさに着のみ着のまま飛び出すのだった。


 彼らの目の届く所に居てはいけない。

 生活費はどうしよう? 仕事は見つかるのだろうか? 有瀬家の妨害は?

 そんな不安が強くのしかかってくるが、娘の命には代えられなかった。


 これからどうなるかわからない――吉田弥詠子が倉井晴也に出会ったのはそんな時だった。




『あ゛ぁあ゛ああ゛ぁあぁあ゛あ゛ぁぁあぁあぁーーっ!!!』




 娘を庇ってくれたという男の子のお見舞いへと訪れた病院で、獣のような咆哮を聞く。

 いい歳をした大の男が人目も気にせず泣き叫ぶ、それが最初に見た彼の姿だった。


 看護師に聞けば、大きな怪我はないものの、未だ目を覚まさないという。

 それはさぞかし不安だろう。頭の打ちどころがあれば、万が一ということもある。

 知らず、娘と繋いでいる手も、強く握りしめてしまう。


 だというのに――



『しっかりしなさい、あなたは父親でしょう?!』



 お礼を言うべき口は、そんな言葉を出してしまっていた。

 初対面で言うべきセリフとしては最悪の部類だ。


『君に何がっ! 昴は……っ、昴はあいつのっ! 幼い頃から一緒に居たあいつの忘れ形見なんだ! ずっと一緒に居ようって、だけど……っ! 僕に残ったのは昴だけなんだ! その気持ちを君が……っ、どうして僕から大切な人を……っ!!』


 感情を剥き出しに掴みがらんとする倉井晴也は、まるで生きた屍の様なひどい顔をしていた。

 だけど、どこまでも自分と似たようなものを感じてしまった。


 どれだけ焦燥しきっているというのだろうか?

 どれだけ強い想いを抱いているというのだろう?

 どれだけ――一体どれだけ、ギリギリのところを我が子に救われているのだろう?


 そんな事にまるで気付いていない彼を見て、なんだか腹が立って仕方がなかった。



『色々あったけど、私には平折が居たわ……あなたには昴君がいたのでしょう?!』



 気付けば、涙ながらに彼の頬を叩いてしまっていた。

 それは自分にも言い聞かせた言葉でもあった。


 我が子の為にと生きている様で、我が子によって生かされている……だけど我が子の為にしっかりしろ、と――


 なにより、ハッと気付いた様な面食らった顔を、今でも覚えている。


 この日より2人の交流が始まった。


 片親同士、その苦労もわかる。

 片親同士だからこそ、変に気を遣ったり遠慮する事無く付き合う事が出来る。

 互いに励まし愚痴も言い、それでもと共に歩む同志のような間柄。


 それは平折以外で初めて得た、心休まる時間であった。


 特に倉井晴也は、不器用ながらも亡き妻の残した我が子へと、一心に愛情を注いでいる姿が好ましかった。

 それと同時に、喪ってなお思いを寄せる姿が痛ましくもあり、なんだか胸をざわめかした。


「倉井さん、子供の為にも出来合いのモノばかりというのはダメですよ。ほら、これ簡単でお勧めの子供好きするレシピです。それから随分シャツがよれていますけど……乾燥機を使うにしても、子供が学校で嫌な思いをしないために、ちゃんと皺を伸ばさないといけませんよ」

「う、それは申し訳ない……」


 子供の為には一生懸命だが、どこか不器用で世話のかかる倉井晴也を、放っておくことも出来なかった。

 そんな交流が数年続く。そのうちすっかりと打ち解けても来る。子供も随分と大きくなり、手もかかりにくくなってきた。


 このまま我が子が巣立てばこの関係も――そんなことを考えると、どこか空虚な気持ちが押し寄せてしまう。



 しかし、転機と言うのは突然に訪れる。



 それは、その年に起きた何件目かの、有瀬家からの圧力でクビにされた時のことだった。

 たまたま仕事で居合わせた倉井晴也に、その現場を目撃されてしまう。


 どうしてかその光景は、彼にだけは見られたくなかった。


 それまで同志として対等に接してきただけに、憐れまれるだろうか、関わりたくないと思われるだろうか、一体どう思われるだろうか……そんな不安に見舞われる。

 だというのに、彼から飛び出した言葉は、意外過ぎるものだった。



『弥詠子さん、結婚しよう』

『は、晴也さんっ?! い、いきなり何を……っ?! え、結婚?!』



 その目は義憤だった。

 今の彼女をこの状況へと貶めているものに対する怒りの火を灯らせていた。

 プロポーズしているにもかかわらず、前の妻にこういう風にしなきゃ怒られるというのが、何だか彼らしくて――弥詠子が好ましいと思っている倉井晴也らしくて、可笑しさすら込み上げる。


 だけど胸が熱くなった。

 異性として好きだからというわけじゃない。

 こんな状況にもかかわらず、助けてくれる人がいる――それが何よりも嬉しかった。



 弥詠子にとって初めての結婚は、打算的なものだという自覚がある。

 式も挙げず、書面だけの契約みたいなものだ。


 それでも幸せと言えるものだった。

 娘も、良い顔をするようになった。

 特にこの数か月は、どういう心境の変化かわからないけれど、お洒落に興味をもち、母親の目からしても息をのむほどの美少女になっている。学校では友達もいるようだ。


 そんな姿を見せられて、この結婚は決して間違いじゃなかったと、この幸福な時間がいつまでも続けばいいと、願わずにはいられない。



 しかし転機と言うのは、いつだって唐突に訪れる。



 この日倉井弥詠子は、話を付けてくると言って出ていった晴也の帰りを、落ち着かない気持ちで待っていた。

 何度も思い返すのは、有瀬直樹から昴に充てられた示談書。

 自分に対する有瀬家の制裁が、義理の息子にも手が及んだのかと思うに至る。


(私がここにさえ居なければ……)


 そんな思いが彼女の心を支配する。


 この、どこか父の晴也に似て不器用ながらも優しい子を、娘を気に掛けてくれて笑顔をもたらしてくれた息子・・を、自分のせいで傷付けられてしまう――それは断じて許容できるものではなかった。


 守らなければ。

 だけど、どうやって?

 少なくとも婚姻関係を終了させれば、有瀬家に狙われることは無い筈だ。

 そうして、この契約・・を終了させようと口に上らせて――


『君は僕に、2度も__を喪えというのかい?』


 心底傷付いた顔を見せつけられ――それ以上何も言えなくなってしまった。

 彼だけでなく、娘も心底傷付いた顔を見せていた。


 もはや何も手に付かず、彼の帰りを待ち続ける。


「ただいま、弥詠子さん。これを見てくれ。手痛い出費だったけど、弥詠子さんと平折ちゃんへの接触禁止も書面にして捥ぎ取ってきたよ! これでもう君たちにちょっかいを……て、弥詠子さん?」

「どうして……どうしてここまでしてくれるのですか?」


 昴は彼にとって我が子だ。大金を出すのもわかる。

 だけど要求された額よりも更に上乗せして、自分たちに対する要求もあったというのが、弥詠子には何故だかわからないでいた。


「それにこのお金ってどうしたんですか? 私たちの為に、まさか借金を……っ」

「はは、これは昴の母が保険等で残したものでね。なに、きっと家族・・の為に使ったと言えば、彼女も良いって言うさ」


 晴也がいかに亡き妻を想っているかというのは良く知っている。

 だからこそ結婚しても弥詠子は身体を求められたこともなかったし、私室には写真が飾られている。

 彼にとって自分は他人・・のはずだった。


「晴也さん、私たちはっ――」

「――きっとね、これがもし昴でなく、弥詠子さんや平折ちゃんだったとしても支払ったよ。だって――僕は君たち2人を、昴と同じく大切な家族だと思っているから」

「それ、は……」


 そういって彼は、どこまでも真剣な顔を作る。初めて見る表情に、どうしていいか分からなくなってしまう。

 だけど不思議と安心して――嫌なものではなかった。


「この機会で気付かされました。好きです、弥詠子さん。未だに思いを引きずっていますが、僕と……僕のになってください」

「……………………ぁ」


 心の中に温かいものが広がる。

 きっと、とっくに自分も同じ気持ちだったということを理解してしまう。


 なんてことはない、お互いとっくに家族になっていたということを、認めてしまうかどうかの質問だった。


「一つ、条件があります」

「な、なんだい?!」


 ビクリと身動ぎする彼を見て、弥詠子は悪戯っぽく微笑む。


「前の奥さんを忘れろとは言いません。だけど、彼女と同じだけ私を愛してください」

「も、もちろん!」


 弥詠子は晴也の胸へと飛び込む。


 そして――生まれて初めての口づけを交わした。

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