最終章 『好き』だけど、それは恋ではなくて

第1話 平折


『私の兄さん家族になって下さい』


 俺には平折のその言葉がよく分からなかった。

 言葉通りの意味だとすると、平折は今まで俺の事を家族と思っていなかったという事になる。


 一緒に生活するようになって5年近く。

 そのほとんどの期間、ロクに会話も無かった。

 なら平折は、その間一体どういう思いで俺と一緒に過ごしてきたのだろうか?


 一度考えだしてしまうとキリがなく、この日はあまり眠れなかった。


「……はぁ」


 大きなため息を吐いて身体を起こす。


 いつも通りの時間だが、冬至の近付いた朝はまだ薄暗く、そして冷たい。

 まるで今の俺達の状況を暗示しているかのようだ。

 暗澹たる気持ちを振り払うかのように、日課をこなすべく走り込む。


 冬だというのに汗でびしょ濡れになった俺を出迎えたのは、バスタオルと制服を持った平折だった。


「今日は早めに登校したいので、手早くお願いしますね」

「あ、あぁ」


 今までになかった平折の行動に虚を突かれた俺は、早く早くと急かされて風呂場へと押し込められる。


 早めに登校? どうして? 風邪はもう大丈夫なのか?

 色々と疑問が頭に浮かぶが、まずは汗を流す方が先決だ。


 シャワーを終えて風呂場を後にすれば、またしてもドライヤーとブラシを持った平折が待ち構えていた。


「ほら、こっちです! 髪は私がしますから朝ごはんを食べてください!」

「え、いや、おい」

「あらあら、まぁまぁ」


 強引に椅子へと促された俺は、トーストとコーヒーを摂りながら、どこか上機嫌な平折に髪を整えられて行く。

 最初こそブラシを使っていたが、ほどなく自分の好きなように弄れる手櫛に取って代わられる。

 直接指で頭を弄ばれるのは心地よい反面、何だか気恥ずかしいものがあった。


 更には微笑ましくこちらを見ている弥詠子さんの顔が、羞恥をより一層際立たせる。

 親として止めてくれと言いたいところだが――昨夜の弥詠子さんを思い出すと、口を噤んでしまう。


『昴君、こういう時に備えて病院の近くに引っ越すというのは……いえ、変な事を聞いたわ。忘れてちょうだい』


 平折の風邪で要りようになったものを買いに行ったかと思えば、青ざめた顔で戻ってきてそんな事を言っていた。

 どこか怯えた様子で防犯チェックをしだし、そのあまりに真剣な形相に何て声を掛けて良いか分からず、これは尋常じゃない事があったと思って、父親に連絡を取ったほどだ。


 何よりそれは、平折が男性恐怖症でみせる時の反応と酷似していて、嫌な予感を抱かせた。

 詳しい事はわからないが、その原因に有瀬直樹が関わっているのであろうことは、確信があった。


「平折をお願いね、昴君。夜とかあまり遅くならないように」

「大丈夫、お母さん。昴さんは頼れるお兄さん・・・・ですから」

「あぁ……」


 昨日の名残なのか、やたら心配する弥詠子さんに見送られ、いつもより早い朝の街を歩む。


 ――お兄さん。


 今までにない平折の呼び方に、どこか胸がざわつく。

 隣を歩く平折はいつもと同じように見えて――何かが違っていた。


「……?」

「……いや、何でもない」


 上手く説明できないが、昨日までと何かが決定的に違う様に思える。


 今まで人目があるところだと、身体に触れあうような事を避けていたが、そういうモノも無い。

 それに、平折から発する空気の様なものも違う。

 これまでおっかなびっくりだった距離感を感じない。


 遠慮が無くなった、とでも言うのだろうか?

 そこには俺に対する信頼感に似た何か・・・・があった。


 ――兄さん家族になって下さい、か。


 これはそういう・・・・事なのだろうか?


「…………行きましょう」

「ちょ、おい、待たな――」


 電車から降りた平折は、いつもの改札前で誰かを待つことなく、少し困った笑顔で俺の手を引く。

 朝の駅前ともなれば当然、同じ学校の生徒も多い。しかし平折は、そんな周囲の目を気にすることなく、俺の手を放そうとしない。


 何かがまた、少しずつ変わり始めようとしていた。


 ――その日初めて凜が遅刻したと、後日になって康寅から聞いた。




◇◇◇




「昴さん、お昼行きましょう?」

「っ、平折……あ、あぁ、わかった」


 昼になり、強引に俺を誘いに来た平折に手を取られて教室を出た。

 突然の出来事にうちのクラスメイトたちもビックリした視線をこちらに向けている。


 今まで仲が良いのは知られていたとはいえ、それはグループ単位でのことだ。

 平折が急にそんな行動を取れば、このクラスだけじゃなくても色々と耳目を集める。


 廊下に出れば、形容しがたい表情をしていた康寅と目が合い――苦笑された。俺はそれに手を上げて、すまないというポーズをとる。自分でも何がすまないと思っているか分からない。


 平折は周囲の事を気にしていないのか、それとも敢えて無視しているのだろうか?


 ともかく、あまり目立つわけにはいかない。


 購買でお昼を買った俺達は、人目を避けて非常階段へとやってきた。

 ここなら誰かに見つかることもないだろう。


 ……


 そんな事をする必要はないのだが、心の中で一言ごめんと、凛に謝る。


「こんな場所、あったんですね」

「っ!」


 物珍しそうに見渡した平折は、無造作に階段に腰掛けた。


 俺の事を異性として認識していないのか、その時にスカートを際どい所まで翻させる。そして所在なさげにする足も、どこかその辺のガードも緩い。

 だというのに当の平折本人は、それを気にした素振りはない。


 ……もし俺達が本当の兄妹だとしたら、この反応は自然なのかもしれない。


 だけど平折は俺と血が繋がっていない、一人の女の子だ。それもとびっきり可愛い美少女だ。


 正直、今朝からのやたらと近くて無防備な距離感は、その、色々と困る。


「…………ぁ」

「な、なんだ?」

「私のサンドイッチとメロンパン、半分こしましょ?」

「あ、あぁ」


 だというのに、俺の心境など知った事かと、無邪気な笑顔でハムレタスサンドを差し向けてくる。


「あー、そういや一昨日な、凛とひぃちゃんに俺と平折が義兄妹ってことを言ってしまった」

「そうですか……まぁ元から言うつもりでしたし、いつまでも隠すことも出来る事じゃありませんしね」

「……ごめん」

「別に大丈夫ですよ」


 気まずい気持ちを誤魔化す様に、そんな話をした。


 色々と気になることはある。

 凜とひぃちゃんのことは何とかしないとダメだろう。


 だけどこの2週間、焦燥し思い詰めていた平折の顔を思い出せば、今のような顔をされてしまうと何も言えなくなってしまう。


 愛想笑いを浮かべて相槌を打つだけの昼が過ぎていった。


 ……


 歯痒い気持ちがあるが、結局のところ、俺は平折が凜やひぃちゃんと、どうしてこういう状況になっているのか、その原因はわからない。


 しかしひぃちゃんに関しては、比較的なんとかなるんじゃないかという思いがあった。


 多少すれ違いがあることに気付いていたが、一昨日の平折との約束をすっぽかした件に関しては、有瀬直樹の登場というイレギュラーによるものだ。

 平折とは行き違いがあって言い辛いかもしれないが、俺が仲介すれば何とかなるんじゃないだろうか?


 今まで平折の問題だからと出しゃばらない様にしていたが、もはやそう言っていられる場合じゃないだろう。


 だから俺はひぃちゃんと話をしようとした。


「なぁ、ひぃちゃ――」

「――っ! ごめんなさい、今ちょっと」


「ちょっと話を――」

「――っ! 今忙しくて……」


 しかし接触しようと試みるも、平折の時と同じように避けられているかのようだった。

 それは学校だけじゃなく、今日の撮影が終わってからも続いていた。偶然か何かを装っていて、真実他の人ならそうだと思ったに違いない。さすがモデルとして様々な表情を作ってきたプロだけはある。


 だけど――あまりにもそれは、再婚当時出会ったばかりの平折の姿と重なってしまった。


 何かを言いたくて、でも言えなくて……しかし誰かに救いを求め藻掻いているように見えてしまう。

 そしてそれは、かつての平折だけでなく、寂しさを誰にも言えなかった自分自身にも重なってしまった。


 ――放っておく、なんて出来ないよな。


 だから俺に、それを放置するなんて言う選択肢は取れず、そそくさとスタジオを去るひぃちゃんを追いかけようとして――


「昴さんっ!」

「っ、平折?!」


 ――平折に手を掴まれてしまった。


 その顔は、今から俺が何かイケナイ事をしようとしているのかと錯覚するくらい、不安に彩られていた。


「ちゃんと……私の下へ帰ってきますよね?」

「当たり前だろ?」


 俺は精一杯の笑顔を作って、そう答えた。

 弥詠子さんに頼まれているという事もあって、平折を一人にするつもりはない。


 そして平折は、俺がそうするのは性分だと理解しているのか、止めるつもりはないようだった。


 だから俺は――


 平折の気持ちを深く考えることなく、ひぃちゃんを追いかけて走り出した。

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