第30話 *とある過去の出会いと、決意
それは仕事も終わった日が暮れた時のこと。
昴の父、倉井晴也はめったに掛かってこない息子からの通話を受け取っていた。
『さっきは急に電話切って悪ぃ、平折が目を覚まして……あぁ、平折は微熱程度で大丈夫そうだ。だけど弥詠子さんの様子がちょっと……親父、こっちに戻って来られないか?』
「ふむ……1日、いや今晩だけは昴に任せていいかい?
『うん……悪ぃ』
「はは、こういう時は親の出番さ」
『そっか……』
どうやら義娘の平折が風邪をひき、弥詠子も話を聞くに、どうも情緒不安定になっているらしい。
平折の方は病院でも見てもらっており、風邪というより慣れない仕事で体調を崩した側面の方が強く、安静にしていれば大丈夫との事。
それよりも、弥詠子の状態のことのほうが気にかかる。
何か良くない予感がした。
それは倉井晴也が、彼女と再婚を言い出した時の事を髣髴とさせた。
「かといって、仕事をほったらかして帰っても、きっと怒られてしまうよね」
そう言いながら、倉井晴也は手元の資料を片手に、ノートPCと向き合う作業に入る。
彼の職業は建築意匠設計士、いわゆる建築デザイナーだ。
それなりに名の通った事務所に所属し、主に都市ビルや図書館、駅舎など、公共性の高いものを手掛けている。
大きな箱モノを手掛ける為、1つのプロジェクトは数か月~年単位のものが多い。
設計責任者であり現場主義者でもある彼は、地方で手掛ける案件はクライアントのいる現地に住んで連絡を密に取ることを是としていた。
当然、急に彼が抜けるとプロジェクトにも支障がでる。
だというのに、唐突な息子の要請にも関わらず、驚くほどスムーズに自分が居なくても仕事が回る様に計画書を改定していく。
「僕は父親だからね、家族を守らないと……じゃないと、また怒られてしまう」
誰に言うまでもなく独り言ちる。
――しっかりしなさい、あなたは父親でしょう?!
そして彼は、弥詠子に出会った時の言葉を思い出した。
今考えてみても、30を越えるいい歳をした大人が出合い頭に言われるような台詞じゃなくて、思わず変な笑いが零れてしまう。
それだけ、当時の倉井晴也は焦燥しきっていたのだった。
……
彼の前妻、昴の産みの母とは、ご近所の幼馴染同士という間柄だった。
物心ついた時には、少し強引でちょっと気が強いけれども、情の深い彼女に引っ張られるのが日常になっていた。
お食い初めに七五三、小中高大の入学式に卒業式、アルバムには常に彼女と共にある。
喧嘩もしたし、揉めたことも一度や二度ではない。だけどその分だけの仲直りも重ね、それだけ確かな信頼と絆を重ねてきた。
気付けば誰よりも一緒におり、隣にいるのは当たり前。そんな2人が結婚に至るのは必然としか言いようがない。
これからの長い人生、それが続いて行くことを互いに信じて疑わなかった。
だけど、彼女は白血病に罹ってしまった。
『ちょっと身体の悪い部分を退治するだけだって。来年からは昴も小学生だし、伏せってはいられないよ。それに私に何かあったらはるくんは泣くでしょ? だから、わたしの快癒祝いを何にするか考えといてよ。ほら、子供の頃こういう家に住みたいなって考えた家とかあったよね、おばあちゃんになったら、孫が来たいって言いたくなる家ってやつ。それを図面に起こしといてね』
いつものようにケラケラと笑い、戸惑う倉井晴也にむしろ発破をかけた。
ここでは死んでいられない、まだまだ人生やる事があるのだと、私がいなきゃアンタはダメだし、息子の為にも死んでたまるもんですか、と。
――だけど、あまりに彼女はあっさりと逝ってしまった。
『……ごめんね、はるくんはわたしみたいに悔いを残しちゃダメだよ』
最期の最期まで自分の夫と息子を案じ、そんな言葉だけを残して息を引き取った。
進行があまりに早く、苦しまず逝けたことが、せめてもの救いだったのかもしれない。
しかし倉井晴也は、彼女の死を受け入れるにはあまりに若すぎた。
幼い頃から、年老いて果てるまでの人生を、冗談交じりに語り合ってきた相手でもある。
彼女を喪うという事は、正しく半身を引き裂かれるに等しい気持ちだった。
今にも後を追いそうだった彼を繋ぎ止めたのは、辛うじて残った理性が『昴を頼む』という彼女の言葉だった。
そして、倉井晴也は仕事に逃避した。
一体誰が、それを非難できようか?
何かに憑りつかれたかのように仕事を抱え、一人になっても不満の声一つ上げぬ息子に甘える形で、のめり込んでいく。
吉田弥詠子と出会ったのは、そんな時だった。
切っ掛けは、昴が打撲と肺炎により救急車で運ばれたという、病院からの連絡である。
それは昴が、崖から転落した平折と陽乃を庇って下敷きになり雨に打たれたのが原因だった。
呆然とした倉井晴也が見たのは、呼びかけても反応が無い息子の姿。
『あ゛ぁあ゛ああ゛ぁあぁあ゛あ゛ぁぁあぁあぁーーっ!!!』
その瞬間、否応にも冷たくなっていく幼馴染でもあるかつての妻を想い起こさせ――吠えた。
病院だと言う事を気にも掛けず、人目も憚らず吠えた。
彼女だけじゃなく、その忘れ形見すら奪っていくのかと、運命を呪う。
『しっかりしなさい、あなたは父親でしょう?!』
そんな彼を叱責したのが、娘を助けてくれた男の子へと礼を言いに来た弥詠子だった。
しかしそれは、倉井晴也を逆上させる言葉にしかなり得ない。
返した言葉は何だっただろうか?
何も知らないくせに、妻も息子も喪おうとする親の気持ちがわかるのか、あなたに言われる筋合いは無い――詳しくは覚えていないが、あらん限りの罵倒だったはずだ。
『色々あったけど、私には平折が居たわ……あなたには昴君がいたのでしょう?!』
しかしその返事は、涙声の彼女の慟哭と平手打ちだった。
倉井晴也にとって、それは衝撃だった。
何かを言い返そうとしようにも、弥詠子の言葉と涙には、並々ならぬ思いがあることを感じ取ってしまったからだ。
――不幸な身の上は自分だけじゃない。
それだけじゃなく、子供の為にやれることを全力で取り組んでいる親の姿。それをこれでもかと見せられた。
切っ掛けは確かに無茶苦茶なだったかもしれない。
だけど、確かに倉井晴也の意識を変えるものとなった。
この日から倉井晴也と弥詠子との交流が始まる。
それは主に、片親同士の子供に対する意見交換といったものだ。
また、当時仕事に没頭するあまり、不摂生を極めていた倉井晴也を放っておけなかったというのもある。
さすがに小学生の息子より栄養状態が悪いというのは笑い話にも出来ない。
正しく『同志』、という言葉が当てはまる関係だった。
そこに恋愛感情はなく、子供の為にどうすればいいかを話し合い、支え合うような関係だ。
子供の節目節目のイベントの事を相談し合い、愚痴を言い合う……そんな大人同士の交流を続けていた。
そもそも倉井晴也の心には、既に一人の女性が占めている。それは決して、一生変わることも無いだろう。
ともかく、彼は弥詠子に救われた形となった。
彼にとって弥詠子という女性は恩人と言える。
だがいつだって、転機というのは急に訪れてしまう。
当時の倉井晴也は、近くのショッピングモールのデザインを手掛けていた。
オープンして数か月、追加でイベント舞台のスペースの事で相談があると訪れていた時の事だ。
『すまないが吉田さん、今月いっぱいで辞めてもらいたい。有力者に目を付けられると潰れるしかないんだ……』
『そんな、急に言われても生活が……っ』
『有瀬家……これ以上言わなくてもわかるよね?』
『っ、わ、わかり、ました……』
バックヤードでたまたま見かけたそれは、理不尽としか言いようのない光景だった。
有瀬家――その名前を聞いて、いっそ哀れなほどに身を震わせ、青褪めた顔をする弥詠子の姿を見てしまう。
倉井晴也はそれまでの交流で、彼女が職を転々としていることに気付いていた。
立ち入った事こそ聞いていないが、経済的に困窮しているのはすぐにわかったし、何かしらややこしい事情があるのは百も承知だった。
しかし倉井晴也は理不尽なまでに妻を喪った過去と、どん底に居た自分を救い上げてくれたという恩がある。
数年にわたってお互いの子供の事を話してきたこともあり、他人というには深く入り込みすぎていた。
『……ごめんね、はるくんはわたしみたいに悔いを残しちゃダメだよ』
その時不意に、妻の最期の言葉を思い出した。
『弥詠子さん、結婚しよう。君たち2人くらい養ってみせる』
『は、晴也さんっ?! い、いきなり何を……っ?! え、結婚?!』
『ははっ、何でだろう……妻がね、何かそうしろって言った気がして、しなきゃ怒られる気がして……あぁ、こんな時に妻の事を言うのは変だね、ゴメン……』
『いえ、そんな……』
それは恋ではなく義憤だった。しかしそれでいて、やはり愛の1つでもあった。
だがその事に、倉井晴也は今もまだ気付いていない。
思えば歪な再婚だ。
未だに弥詠子とは肌を合わせたことは、一度たりともない。
彼の中で
「有瀬直樹……色々調べさせてもらったよ。僕は
呟く彼の手には
それは倉井晴也にとって、宣戦布告を受けて立つという意思表明でもあった。
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