第29話 *平折が求めたもの
『平折! しっかりしろ、平折!』
薄ぼんやりとした意識の中、自分の名前を呼ぶ声がする。
焦った様な声色に、仄かに感じる誰かの体温。そしてどこか揺さぶられるかのような感覚。
どうやら背負われているようだった。
「あ、れ……」
「平折?!」
目の前には、ずっと見てきた背中。
無意識のうちに、ぎゅっと腕に力をいれようとするが――上手くいかない。
(私、どうして……)
朦朧とする意識の中、自分がどうなったのかと記憶を手繰り寄せる。
しかしいくら何があったか思い出そうとしても、寒空の下で待ちぼうける自分の姿ばかり。
どうやら陽乃ではなく、昴が来たということだけはわかった。
(そういえば、あの時も……)
フラフラで背負われている状況に、既視感めいたものを感じる。
再び薄れゆく意識の中、平折は自分の転機となったその出来事に思いを馳せた。
◇◇◇
その日も同じような雨の日だったのを、よく覚えている。
中学に上がってすぐのGW、再婚したばかりの平折達は親交を深めるための、旅行先での出来事だった。
「ううん、生憎の雨で残念だね」
「いいえ、この素敵な街並みを歩いて温泉に入るだけでも十分ですよ」
「……色んな所で湯気が立ってる」
「……」
やってきたのは古風な街並みが魅力の、昔から栄える山間にある温泉地だった。
特にこれといったレジャーはなく、風光明媚な景色と、幾多の温泉くらいしかない。
しかしその方が新しく出来た家族にとっては会話をするきっかけになり、選択肢としては間違ったものではないだろう。
平折とてそれがわからないわけじゃない。
この旅行を台無しにするつもりもないし、母の事を思えば、表面上だけでも上手くやれればと思う。
「んっ」
「っ?!」
不意に差し出された手に、ビクリと身を震わせ身構えてしまった。
過剰な反応を変に思われていないかと、思わず昴と両親の顔色を伺うかのように見てしまう。
「温泉まんじゅう、お前の分」
「ぁ、ぁりがとう……」
当時の平折は、この義兄になった少年に、複雑な思いを抱いていた。
義兄は決して愛想が良い人柄じゃなかった。
暮らし始めてからというもの、むしろ自分に素っ気なく無関心に思えるほどの態度だ。
だというのに、今みたいにそれとなく気を遣ってくれる事が多い。
平折にとって、それはたとえ善意からであろうと、異性に手を差し伸べられるというのはトラウマを刺激させられるものだ。
ことある度にそれをされると、どうしていいかわからなかった。
――いっそ、放っておいてくれればいいのに。
自分でも可愛げのない態度を取っている自覚はある。
「橋の下に温泉があるんですね」
「川の水で冷やして入れるようになっているみたいだね」
「――冬は雪を見ながら入れるって」
「まぁ、それは素敵ね!」
「はは、次は冬に来ないと」
そんな平折の心境とはよそに、雨の日の温泉街を家族で歩く。
仲睦まじそうにする両親に、素っ気なく話を振る義兄。幸せそうに映る家族の姿。
なんだか自分が酷く場違いに思えた。
『お前さえ居なければ』
こんな時だというのに、実父に刷り込まれた言葉を思い出す。
目の前の和やかな姿とは裏腹に、平折の心に影を落とし俯いてしまう。
「……おい、お前」
「――っ!?」
またも不意に差し出された手を、今度は驚きから振り払うように叩いてしまった。
そんな事をするのは初めてだった。自分だけじゃなく義兄もびっくりして目を見開いている。
「その、置いていかれるぞって……」
「ぇ……ぁ……」
そう言って昴は、所在なさげになった手でポリポリと頭を掻く。
何だか上手く噛み合っていなかった。
せっかく新しい家族を馴染ませようとする趣旨の旅行はしかし、平折は自分だけが浮いているという気持ちを膨らませていく。
「行こう」
だというのに彼は、そんな平折の心を知らず、またもぶっきらぼうに手を差し伸べる。
「――――嫌っ!」
「お前……?」
「平折ちゃん?」
「平折……?」
突然の大声に、どうした事かと昴だけじゃなく両親も振り返った。
どこか心配そうに見つめる彼らに、そんな顔をさせているのが自分だと思うと、居た堪れなくなる。
「っ!」
「あ、おいっ!」
平折は傘を放り投げ、弾かれたようにその場を全力で逃げ出した。
新しい生活を初めて3か月、自身を抑圧してきた平折の心は、ついに限界を迎えつつあった。
…………
……
平折は雨の中をひたすら走った。
誰にも見つかりたくないと人気のない方へと走り続け、気付けば山の森の中へと足を踏み入れていた。
――あぁ、これでいいんだ。
そんな事を考える。
自分なんていない方がきっと上手くいく。
だからここに居たほうがお似合いだと思い、へたり込んだ。
降り続ける雨は平折の身体から熱を奪い、そして心をも凍てつかせていく。
周囲には灯りも人の気配も無く、木々の葉を叩く雨の音だけが聞こえる。
その森閑さがどうしようもなく、自分は一人なのだと感じさせられてしまった。
孤独、だった。
「…………ぁ」
その事を自覚すると、嗚咽の様に変な声が漏れてしまった。
意味も分からず目からは涙も零れてしまう。
自分でもどういう状況になっているのかわからない。
とうに平折の心は限界だった。
いっそこのまま壊れてしまったほうが、楽になるに違いない。
あぁ、自分は一人のままなんだ――その事を受け入れようとした時の事だった。
「……ここに居たのか」
「……………………ぇ?」
だが彼は、それを許してくれなかった。
随分とボロボロの姿だった。
自分と同じようにずぶ濡れで、山道を走り回ったせいか衣服も破れ、顔や手足に傷も作っている。
平折はどうして、そこまでしてまで自分を追いかけてきたのか分からなかった。
「帰るぞ」
またしてもそんな事を知った事かとばかりに、いつものように手を差し伸べてくる。
それが
とても
気に入らなかった。
「――っ!」
今度はその手を、自分の意志で、思いっきり跳ね除けた。
「お前……?」
「わ、私は
限界を迎え決壊した感情はベクトルを変え、目の前の存在へとぶつけられる。
「その手も嫌っ、構わないでっ、どうしてこんなことをするの……っ」
嗚咽と共に、心に沸き上がったものを、ただただ口から吐き出していく。
そこに理屈も意味もなく、傍から聞けば支離滅裂とも思える言葉の羅列だ。
困った顔で罵声を受け止める義兄の顔は、平折を逆上させるだけに他ならない。
それは平折の生まれて初めての癇癪だった。我儘だった。
今まで抑制され続けた思いが溢れ出しただけのものでしかない。
「……あ」
「おま――平折っ!」
一気に感情を爆発させた平折は、体力を使い果たして気を失いそうになる。
駆け寄った昴は、咄嗟に手を伸ばして平折を支え、そして背中に乗せた。
「……帰ろう」
「…………」
義兄に背負われて山道を降りる。
言いたいことは色々とあったが、その気力は既に無かった。
体力も消耗しきっていた平折は、意識も途切れそうになっていた。
どうして自分にそこまでしてくれるのか、平折は心底それがわからなかった。
「あぁ俺、新しい家族が出来て嬉しかったんだ」
薄れゆく意識で、そんな呟きを拾う。
――家族、だから。
それはするりと平折の心へと入り込んだ。
◇◇◇
目を覚ますと、自分の部屋だった。
「平折は大丈夫そうだ。だけど、弥詠子さんが……あぁ、だから親父、帰っ――」
「――昴、さん……?」
どうやら、家にまで運んでくれていたらしい。
電話の相手は義父だろうか?
「悪い、起こしてしまったか? 風邪だそうだ、スポーツドリンクはそこだ。邪魔したな、出――」
「――待って!」
用件を告げて出ていこうとする昴の手を、咄嗟に掴む。
「1人は、嫌です……」
「そうか……」
今はなんだか一人になりたくなかった。
結局、陽乃は約束の場所に来なかった。
何か理由か用事があったのかもしれない。
だけど、自分が見捨てられてしまったのかのように感じてしまった。
そんな弱った気持ちだったから、寄りかかるものが欲しかった。
「……」
「……」
いつものように無言の時間が流れる。
つい先ほど昔の夢を見た事が関係しているのかもしれない。
平折はあの日差し出された手を掴んだ時と同じように、昴に縋りつく。
せっかく、全てが上手くいっていると思ってた。
だけど何かが噛み合っていなかった。
「この間のお願いを聞いてくれるって約束、覚えてますか?」
「あぁ、でも風邪に関する事ならそんなこと関係なく聞くぞ」
「家族に、なってください」
「……平折?」
どこか、きょとんとした返事が返って来る。
傍から聞けば、質問の趣旨もわからないことだろう。
しかし、その辺りを上手く説明しようと言葉を選ぶほど、今の平折には余裕がなかった。
「私のっ、
「何を言って……」
平折は昴に対する好意の根底が、ある種の依存に似たものだという自覚はあった。
どういう種類の好意かを図りかねているところもあった。
だからこそ、兄妹という枠組みを頑なに否定していた。
しかし今は、心の拠り所となる、確かなものが欲しかった。
「兄、さん……」
それは平折の心を縛る呪いの言葉になった。
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