第28話 *向き合うべきは


 それは陽乃にとっても、不意を突かれた出来事だった。


「すぅ、くん……? ……え?」


 陽乃は混乱の極致にあった。

 色々な事が一度に起こり過ぎて、頭が理解に追い付かない。

 実父に無理矢理掴まれた腕と髪をさすりながら、目の前の状況を見る。


 怒りをあらわにした昴が、体当たりさながら有瀬直樹に掴み掛かる。


「何が父親だ! お前に捨てられた平折が、どんな思いで生きてきたか……男性恐怖症になったのもお前のせいだろうが!」

「う、ぐっ……君は?! えぇい、誰かこの暴力を奮うこの男を取り押さえなさいっ……!」

「見ただろう、アンタを目の前にして青褪め震えて動けなくなる平折を……街でも学校でも、男に強く迫られたり2人にされたりすると、ああなっちまうんだ!」

「誰か!」


 床へ尻もちをついた有瀬直樹を、憤りをぶつけるように揺さぶる様は、詰問というより暴力と言ってもいいだろう。

 それに昴は明らかに興奮状態だ。いつ本当に拳を振り上げてもおかしくはない。理屈で言えば、彼の言う通り取り押さえるべきだ。


 だというのに、誰一人として昴に近付こうとする者さえいない。


(男性恐怖症って、どういう事……?)


 皆が動かないのは、興味からなのか衝撃からなのか……昴の口から次々もたらされる情報に、どうしていいか分からなくなっている。


 陽乃が平折と再会したのは、駅前で皆と試験勉強をしに行く時の事だった。

 その時の印象は、大人しそうだけれど普通の女の子。

 少し嫉妬してしまうくらい、高校生活を謳歌している様に見えたほどだ。


(そう言えばホテルでお父さんを前にした時のおねぇちゃん、震えて……あれを他の人でも……)


 しかし昴の前での平折はごく自然体だった。

 もし男性恐怖症だとしたら、2人の間にどれほどの信頼や絆があるのだろうか? それこそ、家族だからなのだろうか?


『好きです。好きですよ、大好きです。だけど――』


 先日のわだかまりのきっかけになった言葉を思い出す。

 一体、あの言葉にどれほどの意味が込められていたのだろう?

 だからこそ、先日の言葉が陽乃に重く伸し掛かってくる。


 もしかして、あれが何か助けを求めるサインだとしたら――


(おねえちゃん、は……っ!)


 ギッ、と奥歯を噛みしめていた。

 ちゃんと言葉で形にしてくれない不器用な異母姉と、その事に気付けない自分に怒りすら湧いてくる。


 そしてこの場には、陽乃以外にも許せない気持ちになっている少女がいた。


「興味深い話ね、あたしからも質問いいかしら?」

「り、凛……」

「けほっ、けほっ」


 凜は口元に笑みを浮かべながら近付き、昴と有瀬直樹を引き離す。

 仲裁に入った様に見えて、そうでないことは、彼女の全く笑っていない目を見れば一目瞭然だ。

 そのあまりの迫力に、周囲だけでなく声を荒げていた昴も口を噤む。


「ね、昴……平折ちゃんが妹ってどういう事かしら? 妹分っていう意味でもないわよね、同級生だし」

「……数年前に親が再婚してからの、連れ子同士なんだ」

「へぇ、初めて聞いた……どうして?」

「どうして、って……」

「どうして! 昴も平折ちゃんも! どうしてそんな大切な事黙ってたの?! どうして……っ?!」


 凜の顔が剣呑なものに変わり、今度は凜が声を荒げる。

 その胸に抱えきれなくなったものを吐き出す為の慟哭だった。


 もはや敵意にも似た感情を隠そうともせず昴に詰め寄り、だというのに凜の目には、今にも溢れ出しそうな程の涙を湛えている。


「親友だって思ってた……信じてた……っ! なのにそんな大切な事を黙ってて、色々知らないフリをして……裏ではあたしのこと笑ってたんじゃ――」

「――っ、そんなの、親友だから言えなかったに決まってるだろうが!」


 しかし昴の口から返されたのは、苛立ちと悲哀混じりの咆哮だった。


「凛とは対等の関係でいたかったから、どこにでもいる普通の女の子として接したかったからこそ、言わなかったんだろう? 親友だから同情されたくもなかったし、問題に巻き込みたくなかった……凜だってアカツキグループの事黙ってたのも同じ気持ちだったからじゃないのか?」

「それ、は……」


 凜の言葉が尻すぼみになった。


「……」

「……」


 先ほどまでの喧騒とは打って変わって静寂が訪れる。


 凜は俯きながら震えていた。それほど昴の言葉は凜に突き刺さるものだった。

 それは陽乃にとっても同じだった。


(同、情……あぁ、そうなんだ、私……おねぇちゃんを言い訳にして……)


 かつて平折の立場を決定的にした、幼少期の崖からの転落事件を思い出す。

 平折を救いたいと言いながらその実、自分がやらかしてしまったことの贖罪のために、平折を利用していただけということに、気付いてしまった。気付かされてしまった。


 結局のところ、陽乃は平折どころか自分ともしっかりと向き合えていなかったのだ。


 だからこそ、自分の中のイメージとは違う発言をした平折に、勝手にわだかまりを生んでしまい、今日だって避けて――


「――あ、おねぇちゃん!!」


「っ?!」

「……ひぃちゃん?」


 今度は陽乃が大きな声を出した。

 打ち合わせが思ったよりも長引いたとか、有瀬直樹が突然に訪れたというのがある。


 しかしそれは、あれから2時間近くも平折を待たせている言い訳にはならない。


「屋上! 待ってる! 2時間も!」

「え、外は雨よ……?」

「くっ、平折っ!」


 慌て過ぎたせいか、飛び出す言葉は文法のていを為さない単語だけだった。


 しかしすぐさまその意味を理解した昴は、まごつく陽乃をよそに一直線に屋上へと駆け出す。

 昴と同じく弾かれたように走り出した凜は――どうしたことか、扉に手をかけることなく立ち止まり、昴を見送った。


 コホンと咳ばらいをして振り返った凜は、先程の激情ぶりとは打って変わって冷静さを取り戻していた。

 そして何かの覚悟を決めたかのような、吹っ切れた表情をしている。


 とても――こんな状況だというのに見惚れてしまう程、とても綺麗な顔をしていた。


「見苦しいものをお見せしました。そう言えば有瀬本部長、打ち合わせ・・・・・に来たと仰っておられましたね」

「……へ」


 思わず変な声が漏れた。

 こんな時に何を、という疑問が零れたものだ。


「色々動いておられるようですが、こちらの都合というものもあります。誰か、彼を席へ……さぁ、しっかりと打ち合わせ・・・・・をしましょう?」


 有無を言わさぬ表情でひとを動かし、有瀬直樹を逃さぬよう席へ縫い付ける。

 そこについ先ほどまで昴と平折の事で声を荒げ、有瀬直樹に揺さぶられうろたえる少女の姿はどこにもなく――


 ――人が殻を破って成長する瞬間を、初めて見てしまった。


 ひるがえって自分はどうだろうか?、

 昴の後を追いかける事も出来ず、さりとてこの場で何か意見を言う事も出来ずまごつくだけ。


 どっちつかず――陽乃はそんな自分が滑稽に感じるのだった。




◇◇◇




 次の日、昴と平折は学校を休んだ。


 あの後、平折は雨の中で倒れていたのを発見され騒ぎとなった。

 救急車こそ呼ばれはしなかったものの、社用車で夜間救急へと運ばれたという。


「平折ちゃん風邪だって。寝不足、疲労、雨とまぁ、原因は色々。暫く休養を兼ねて休むって……昴から」

「あ、うん。こっちにもすぅくんから似たようなメッセージ入ってました」

「そう……」

「……」


 昼休み陽乃と凜だけだった。

 元から平折を通じての知り合いと言える2人は、特に会話に花が咲くこともない。

 話題と言えば、もっぱら平折に関する事務連絡めいたものだけ。


 さらにお互い昨日の事もあって、何かを話したいのだが、何を話して良いのかわからないという状態だった。


「……昨日の事」

「……はい?」

「昨日の事、陽乃さんは知ってたの?」

「いえ、昨日が初耳でしたよ」

「そっか、皆知らなかったのかな?」

「多分きっと、あの2人以外は誰も」


 凜が纏う空気は、明らかに昨日までと違ったものになっていた。

 どこか晴れやかで、それでいて包み込むような、懐の深さを感じる。


「でもあたし、まだ平折ちゃんを許さないけどね」

「そう、ですか……」


 だというのに、それとは正反対の言葉を笑顔でのたまう。

 それがとても眩しくて、何だか無性に陽乃は凜が羨ましかった。


 ……


 放課後、陽乃は昴の家へと向かった。


 平折のお見舞い、という題目だ。


(ええっと、アプリだとこっちの方か……)


 何故か学校で見た名簿には、昴と平折の住所は別々に記載されており、2人が義兄妹だとバレない手の込みようだった。

 それも有瀬直樹の目をくらませる為なのだろうか?


 慣れない住宅街を迷いつつ、なんとか目的地に到着した。


(普通の一軒家、って感じね……)


 ここに平折と、そして昴が住んでいる。

 そう思うと不思議な感覚に襲われ――足が竦んでしまった。


 二時間近くも雨の中で待たせ、風邪で寝込むことになった原因は陽乃だ。

 もしかしたら、会う事を拒絶されるかもしれない。

 そう思うと怖くてたまらない。


 だけどこのままだと何も変わらない。


 意を決してインターホンを押そうとした時、不意にドアが開いた。


「飲み物や解熱シートを買ってくるので、平折をお願いね、すば……る……く……」

「……あ」


 そこから現れたのは平折の母、弥詠子だった。

 陽乃はおぼろげな記憶から、そうだと判断し、そして動揺する。


「……」

「……」


 彼女からしてみれば、陽乃は何とも言えない立場の存在だ。恨まれていないと考える方が難しい。

 だけどそれでも、異母姉である平折は受け入れてくれた。

 しっかりと誠意を見せれば――罵声や平手打ちの1つや2つは覚悟しなければならないが、それでも、と思い向き直る。


「私、その、有瀬の……っ」

「あなた、陽乃さん、ですか……?」


 だが弥詠子の反応は、思いもよらぬものだった。


「おねぇっ、違、平折さんの……」

「お願い……平折だけは奪わないでください……」

「……え?」


 まるで何かのスイッチが入ったかのように身体を小刻みに震わせ、顔色は今すぐ倒れそうなほど青褪めている。


 それは先日、ホテルで有瀬直樹に相対した平折の反応と酷似していた。


「お願いします、他ならなんでも……だけど、私から平折だけは、奪わないでください……っ! お願いします……お願いします……お願いします……」

「そんなっ、違っ……!」


 その場で崩れ落ちたかと思えば、額を地面に擦り付け懇願する。


 明らかに有瀬の者に対するトラウマから来るものだった。

 一体父は――自分たち有瀬家はどれほどの事をこの母娘にしたというのだろうか?


「――っ!」


 居た堪れなくなった陽乃は、その場を駆け出した。


 ――自分は彼女達に許されない事をした人間なのだと、彼女達の人生を滅茶苦茶にした一人なのだと、突き付けられたかのようだった。


 涙が溢れそうになってしまうが、そうはさせないとばかりに無理矢理に天を仰いで押さえつける。

 泣くのは陽乃自身が許さなかった。


 空は昨日と同じく、今にも泣きだしそうな表情をしていた。

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